そこは文字通り“腐り落ちている”街だった。おどろおどろしさを感じさせる夕焼けが目立つ逢魔が時。
空中にはベンタブラックの胞子が後方より無数に漂い、それが炭素を大量に含んだ超巨大な
その胞子は、同様の手段で製造された無機質で黒い建物群をグジュグジュと腐らせていっていた。
その腐蝕は人間にも適応され、胞子に捕まった人間はその瞬間から肉体が腐り落ちる。
地を一歩踏み出せば底が抜けて海へと真っ逆さま。一歩出遅れれば腐って死ぬ。
そんな死が軽くなった空間で、二人の人間が必死に生きようと命を燃やしていた。
一人は若い女性。真っ黒のポンチョを纏い、同じポンチョを身に纏った七歳ほどの少女を抱えながら死から逃げている。
少女はピクリとも動かない。ただ虚空を見つめながら、腐りゆくモノたちを無感動に空色の眼球の中に収めている。
「た、助けてくれぇぇぇぇ……」
また一人、路上で跪いていた男性が胞子に飲み込まれ脚が崩れ落ちる。その瞬間、傍らにカメラがごとりと落ちた。男性は野次馬根性を出し、この死の光景を収めようとしていたのだ。
そんな野次馬を助けてはいられないと、胞子が男性を覆っている隙に彼女は足の回転を上げる。
「ッ…!! かッ、はっ……!」
だが、女性の息はもう絶え絶え。一呼吸する度に喉と肺に突き刺すような痛みが走り、呼吸困難者のように喘いでいる。
それでも、まだ死んでいないからと足を止めることはない。彼女にはどうしてもこの少女を生き延びさせるという強い想いがあった。
そんな彼女の想いを、運命は容易く裏切る。
「ちょっ……!」
足を前に差し出した瞬間、目の前の地面が大きく横に割け巨大なクレバスが出来たのだ。
足を止めることは出来ない。たとえ止まったとしても、後ろからくる胞子に飲み込まれて腐って死亡する。
だとすれば、取るべき手段は一つ。前に進むこと。
「(クレバスの縦幅はおよそ三.五m……。全力で跳べば、渡れないことはない……!) ごめ、んね。先、行ってて……!」
「?」
そうして女性は腕を大きく振りかぶり、少女をクレバスの向こうへと投げる。放物線を描きながら飛ばされる少女。
相変わらず全く動きを見せなかったせいで、受け身も取れず地面に激突したが、その小さな命は落ちることなく守られた。
次は彼女の番だ。
「——ッ!!」
少女を大きく投げたことの反動で前につんのめったが、それを利用して一気に加速。クレバスのギリギリを踏切線として右足にグッと力を入れ、次の瞬間にはそれを解放。
前に跳び出し、空中を漂う。
その姿を少女はじっと見つめていた。
「(あともう少し……! もうちょっとだからね…!)」
三m、二m、一m。普段であれば一瞬で辿り着く距離なのに、女性の体感速度はそれを数十倍に引き伸ばされていた。
そして向こう岸まであとほんの僅かな距離で、女性は気付いた。
——ギリギリ届かないと。
「(と、ど、けぇぇぇ!)」
手の先には自分が守るべき少女の姿が映っている。それを見て、更に女性の想いが猛々しく燃え盛った。
しかし、無常にも女性の視界から少女が消えた。向こうの崖に届かず、穴へと体が沈んだのだ。
それでも——と、彼女は脱臼もいとわないくらいに右腕を伸ばし、大地の切れ端を掴んだ。
「(絶対に、あの子を一人になんてさせない……! ……でも力が)」
崖を掴んだ女性。そこまでは良かったが、それ以上の力がもう残されていない。ここまで少女を抱えながら全力疾走を続け、そのうえ力を振り絞って投げ自らもジャンプ。
掴めたこと自体が奇跡なのだ。
女性の右腕は自重を支えられず、プルプルと震えている。周りに女性を助けられる人はいない。後ろにはすぐ胞子が迫っており、更に今この瞬間にも掴んでいる地面が腐らないとも限らない。
「(もう、ダメ……。ごめんね、一緒にいてあげられなくて……)」
——キソラ。
力なくつぶやいたその瞬間、掛けていた手が離れる。もう掴めるモノは何もなく、女性の右手は空中を彷徨った。
あとはもう落ちて海の藻屑となるだけ。女性は全てを諦め、目を閉じた。
その時。
「——ッ!」
「え……」
彷徨っていたその手を、誰かが掴んだ。目を開けて掴んだ手を見ると、大人とは思えないひどく小さな右手。それを見ただけで、女性は誰が自分の手を掴んだのか理解した。
「キ、ソラ……!?」
そこには、ガラスの様に無機質な瞳を女性に向けながら必死に支えている少女——キソラの姿があった。
物理的にあり得ざるその姿を見上げると、女性の顔に血が点々と落ちる。
