べちゃりと、トマトと腐り落ちたヤマトの腕の肉が硬い地面に叩きつけられ弾け散る。生々しい肉感と赤黒の飛沫がキソラの靴を汚した。
「……——ッ」
息が引き攣る様なその声は誰の声のものか。キソラかユウリかヨシハルか。はたまたソレを見た人全員か。
突如、何の前触れもなく発生したその腐蝕に全員の思考が停止した。
いち早く、キソラの瞳に
「ヤマトさん!!」
「うわぁぁぁぁぁああ゛あ゛あ゛……!!」
辺りをつんざく感情がごちゃ混ぜになったヤマトの絶叫。無理もない。腕がいきなり腐って溶けて骨だけになったのだ。想像を絶する痛みと恐怖心がヤマトを襲っているに違いない。
「お父さん……!!」
「一体、何がどうなってやがる……! クソっ血が止まらない……!! 何か縛るモノないか!?」
ヤマトの傍によるワカナと、流れる血を止めようと腕の断面を抑えているヨシハル。
二人ともが血に塗れており、キソラは急いでパーカーの紐を抜こうとするがその横目に呆然と反対の方向を見ているユウリが映った。
「ユウリ、ぼうっとしてる場合じゃ——」
「——ねぇ、キソラ、ヨシハル……。これって……なに……?」
「なにって……——ッ!?」
キソラがユウリが向いている方を見ると、そこには
それだけじゃない。ヤマトの絶叫と混乱で気付いていなかったが、この露店通りいた人たち全員が同じような状況に見舞われている。
「うぎゃああああああ! オ、オレの足がぁぁぁぁ!」
「いやっ……! 顔が、顔が痛い……!! 熱い……!」
足が溶け、顔が焼け、自分の肉体が腐敗していく光景を目にし阿鼻叫喚。
建物も胞子が触れるとその箇所をどろりと溶かされ、あちこち無数の穴が空いている。
活発だった通りは瞬きの間に地獄模様へと変貌していた。
「黒い……腐る……骨……」
「キソラ……?」
痛みに喘ぐ人々を、キソラは虚な瞳で眺めている。
その目の前の地獄と重なる様に、キソラの脳裏に見覚えのない光景が鮮明に映し出された。
『 』
——黒い胞子に飲み込まれ、ぐじゅぐじゅと腐り落ちていく建物。穴が空き、落ちていく人々。肉体が腐り骨だけになった男性。
失われたはずの記憶がフラッシュバックし、思考は完全に停止。
その隙を狙う様に、黒い胞子が動かないキソラへと降り注ぐ。
「——ここにいる全員、今すぐ物陰に隠れるか衣類で肌を隠しなさい!!」
「——ッ!!」
混沌としていた露天通りを切り裂く、逼迫した銀鈴の鋭い声。
それはモヤがかかっていたキソラの思考も吹き飛ばし、警鐘を最大限に鳴らす本能が身体を強制的に動かした。
「ユウリ、ヨシハルこっち!! ワカナさん達も!!」
そばにいたユウリの腰を抱き、地面を蹴ってすぐ目の前にいたヨシハルの後ろ襟を掴んで、ワカナが出てきた玄関へとひとっ跳び。
二人を胞子の当たらない家の中へと入れると、すぐさまキソラはワカナ達を連れてくる。
「うぐっ……!!」
「乱暴にしてごめんねヤマトさん」
「い、良いってことよ……。それに今度はオレが救われちまったみたいだからな……」
胞子は家に触れる度にその箇所を腐蝕させているが、小さな穴が開くだけで全体的に崩れてはいない。
時間的猶予が生まれた今、キソラは一息ついて無くなったヤマトの腕をパーカーの紐を使って止血する。
「ねぇキソラ……、なんなのこれ……? もしかして十年前の……」
「分からない……。分からないけど今は生き伸びることだけを考えよ。二人とも怪我は?」
「ちょっと肌を火傷したみたいな感じだな。首筋がジンジンしてる」
「わたしも……」
「良かった。私も特に何も無いし、とりあえずは——」
首筋を撫でるヨシハルと頬を触るユウリ。
雨の様に無数に飛んでいた胞子だ、外に出ていた二人がその程度の軽傷で済んだのはほぼ奇跡に近い。
——そう、奇跡なのだ。
ユウリたちだけが軽傷で済み、キソラに至っては服に小さな穴がいくつか開いているだけで完全に無傷だ。
最初から家の近くにいたワカナとは違い、三人は完全な外。症状に差があれど、誰も肉体が溶けていないのは明らかに異常だった。
「もう、何がどうなってるの……!? 朝も腐蝕が起きるし、今はこんな……! お父さんの腕だって……」
「ワカナ……」
常軌を逸した光景に錯乱状態になってしまうワカナ。
無理もない、外では未だに痛みに苦しむ絶叫が続いては次の瞬間に消えているのだ。
声が少なくなっていく一方で、黒い胞子がまるで暗幕の様に景色を塗りつぶす胞子は収まる気配がない。
「———ッ!!」
どれだけの力があろうとも、数秒後に消えていく命の前では何の役にも立たない。今キソラの手の届く範囲は普通の人と何も変わらない。
初めて味わう無力感に苛まれる中、絶望を睨みつけていると【黒】の中を高速で動く灰色の塊があった。
「あれは……さっきの…」
塊ではなく、それは全身灰色の外套で覆っている小柄な人。
それを認識した時、キソラの耳に残ったあの【声】がリプレイされた。
