「はぁはぁ……! あとは……、アナタ一人だけね……!」
肩を大きく上下に揺らし、滝汗を流しているいかにも疲労困憊といったセレスティア。浮き出ていた血管は薄くなり、あれほど猛々しく逸っていた電気も静電気の様に弱々しくなっていた。
それでも戦意は衰えていない。吊り上がった双眸は、悠然と佇むエヴァンスを捉えていた。
「ふん、満身創痍のくせに威勢だけはいいな。その
「なん……だ、アンタは知ってたんだ……。油断してたら、噛みついてやろうと……思ってたのに」
「この私をあの様な雑兵と同列に扱うな。私はC機関治安維持軍三十二部隊隊長、エヴァンス・ヴィクトールだぞ。我らが機関が生み出した恥の存在くらい認知しておるわ」
セレスティアが自らに打ち込んだ【L・A・R】と呼ばれたあの薬。それによってもたらされた『人間』としての領分を遥かに超えた力は途轍もない負担を強いていた。
重力が数倍になったかの様に身体は重く、手足は痺れ、頭の中は激しい痛みが蝕んでいる。
視界はクリアで意識がハッキリしているのが、またより苦痛を誘っていた。
「もっとも、そんな恥を無様にも持ち出しコピーした恥知らずがここにはいたようだがな」
「はっ、失敗を成功の元と捉えられないなんて……、それが天下のC機関の言葉? そんなんだから……、アンタらは世界を救えないのよ……」
「自分たちなら救えるとでも言いたげな物言いだな。底辺に住まう者は、ほんの少しの成功体験でありもしない万能感に酔いしれるから困る。思い上がるのも大概にしろ!!」
裂帛の一声。エヴァンスはホルダーから拳銃を抜き、数発の腐蝕弾を放つ。
それを倒れ込む様にしてなんとか避けたセレスティアだが、その眼前には既にエヴァンスの右脚が迫っていた。
「高く伸びすぎた鼻っ柱はとっとと折ってやらんとな」
「ガッッッ……!」
唸りを上げながら振り上げられる右脚が彼女の顔面を完璧に捉える。
極度の疲労から衝撃を緩和する事も出来ず、跳ね上がられた顔面は血だらけ。
鼻から響く鈍痛に思わず顔を右手で覆うと、死角となった部分から今度は左脚が飛んできた。
「うぐっ……!」
ボキリッと右腕がへし折られる。左腕は電気の影響によって皮膚が亀裂状に割れており、こちらも血だらけ。
両腕はまともに動かせず、満身創痍。人形の様に美しく整っていた顔は大きく腫れ上がり、血に染まって見るも無残な姿に成り果てていた。
「はぁはぁ……」
「まるで糸の切れたマリオネットの様だな。せめてもの慈悲だ、この一発で終わらせてやろう」
銃口が突き付けられる。
激痛と疲労が重なり、セレスティアはもう一歩も動けない。
あと、一ミリでもエヴァンスが人差し指を動かせば刹那のうちに彼女の命は尽きる。
「さらばだ。恨むのなら、全ての責任を貴様に押しつけた父親を恨むんだな」
「——ッ……! 誰が……!」
最期の瞬間まで、抗う意志を見せるセレスティア。それを無視してエヴァンスは引き金を——
「———タスけなキャ……」
鼓膜を大きく震わした発砲音。
しかし、腐蝕弾が放たれたのは先は空の遥か向こう。
驚愕に双眸を震わせたセレスティアの瞳の中には、左手で拳銃を持つエヴァンスの腕を持ち上げた
「は……?」
「え……?」
エヴァンスとセレスティアの思考がここだけ一致する。
心臓と喉を破壊され、息絶えたはずのキソラ。それがなぜか生きているどころか、二人がキソラから感じる活力はあまりにも満ち満ちている。
エヴァンスを空虚に見つめるその瞳は蒼く輝き、掴み上げる腕は万力の様に力強い。なにより、腐蝕していた傷が塞がり——否、瑞々しい肌のそれは、もはや再生の域だった。
