がさ、と音を立てて、積んでおいた本が一気に崩れ落ちた。
「何やってるんや!」
低い声が、土蔵全体に響いた。
音のしたあたりから、一斉にほこりが立った。目や鼻に入り込んで、思わず彼はせき込んだ。
だがそんなことさえなければ、その光景はちょいと綺麗と言ってもおかしくない。
土蔵の灯りとりの窓から入り込む穏やかな日射しは、立ちこめるほこりを金色に大きく染めた。蜂蜜のようにねっとりしたその色は、過ぎてゆく時間の存在すら忘れさせそうである。
……だがどうやらこの場で何やら作業をしていたらしい二人は、そのような情緒とは無縁であるらしい。
せき込んだ彼は、その拍子に落ちた長いざらりとした前髪をかき上げる。そして自分の前に居るもう一人に怒鳴りつけた。
「積んだのはお前だろ!」
すると、それまでかがみ込み、何やら木箱の中やら、新聞紙にくるまれた陶器などを検分していた相手は、面倒くさそうに立ち上がった。
そして彼に向かってやや斜めに視線を投げると。
「いんやお前や。俺は触っとらん」
言い放つ。彼はぐっと詰まる。そう指さされながら言われてしまったら彼はもう、身も蓋もない。
「とにかく俺は今日のうちに済ませたいんや。遊んどらんで、ちゃっちゃと働き」
う~と小さくうめくと、彼は口の端をぽりぽりとひっかき、再び作業に取りかかる。
さて。ここでこの場に居る二人を紹介しておかねばなるまい。
一人は、見たところ十八か九か。少なくとも二十歳は行っていないだろう、と思われる小柄な青年だった。
尤も、それは彼が地味な着流しと羽織を着ていたからそう見えるだけで、もしも銀座で流行している最新のモオドを着せてみたら、見る者の目によっては、少女とも見まごう程である。
焦げ茶色の髪は、耳の下くらいで刈られ、特に意識して手入れされているという様子はないが、それなりにまとまっている。
そしてその下の顔。白い小さな顔には、やや太いかとも思われるくらいの眉が形よく天を向き、その下の大きな黒い瞳と、上質のコントラストを為している。
先にも述べた通り、全体的に小柄である。 かがんだ姿ではそうも判らないだろうが、一度立ち上がれば、それが少女と言われても可笑しくはないという意味が判るだろう。ゆったりとした着物で隠された身体は、かなり華奢であることが予想される。
だが、そんな彼をそれでも少女と間違うことが無いのは、その声にあった。その声の、溶けそうな程のけだるさと低さは、女性のものでは絶対にあり得ない。
そしてその声を投げられる側は。
彼は口をへの字に曲げながらも、再び作業に入る。
そろそろ冬も近いだろうこの季節というのに、彼は船頭が着るような黒い袖無しのシャツ一枚だった。また下も下で、大陸の武道家の履くような黒い下履き一枚。きわめつけが裸足である。からからと音のする黒い鼻緒のついた下駄をつっかけて、時々それを履いたまま胡座をかく。
むきだしになった腕は、細いが、決して華奢ではない。むしろそこには無駄の無い筋肉がきっちりとついていた。その腕から背中にかけても同じだったが、奇妙に広く開けられた背中には、微かに筋のようなものが浮き出ている。
彼は黒い太い眉を寄せながら、作業を続ける。何でも、この相方の家に古くから伝わるものが多いのだと言う。
「だから壊すんじゃないで」
と相方は、何処ともしれない関西のなまり混じりの言葉を投げる。何で、と彼が訊ねたら、あっさりと「新円稼ぎにええやん」と答えた。
「お」
「何や」
「これ何だ?」
全く顔ににあわないことを言う、と彼は思わずにはいられない。ふと彼は声を上げた。 面倒くさそうに相手は彼の方を向いた。
彼は立てかけてある額の中から一枚を引っぱり出すと、表面のほこりをばたばたと払う。
どうやらそれは油絵のようだった。その隅には、かすれた文字でISONOとサインがある。
地味だが、どっしりとした作りのしっかりした額に入ったそれは、人物画だった。ほぉ、と彼は少しばかり感心する。
