目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報
第6話 空は青く

 それから十年の歳月が流れた。

 寿王は平和に、そして退屈に過ごしていた。蒼天からは一度手紙が来て、子供が生まれて楽しく暮らしていると知らせてきた。寿王も生活に監視はつかなくなったが、蒼天に会いに行こうとは思わなかった。特に話したい事もない。口を開けば、国の荒れようを愚痴るだけになりそうだった。

 楊貴妃一族の専横は、留まるところを知らなかった。楊国忠という男が宰相にまで上り、政治をいいように仕切っている。玄宗は楊貴妃と共に遊び耽り、浪費を続けている。一方で、民衆は重税に耐えきれず、家や畑を捨てる者が相次いだ。

「ひと刺しで簡単に破裂しそうな天下になったな。……おそらくは、東北から」

 寿王はそう呟いて、馬を軽く走らせた。たまに遠駆けをしては、自分なりに国の行く末を考えるのが習慣になっていた。これからどうなるのか、寿王にはよく分かっていた。いや、寿王だけでなく多くの人々が、東北にある勢力に恐れを抱いていたのである。

 程なくして、都の遠く東北、范陽の地で、安禄山という人物が突如挙兵した。十五万の兵で南下し、諸州を瞬く間に陥落させた。安禄山軍は唐軍の防御など物ともせず、鎧袖一触の勢いで唐の風雅な国土を踏み荒らした。


 安禄山に勢力を持たせたのは、結局のところ玄宗と楊貴妃だった。人に取り入るのがうまい安禄山は二人を煽て続け、節度使(地方を守る軍政司令官)の職を三つも兼任した。安禄山の支配地域はそれだけ広大になり、多くの兵力を手中にした。

 宰相の楊国忠は安禄山と対立し、彼を謀叛に追いやって誅殺する事を目論んでいた。しかし謀叛まではうまく行ったのだが、安禄山の軍は桁違いに強かったのだ。

 結果はこの様である。天宝十四載(西暦七五五。載は年の意)十一月。世に言う安史の乱の始まりであった。


「馬鹿な。父は都を捨てるというのか」

 報らせを聞いて、寿王は飛び上がった。安禄山軍の侵攻はすさまじく、ついに都・長安まで迫りつつあった。これを恐れた玄宗は、皇族や近臣だけを連れて長安を出、西の蜀へ逃げるという。それも、民衆には内緒で行くというのだ。東の洛陽は、すでに安禄山軍の手に陥ちていた。蒼天がどうなったのか気がかりで、寿王はそれを調べるためにも長安に留まるつもりだった。

「これでは夜逃げではないか」

 そう言って怒る寿王を、従者たちが押しやるようにして部屋から出した。既に脱出の準備がされていて、寿王は無理矢理集合場所に連れて行かれた。彼が逃げたくなくとも、従者は逃げたかったのである。

 夜明け前に、皇帝一行は長安宮城を脱出した。寿王は玄宗に文句を言おうと近づいたが、警護の兵に阻まれてできなかった。そのうち機会を見つけて玄宗を殴ろうと思いながら、寿王は旅に従っていた。


 そんなある日、異変が起きた。

 何の用意もなく脱出した一行は、食事も宿も現地で調達しているという状態であった。しかし、皇族や楊一族は逃げるのに必死だが、護衛の兵士たちから見れば、だんだん腹が立って仕方なくなってきた。余りにも無責任な連中ではないかと。

「楊宰相が、吐蕃人と密談をしている! 奴は陛下を売り渡す気だぞ!」

 突然、兵士がそう叫んで走って行くのを寿王は目撃した。何か大変な事になりそうだ。寿王は急いで、兵士の走った方へ向かった。

 宰相楊国忠は、兵士たちに滅多刺しにされて死んでいた。寿王は夥しい血を見て、さすがに目を逸らした。実際には、楊国忠は吐蕃(チベット)から来た使節団と話していただけだったのだが、その誤解を解く間もなく彼は殺された。楊国忠はそれほどまで周囲に憎まれていたのである。

誰かの声がした。

「仕方のうございます。安禄山の反乱は、楊宰相が奴を追い込んだ事と、陛下のご怠慢が産んだもの。楊宰相も、自業自得という他ありませぬ。今はとにかく、怒れる兵を宥めて蜀へ逃げるしかございません」

