夜の帳がどっぷりと落ちた頃。湯浴みを済ませ、部屋へと戻る途中。聞こえてきた声に、思わず息を潜めた。
「てい良く、ヴィオレッタお嬢様をこのお屋敷から追い出すだけでは……」
「お可哀想に」
使用人たちの声だ。そっと壁に背中を預け、息を吐く。目を伏せて考える。思い出すのは、お姉さまとお兄さまの目つきだ。すっかり落ち込んでしまった私は、使用人たちが私がいる廊下の角を曲がろうとしていることにも気付かず、彼女たちが小さく悲鳴を上げるように息を飲む音で、ようやく我に返った。
「おやすみなさい」
「お、おやすみなさいませ」
頭を下げて別れる。悪いことをしてしまった。きっと気を遣わせただろう。
まだ濡れた髪から雫が落ちる。もっとしっかり乾かさなければと思うけれど、今日はとても疲れてしまっていて、それができそうになかった。使用人たちが言っていたことはもっともだ。私はいずれ、アビントン家にとって大きな負担となる。何もない私には貰い手も現れず、お父さまはきっと焦ることだろう。年頃の娘が、いつまでも実家に入り浸っているなんて。だから、私は、これで良かったのだ。私にとっては、それはひどく光栄なことだけれど、屋敷から追い出された厄介者を、引き受けなければいけなくなるテイラー侯爵さまにとって、幸せなことなど何もありはしない。
深く溜息が零れる。お父さまもお兄さまも、きっと私の言うことを聞いてなどくれないだろう。私は、どうしたらいいのかしら。私の口からは、心から溢れる不安が尽きることなく溢れている。
ついにこの日がやって来てしまった。段取りは全てお父さまがテイラー侯爵さまとやり取りし、私の、鞄一つに収まる荷物は、お母さまの言いつけで使用人によって早々にまとめられた。
馬車が私の体を揺らす。舞踏会へ行くときとはまるで心の置き場が違った。顔も分からなければ、声も聞いたことがない。手紙の文面すら見ることを許されなかった。お若い方だとはお兄さまが言っていたけれど、一体どんな人なのだろうか。
「すぐに愛想を尽かされて、帰ってくることのないように」
お母さまの声が頭を巡る。それは侯爵さまが私を望んでいるのであればの話だ。もし彼が、お姉さまとの婚姻を望んでいるのであれば。私との婚姻に嫌な顔をするならば、すぐにこの話はなかったことにして帰ろう。お兄さまは、この婚姻は「お前のためにするものではない」と言っていた。そうよ、これは、テイラー侯爵さまの望みがすべて。だから、彼が望まないのであれば、この婚姻は成立しないのだ。
あれこれと考え込んでいる内に、馬車の歩みがゆっくりになる。やがてそれは完全に止まって、御者が扉を開けてくれた。彼の手を取り馬車を降りる。外を見ることを忘れていた私は、あっという間に田舎町へと姿を変えた世界に驚きを隠せなかった。
石畳の多いマディラとは違い、一面が緑に覆われているかと思うほどだ。鼻をくすぐる、草花の香り。どこからか、馬の嘶きが微かに聞こえてくる。
御者が私の鞄を下ろし終える。
「お嬢様、お別れが名残り惜しいのですが、後の予定がございまして、私はこれにて失礼させていただきます」
「ここまで連れてきてくれてありがとう。お元気で」
「ヴィオレッタお嬢様も」
ハグを交わし、御者席に着いた彼は再び馬へ鞭打つ。砂埃をあげて馬車は来た道を戻っていく。その姿を見送って、私も荷物を持ち上げた。
言われた通りの住所で、美しい薔薇が実るアーチが私を出迎えた。広い庭。そのずっと先に、古くて大きなお屋敷がある。あれがきっと、テイラー侯爵さまが住んでいるお屋敷なのだろう。歴史を感じる景色。綺麗に整えられた芝。高まる緊張に、心臓が弾けて、口から出てしまいそうだ。怖いお方だったらどうしよう。どうしましょう、手が震えてしまう。
鉛のように足は重いのに、考え事をしていたせいか、あっという間に玄関の前までやって来てしまった。胸に手を当てて、一度大きく息を吐き出す。震える手を軽く握って、重そうなチョコレート色の扉をノックした。
「マ、マディラのアビントン家からやって参りました。ヴィオレッタ……」
と申します、と言おうとした言葉は、突然開かれた扉によって言うことができなかった。扉にくっつくようにして、中に声を掛けていた私の体は、内側に開いた扉に攫われるようによろける。「ああ、危ない!」と少し昂ったような男性の声が私を抱き留めた。
「すまない。あまりに待ち焦がれすぎて、扉を早く開けすぎてしまった。大丈夫かい?」
「は、はい。私は、大丈夫です」
私の両腕を掴むようにして支えてくれていたその人は、私がしっかりと立ち直したのを確認すると、もう一度「大丈夫だね」と言葉でも確認してから、ようやく手を離した。
「マディラからここまではとても遠かっただろう」
「いえ、そんなこと。考え事をしていたら、あっという間でしたので」
「考え事? それは楽しいこと?」
「えっと、あの、」
「まぁいいか、それは。君の部屋はもう準備をしてあるから、まずはゆっくりそこで休むといい。荷物の整理もあるだろうし」
馬車の中で考え事をしていたことを切り出そうとすれば、会話のテンポの速さに置いて行かれる。エヴァンス、とその人は振り返り、人を呼ぶ。真っ白なブラウスの上に纏った、若草色のベストの背中に、なぜか芝がいくつも付いていることが気になった。けれど、それすら聞ける暇がない。
「はい、坊ちゃま」
「アビントン家のご令嬢が参った。部屋へ案内して」
「はい、かしこまりました」
エヴァンスと呼ばれた、少し腰が曲がり、白まじりの髪をキュッと結った小柄な女性は「さぁ、こちらへ」とニコやかに私を促す。
「あ、あの、」
「お荷物は、私が」
今度は赤毛の若いメイドが、音もなく突然私の隣に現れるから、驚いて体が跳ねる。上がりそうになった悲鳴を懸命にこらえ、代わりに息をまず吐き出した。
「いえ、荷物くらい私が自分で、」
「いいえ。ご遠慮なさらないでくださいませ。これが私どもの役目ですので」
半ば強引だった。私よりも一つか二つ、年も下であろう女の子に予想以上に強い力で鞄を奪われ、それ以上は何も言い出せない。あれよあれよという間に、屋敷の中へ連れて行かれる私を、坊ちゃまと呼ばれていた彼が鼻歌まじりに見送っている。勢いに流され考える余裕もなかったが、きっとこの人が、この家の主人である、アリス・テイラー侯爵さまなのだろう。