『そうね。ならこの
『ここにいる全員、今すぐ物陰に隠れるか衣類で肌を隠しなさい!!』
この街に来たばかりの新しい人。どちらも同じ声。咄嗟の判断。
明らかに何かを知っているとしか思えなかった。
「二人はここでワカナさん達を見てて!! 私、ちょっと行ってくる!」
「行ってくるって……どこにだよ!?」
「危ないよキソラ! 外はこんななのに……!!」
「大丈夫! なんでか知らないけど、この黒いやつ私には効かないみたいだから!! とにかく、時間がもったいないから行くね!」
「あ、ちょっ……!」
引き止めるユウリの声を振り切り、キソラは一気に飛び出した。
正直、本当に効かないなんて分からない。症例なんて無いに等しいし、腐敗しなかったのは偶然の可能性だって十分あった。
けれど——
「賭けは…私の勝ち……!! なら、あとはあの子を捕まえるだけ……!」
身体の無事を確認すると一息で地面を蹴り、宙に身体を投げ出して無事な建物の屋根伝いに走っていく。地上の惨劇はもう見ない。見る意味も失われていた。
大事な街が完全に壊れてしまった事実に歯噛みしながらも、キソラの鋭くなった双眸が逃げていく灰色の少女をずっと視界に入れている。
「何が起きたのか、絶対に吐かしてやる……!!」
☆
既に露店通りを通り越し、街の外れ。ここはもう範囲外なのか、黒い胞子は現れていない。
逃げていく灰色の少女。追うキソラ。
少女も速いとはいえ、キソラの身体能力の前じゃすぐに追いつける距離。それでも捕まえないのは、彼女の行く先を確かめるつもりだったからだ。
けれど、そこでキソラはおかしなことに気付いた。
「あの子、後ろを見ない……?」
少女が下手人だとして、逃げるのなら追っ手を気にするはず。あの惨劇の後だから必要ないと思っているのかもしれないが、それにしたって一切後ろを見ようとしないのはおかしい。
走る中で後ろを気にしない人がいるとすれば、それはキソラの様に誰かを追いかけている人だけだ。
「さっきの警告といい、この様子……。もしかして、この先に……!?」
真犯人もしくはそれに連なる者。
ツギハギだらけの状況証拠だが、辻褄はかろうじて合わさった。
「だったら、私がやることは……!!」
少女は大通りを横切り、路地の方へと進行。その先には廃墟と化している高層建築群がある。
新天地の繁栄を願われ勢いのままに建てられた建築物たちだが、今やそれは見る影もない。
そんな不気味で陰鬱な場所だからこそ、
それでも足を緩めない少女を見てキソラは確証が強まっていくのを感じた。
だからいっそのこと——
「ちょっとそこの君、そのままでいいから話を聞いてくれるかな!?」
「——ッ!? あ、アナタどこから……!?」
地上に向かって一直線。少女の隣に並んで話しかけた。当然だが、いきなり現れたキソラに少女は驚きのあまり立ち止まってしまった。
それに合わせてキソラも止まると、彼女の存在を再確認。
強気で芯が通っているのを感じさせる銀鈴の様な声。キソラが追っていた人物に間違いなかった。
「いきなり驚かせてごめんね。話を聞かせて欲しいの。あの黒い胞子、露天通りのアレは一体何なのか。君なら知ってるんでしょ?」
「黒い胞子……。もしかして、あそこから来たの……!? でもどうやってあの包囲網を……。装備だってなにも持ってないのに……」
服はボロボロだが傷一つないキソラを見てさらに驚く少女。
その様子からもどうやら詳しく知っている予想は的中。
急いで問いただそうとするが、それよりも早く彼女は手を耳に当てていた。
『————』
「あぁ、ごめんなさい。ちょっと想定外のことが起きてて。ええ、怪我したわけじゃないわ。ただ……」
通信機が何かで誰かと話しているのだろう。
向こう側に状況を説明しようとしているが、いきなり現れたキソラに少女も混乱してうまく説明できないでいる。
「——え、なに? 今すぐ離れろ? どういうこと、ディアラ? だってこの先に……」
「?」
少女の雰囲気が一変。困惑の中に焦燥が芽生えている。
「——ッ!!」
それと同じくして、胞子が降り注いだ時以上に鋭敏化されたキソラの本能が警鐘を最大限に鳴らし始めた。
バッと少女から視線を切り、路地の先を見つめる。
一直線上。複数の気配。
壊れた窓から一瞬だけ覗いた金属の光。
その先から噴き出た小さな火。
『——誘い込まれた!!』
少女の耳に焦った男性の声が届くと同時に、彼女の体がトンッと押される。
その小さな衝撃でフードが外れ、露わになる白銀の髪と神々しさすら覚えるその美貌。
遅れて路地をつんざく二つの轟音。
「え……」
「(わ、凄い綺麗な子——)」
自分が押したことで瞳に映った彼女の素顔。吸い込まれそうになる金色の瞳に目を奪われ感想を漏らすが、声には出ていない。
放たれた銃弾がキソラの喉を貫き、心臓を破壊。
美しく何もかもを弾く様な透明感のある少女の顔に、キソラの鮮血が降り注いだ。