 高力士の声だった。寿王が奥を見ると、玄宗が隠れるようにして立っていた。寿王の身体は、一瞬にして熱くたぎった。

 お前たちが全て悪い。

 そう叫んだつもりだったが、声は出ていなかった。その代わりに拳を振り上げ、まず高力士を殴り飛ばした。痩せた宦官は、棒が倒れるような音を立てて転がった。

 玄宗の側に、もう一人寄り添う影があった。良く知っていたが、もう知らない顔だった。その女が悲鳴を上げて言った。

「寿王どの、玉環をお忘れか。かつての夫婦の誼、どうか乱暴はおやめください」

 寿王は一瞬ためらったが、すぐに鋭い目に戻った。

「玉環の名を騙るな。あれはもっと雄々しい女だった」

 そう言って寿王は容赦なく、楊貴妃を平手打った。肥った女体が地面に崩れる。それを見た玄宗皇帝が、怒りに震えて声を上げた。

「何をするか、李瑁!」

「馬鹿を殴る。それだけだ」

 寿王は力いっぱい玄宗の頬桁を殴りつけた。玄宗は回転しながらよろけ、木に頭をぶつけて失神した。その時、寿王の背後から声がした。

「陛下に何をする、狼藉者!」

 忠誠を失っていない兵士の一人が、暴漢に気付いて飛んできたのだ。寿王が振り返った時には、兵士の剣が眼前に迫っていた。

 寿王は転倒しながらよけた。しかし兵士は寿王に馬乗りになり、寿王の胸に剣を突き下ろしてくる。寿王は剣の柄をつかみ、必死に押し返した。何とか剣を振り払ったが、兵士は拳を振り上げて寿王を滅多打ちに殴った。一発がこめかみに当たり、寿王は気が遠くなりかけた。

 次の瞬間、その兵士は何かに打たれて吹っ飛ばされた。寿王は頭を仰け反らせて後ろを見ると、馬に乗った別の兵士が棒を持っているのが見えた。

 寿王が身体を起こす。先程まで乗っかっていた兵士は、横に倒れていた。

「寿王、怪我はない?」

 棒の兵士が言った。その声を聞いて、寿王は驚いて聞いた。

「お前、蒼天か?」

 兵士は深く被っていた兜を取った。十年の歳月は経ているが、確かに李蒼天の顔がそこにあった。

「寿王、とんでもない事したみたいね。そこに倒れてるのは、陛下じゃないの?」

「蒼天、無事だったのか。どうしてこんな所に? 家族は?」

 寿王は質問にも答えず聞いた。蒼天は馬を降りなが言った。

「洛陽が攻められて、夫も子供も殺されたわ。私は一人で、長安まで逃げてきたのよ。そしたら、宮城が空っぽになってるじゃない。残っていた人から、皇帝一行が西へ逃げたという話を聞いて、兵士の振りをしてあなたを探しに来たのよ」

「そうか。逃げるつもりはなかったが、周りに追い立てられてな」

「陛下を殴ったのね。……それに、楊貴妃様まで。大丈夫なの、こんな事をして」

 蒼天が、楊貴妃を哀れんだように見ながら聞いた。寿王は、虚しい笑いを浮かべて言った。

「もう玉環ではない。自分で言っていた事だ。――今日になって、兵士が反乱を始めたんだ。こんな状況に至っては、もう父に付き合うのも御免だ。僕は、ここを出るとするよ」

「ここって?」

 蒼天は怪訝な顔をした。寿王は蒼天を待たせ、そこらを彷徨いていた馬を牽いて来ると、軽やかに飛び乗った。

「僕はもう、国には縛られたくない。どこに行くかは分からないが、この馬に任せて唐を出る」

 そう言って、同じ高さから蒼天を見つめた。

 自分は今、いい顔になっているようだ。蒼天の表情から、寿王はそう知った。

 風が吹いた。砂と草の匂いが混じった、気持ちのいい風だった。

「分かったわ」

 蒼天が言った。

「だったら私も、この国を出る。でもね」

 蒼天は、自分の馬の向きをぐるりと変えた。寿王とは反対向きになった。

「一緒には行かない。私もあなたも、新しい道を行くべきでしょうね」

「そうしよう。お前がいると、どうも頼ってしまいそうだ」

「元気でね」

「いっぱい借りを作ったままになったな」

「いつか私が困った時、返しに来てよ」

「よし。お前の困った顔を見に行ってやる」

 同時に頷いた。そして、笑った。


 二人が、馬に鞭を入れる。

 振り返る事はなかった。代わりに、二人はそれぞれ、上を見上げた。

 雲ひとつない空が、どこまでも続いていた。


(完)

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?