キソラの右手が女性を完全に支えきれず、ブチブチと筋肉と血管が千切れているのだ。
「手を放しなさいキソラ! いくらあなたでも、このままじゃ一緒に落ちてしまうわ! せめてあなただけでも生きるの!」
子供が大人を支えているというファンタジーにも似た現象もその小さな身体が耐えられてこそ。
重力という絶対的な平等が、そのファンタジーを現実のモノへと戻していく。
けれど、どれだけの血を流そうとキソラはそれらを全て無視。
絶死の際で、これまでずっと無感動だったキソラの顔に感情がにじみ出ていた。
それは悲痛だった。
「い、や……! いっしょに……!」
「――ッ」
生まれて初めて彼女が目にしたキソラの感情。
万感の思いで伝えられたその言葉は彼女の心に届き、絶望で暗く染まった瞳から滂沱の涙が溢れでた。
彼女の目に光が戻る。
「ごめんねキソラ……! ——そしてお願い、私を助けて!」
二人の握る手により一層の力が籠る。
そして、戻されたはずの現実で、キソラに宿る理不尽の如き力がまた振るわれようとしていた。
大人顔負けの力でキソラがグググと右腕に力を籠めて少しばかり女性を引き上げると、両手で掴み、両足でしっかり地面を踏みしめて背を仰け反らせるほど一気に両腕を振り上げた。
「あああああああ!」
感情を爆発させたキソラの叫声と同時に、まるで釣られた魚のように女性が崖から飛び出し地上からキソラの後ろを舞う。その空中には、キソラから出た血も漂っていた。
死から脱出した女性。
それでも死の境地はまだ去っていない。むしろここからが本番と言わんばかりに死の胞子が二人に追いついた。
受け身も取れず、べしゃりと地面に落ちた女性。慌てて目の前を見ると、そこには胞子に飲み込まれそうなキソラの姿が。
「キソラ、逃げてぇぇぇ——!!」
思わず叫びの声が出る。
キソラは逃げられない。女性を助けたことで筋肉断裂を起こし、四肢が血だらけになっていた。
胞子がキソラを覆う。もはや絶望的。女性は自分を憎んだ。
何故守らなければならない者に助けられ、自分のせいで死にゆくあの子を見ているのか——と。
「あ、ああ……あ゛あ゛あ゛あ゛ッ——!!」
もうどうにもならない。
助けられない現実。それに直面し、女性は絶叫した。
その時。
——ゴウッ
「え……」
「———」
突如明るくなる視界。キソラがいた場所から歌う様に優しい声が奏でられると同時に、そこで
それはまさに“死”を燃やし尽くす劫火。天まで延び、辺り一面を照らしている。
炎は胞子を飲み込み、燃やしていく。キソラを覆っていた胞子は既に炎へと変わっていた。
「覚醒、したの…?」
ぽつりと、女性がそう呟く。
その瞬間、ろうそくの火のように火がパッと消え、中からキソラが出てきた。
死の脅威はもう存在しない。女性は慌てて立ち上がりキソラの下へと走っていく。
「キソラッ!」
キソラは炎による酸欠のせいかぐったりとしている。その上、身体のあちこちは炎の影響で炭化し、身動き一つ取れない状態だった。一見すれば焼死体とほぼ変わらなかった。
女性もそう思った。心臓は不安による鼓動で早さを増している。けれど、希望はあった。
「覚醒しているのなら、必ず……!」
キソラの顔に、女性の涙が一滴落ちた。
すると、みるみるうちに炭化していた部分が剥がれ中から瑞々しい肌が出てくる。それはまるで、時間の巻き戻しの如き自己再生だった。
それに呼応するように、キソラの瞼が開く。
「ん……、キョウ、カ……?」
「キソラッ……!」
キソラの目に、涙を流しながら満面の笑みを浮かべている姿が映る。キョウカと呼ばれた女性は、復活したキソラの体を思いっきり抱きしめた。
「キョウカ、くるしい……」
「ごめんね、ごめんね……! そしてありがとう……! もう絶対放さないから……!!」
温もりがこの手の中にある。
それを噛み締めながらキョウカは宣言した。
「ん」
ぽんぽんとキソラはキョウカの背を叩く。
もうここには“死”は存在しない。
あるのは、温かい“愛”だけだった。
*
——
数万人規模の死者を出したこの日は『第一次大規模腐蝕事変』と名付けられ、——原因とされる◾️◾️◾️◾️(検閲済み)——その日以降、あちこちで小規模の腐蝕が起こり始める。
大地は突如として腐り、人類の生存危機に拍車が掛かっているこの事態。
——止める手段はあるのか? なければ全生命体が死に絶えるであろう。
——今こそ、人類は再び生命の権利を獲得しなければならない。
【名も無き歴史記録員の文書より一部抜粋】