「き、貴様……!? なぜ生きている……!? しかも、なぜ傷が……! いや、そもそも貴様はなんなのだ……!? 貴様の様な人間がいるなぞ、情報にはなかったぞ……!?」
なぜ、なぜ、なぜ——とエヴァンスの脳内は大混乱。
ミチミチと握り締められる右腕に痛みを覚えながら、唾を飛ばす勢いで疑問を投げかけることしかできない。
それに対してキソラの返答は——
「タスけなキャ」
「ぐああああああああ!!」
無感動に呟きながら、ぐちゅりとエヴァンスの腕を握りつぶす。
ひしゃげた腕。こぼれる拳銃。それでもキソラは腕を離さない。
「この……! バケモノが!!」
痛みに必死に耐え、脂汗をかいたエヴァンスが左手でもう一丁の拳銃を取り出し使い物にならなくなった右腕に腐蝕弾を放つ。
キソラに直接向けなかったのは、本能が攻撃よりもここから逃げ出すことを優先したからか。
腐蝕弾はエヴァンスの肘を破壊するが、腕が腐り墜ちたことで強制的にキソラから離れられることに成功。
そこでようやく、キソラに向かって腐蝕弾を放った。
「—————」
そんな決死の攻撃は今のキソラに届きもしない。
眼前に迫った四発の腐蝕弾は、
「なっ……!」
「それって……!?」
目の前で起きた事象に目を見開く二人。たった一人で起こす異常な光景に、二人は混乱するばかり。
その混乱を落ち着かせる暇をキソラは与えない。
「———ッ!」
固まっているエヴァンスに一瞬で間合いを詰めると、右手でエヴァンスの左腕を、左手で顔面を掴み、勢いそのままビルの壁に押しつけた。
「ガッ……!」
後頭部が潰れる音と硬い壁が壊れる破砕音が同時に響く。
壁には亀裂が入り、凹んだ壁にはエヴァンスの血がべったりと付く。
既に致命傷。目は虚ろになり、力が抜けたエヴァンスの身体はダラリとキソラの左手の中に収まった。
「バイバイ」
轟ッと、エヴァンスが業火に包まれる。
猛々しく燃え上がる炎は脂が焼ける異臭すらも消し飛ばし、火葬されたエヴァンスは塵も残らずこの世から消え去った。
「なんて火力なの……。なのに、あの綺麗なままの肌……」
混乱によって痛みも忘れ、慄くセレスティアが思わず尻もちを付く。
その音に気付いたキソラが、左腕を振りながら彼女へと近づいていった。
「————」
「な、なに……!?」
若干怯えるセレスティアに、おもむろにキソラは彼女の頬を触る。
肌から感じる柔らかな感触、温かい体温、命の鼓動。キソラが生きている証をセレスティアが味わっていると、頬を優しく撫でられた。
「ん……」
零れるセレスティアの吐息。
キソラが彼女の血化粧を丁寧に拭い終わると、キソラは踵を返し無言でここまで来た道をそのまま辿り去って行こうとする。
「え、ちょ……!? 待って……!!」
あまりにも突発的な行動にセレスティアが慌てて呼び止める。最初にキソラが彼女を呼び止めた時とは立ち位置がなぜか逆転しているこの状況。
ただ、体一つ動かせないセレスティアが、人並外れた身体能力を持つキソラを強引に止められるわけもなく——
キソラはまるで動物の帰巣本能の様に帰っていくのであった。
『———セレス、無事か!? もうすぐ援軍が到着する! それまで……』
セレスティアの耳に届くディアラからの通信。
本来ならすぐに返事をするべきなのだが、彼女は呆然としたままキソラが去って行った方向を見つめていた。
「なんだったのよ……これ……」
欠損した遺体、黒焦げになった人間だったモノ、廃墟以上に荒れた路地裏。
見る者が見れば吐き気を催すような現場でポツリとこぼれ出たその声は、誰にも聞かれることなく溶けて消えていった——。