ゆらゆらとした長い髪をけだるげに垂らし、白いゆったりした服を着たその人物は、沢山の花に埋もれ、遠い視線をしている。穏やかなその筆づかいで描かれた人物は、まるで妖精のようだ、と彼は思った。
「……ああ、それは俺や」
「えええええっ!」
思わず彼は反射的に叫んでいた。そして絵と相手の姿の間を視線が十回程往復する。言われてみれば、そんな気もしなくはない。その大きな目も、くっきりした眉も、意志の強そうな口元も、言われてみれば、同じ人物かもしれない。ただ背景と髪型と着ているものが違うだけで……
彼は何となく落胆する。絶対にこの方が実に美味しそうなのに……
「……本当にこれ、お前か?」
「本当に俺や」
念を押すように、彼は絵を指さし、訊ねる。
「……本当に?」
「本当に本当や。 一体何が言いたいんや?」
く、と相手は彼の両頬を片手で掴む。 むぎゅ、と音がしそうなほど、 彼の顔は歪む。
「ひゃってにゃあ」
「だって何?」
「震災?」
手を離し、相手は彼に顔を寄せ、じっとその目を見つめる。
「何でこんなんなってしまったんだろうなあ……」
あほか、と相手は持っていた冊子で彼の頭をはたいた。そしてまたもほこりが立つ。
「これはなー、まだここに来る前に、美術学校の苦学生がどーしてもって言うから、描かせてやったんや」
ほう、とはたかれた頭をさすりながら彼はうなづく。
「だからもうかれこれどのくらいになるんかなあ。お前ちょっとそれひっくり返してみ」
ん? と彼は言われる通り、その絵をひっくり返してみる。
「ああそうそう。この年や。よかったよかった。てっきり俺、それ震災時に焼けたと思てたんや」
「震災?」
「ああお前はまだそん時は眠ってたな。大正12年の9月や。あれはひどい地震やったなー」
大正12年?と彼はここに来てから教わった記憶をひっくり返す。 確か現在は、昭和という年号で、昭和は1925年、とかいう西の暦ではじまって、確か今は……
「三十年程前ってことやな」
しゃらっと相手は言う。そしてその絵を彼の手から取ると、脇に立て掛け、何やら感心したようにそれを眺める。
「三十年前はお前もこんなに可愛げがあったのになー…」
「何か言うたか?」
じろり、と相手がその大きな目でにらむので、彼は肩をすくめた。相手は着物の袖に両手を突っ込み、少しばかり懐かしそうにつぶやく。
「正確に言や、描いたのは、明治の頃なんやけどな。ほれそこの、上野の森にある大学がまだ東京美術学校だった頃や。そうそう、確かにそいつ、磯野って言ったなあ」
「確か、新聞の連載マンガにそういう家族出てなかったっけ?」
居たなあ、と相手はうなづく。
そして付け加える。
「誰だよ」
「お前妖の分際で新聞読むんだよなあ……」
悪いか、と彼はつぶやいた。
「おや、こちらに居たんですかはるさん」
ふと声がしたので、彼らは入り口に顔を向けた。土蔵の戸口に、やはりこざっぱりとした着物を着た青年が立っていた。
「おや、山田さんではないですか」
と彼はやや不機嫌な顔になって言う。どうも彼にはこの訪問者の心当たりが無い。
「隣の隣の隣の山田さんやないか。お前そのくらい新聞読む暇があったら覚えんかい」
そう言いながらはると呼ばれた相手は立ち上がり、着物の裾のほこりを払う。
「えろぅすんまへんな。ちぃとばかり虫干ししよかと思いまして」
「それはそれは。確かに今日はそういうことには吉日。実にいい天気で。小春日和とでも言うのでしょうな」
「そぉですな。実にのどやかで、眠くなりそぉですわ」
眠くなりそうなのはこっちだ、と彼はそのおっとりとした会話を聞きながら思う。
「それで、今日はどないしましたん?」
だいたいこの関西弁にした所で、どうにも嘘臭い。確かに発音とか高低とかそれらしくはあるのだが、地元民に聞かせたら、きっと嘘だと言うだろう。尤もそれを彼ははるに対して口に出したことはないが。
「おい行くで。ちゃんと鍵かけて来や」
へいへい、と彼は立ち上がった。そしてまたちら、と絵の方を見る。本当に、これだったら実に美味そうなんだが。
「実はですね」
と隣の隣の隣の山田氏は切り出した。
穏やかな口調のこの青年は、やや痩せぎす、とでも言いたくなるような体格を隠すかのようにいつも和服を着ている。さすがに最近は洋服が主流となったこの時代に、である。
どうもこの青年は、ぼつぼつと語るその過去によると、あの戦争の頃運悪く肺を患ってしまい、その後遺症なのか何なのか、なかなか肉のつかない体質となってしまったということらしい。
そのせいなのか何なのか、この青年はまだ若いというのに、こんな休みの日などにはよく着物を身につけている。
ただし彼はそもそも山田青年が居たことすら大して気にはしていないので、この青年が何の仕事をしているのかなど無論知りはしない。
縁側の、日当たりの良い場所にはるは山田青年を通すと、座布団と茶をすすめた。 茶請けとして、小鉢に茄子の漬け物がちょんと積まれている。
その一つをつまむと、うん、と青年はうなづく。
「いい味だ」
「そう」
「そうですやろ? ところで本日の御用向きは」
ぼん、と青年は手を叩き、その懐から一つの筒のようなものを取り出した。縁側に胡座をかいて座り、茄子の漬け物にさりげなく手を伸ばしながら、彼はふと自分の背中の毛が逆立つのを感じていた。
「巻物、ですな」
「掛け軸、です」
「…これは」
はるはそれを手に取ると確かめるように言った。
青年はやや訂正する。はるはそれを聞くと、その中身をさらりと、縁側の中でも直接陽の当たらない場所に広げた。
はるは目を大きく広げた。湯気の立つ茶を手に取りながら山田青年は微かに笑みを浮かべる。
「蛾、ですか」
「如何にも」
はるはちら、と青年を皆見ながら、念を押すように訊ねた。
青年は茶を一口すすると、ゆったりとうなづいた。それを耳にしながら、彼もまた、はるが広げるその掛け軸に視線を走らせた。
確かに蛾、だった。
大きな触角は、鳥の羽根がややその毛の細かさを忘れたかのように開き、やや奇妙な角度でうねりを入れている。
羽根の色はややきついとも言える取り合いで、またそれが大きな目のような斑点、またそれを隈取るようなきつい黒の色。
悪趣味だ、と彼は思った。正直言って、目を逸らしたくなるような代物だった。
尤も、それは出来が悪いから、と言う訳ではない。むしろその掛け軸は、実に「絵」としての出来映えは良い。良すぎるとも言える。何故ならその蛾は、今にもその掛け軸からすっと抜け出して、大きく羽根を羽ばたかせ、強烈な毒を持った鱗粉をまき散らしながら飛び立っていきそうな勢いだったからである。
確かに悪趣味だ、と彼は自分に言い聞かせるように内心つぶやいた。
だがはるはそれから目を逸らしもせず、じっくりと検分しているかの様だった。気に入ったのだろうか、と彼はやや不機嫌な面持ちになる。太く黒い眉は露骨に寄せられ、掛け軸と山田青年の間を往復した。
「……これを何処で求めはりました?」
はるは不意に口を開いた。ええ、と山田青年はうなづいた。
「実はですな…… 知り合いが家の店に持ち込んで来たんですよ」
「ああそぉ言えば、山田さんは骨董屋でしたなぁ」
はい、と山田青年はうなづく。
「家には様々な客が参ります。まあ持ち寄るものもピンからキリまでございますが……」
こいつは絶対キリだ、と彼は思う。先ほどから、背中のうずきが止まらない。
ざわざわと、彼は今にも出てきそうな羽根を止めるのに精一杯だった。
だがそのような彼の様子に気付かないのか、はるは青年に向かってどぉぞ、と話の続きをうながした。
「で、こちらも商売ですから、物になりそうなものはちゃんとした金額で買い取りますよ。ですがこれを持ってきた客は、金は要らない、引き取ってほしいんだ、と言い残すと、そのまま何も言わず、店から走り出てしまったのですよ」
はるはそこでやっと自分の茶をすすった。湯気が目に入るのか、やや目を細める。その横顔を見ながら、こうゆう所はあの絵の時と大して変わらないのにな、とやや惜しく感じる自分に気付く。
「それで、どうしたものかなと思いましてね。……名のあるものでしたら、やっぱりそのままにしておくのもまずいでしょう」
「名のあるものですか?」
「それがさっぱり」
青年は首を横に振る。
「ですが、骨董仲間に言わせると、やっぱりあまり手を伸ばしたくはないとのことなのですよ。それが只であったとしても、何となし、手に取りたくないものというものは、経験上あるものです」
「と言われると」
「いわくつきのものです」
あっさりと山田青年は言った。
「そこで、少しばかり預かっていただけないかと思うのです」
「それはまあ何故に」
「骨董屋の勘です」
何じゃこいつは、と彼はその問答を聞きながら改めて思った。
はるがどうすることだろう、と彼は目をそらしたい気分なのをあえてその掛け軸に視線を走らせる。
やはり実に悪趣味だ、と彼は思った。そしてそれをあっさりと預からせようとする奴の気も知れなかったが……
「ほな、お預かりしましょ」
そう言ってはるはくるくると掛け軸を巻き戻すと、元あったように器用に紐を結び直す。
それをあっさりと受け取る奴の気が彼は知れなかった。
その間も山田青年は、ゆったりとこの家の広い庭を眺め、時々茄子の漬け物に手を出すと、いい音で何度か噛みしめている。
「ずいぶんと大きい桜の樹ですなあ…… 春になれば、さぞ素晴らしい花が咲くでしょうに」
「まあそぉですな。さすがに古い家ですし」
「ずっとここにお住みで?」
「や、違います」
「まあ確かに、そのお国言葉ですからな」
「そぉですな。もぉ離れてずいぶんとなりますが」
のらりくらりとした会話が続く。彼はその会話を聞きながら、桜の樹にさっと視線を走らせる。そうだよな、確かにあれは春だったんだ。
あの桜の樹の下で。
そう彼が考えた時だった。
よ、と山田青年は腰を下ろしていた縁側から立ち上がった。
「それではそろそろおいとま致しましょう」
「そぉですか。ではまた今度、ごゆるりと…… ああ、うちの土蔵の中のものも一つ鑑定お願いできますか」
「そうですね。結構見甲斐がありそうですね」
穏やかに山田青年は笑う。そしてその目が、不意に彼の方を向いた。
「面白い方ですな」
彼は一瞬肩をぴくりと動かした。
「もうこんな冷えるというのに、寒くはないのですか?」
「彼は寒さには強いのですわ」
「ああ、羽根がありますからね」
「はぁん。そぉですか? 羽根などありませんで?」
即座に答えた。その顔には何の感情の揺れも見あたらない。
「ああそうですか。 見えたような気がしたのですが」
「目がよろしいですのん?」
「いいえ決してよくはありません」
それはそれは、とれもまた立ち上がり、座り込んでいた縁側から外へと降りた。
「よろしく」
「それでは、しばらくお預かりしまひょ」
ぺこん、と頭を下げて、山田青年は庭を突っ切る様にして帰っていく。青年の通る道には、桜の樹が大きくその腕を伸ばし、春だったら、そこは桜の花のトンネルのようになる筈だ。
なのだが。
「待ち」
彼は嫌な予感がして、そっと立ち上がろうとした。
立ち上がろうとした足が、何かに掴まれるような感覚と共に平衡を崩す。彼は重力に素直に従い、廊下の板の間にしたたかにその顔を打ち付けた。
着物の袖に両の手を入れたはるがこちらを向いていた。
表情に変化はない。だが、決してそれはにこやかではないことは確かだった。
尤も、にこやかだったら彼は寒気がしただろう。
「な、なんだよ」
彼はぶつけた顔をさすりながらそれでもまたゆっくりと縁側へと上がってくるはるを見返す。
「ちょっとこっち来、さくら」
はるは彼の手を掴むと、障子を開けた。