舞踏会があった翌朝から一週間ほどぐずついた天気が続いた。ようやく訪れた晴天に、溜まってしまっていた洗濯物を一気に済ませる。これが終わったら街に出て、お夕飯の買い出しに出掛けようと考えていると、お部屋の中からジャックお兄さまが「すぐに応接間へ」と声を掛けてきた。
濡れたエプロンを外し、くるぶしまであるスカートのよれた裾を整える。応接間へ顔を出せば、早々にお母さまから「紅茶を淹れてちょうだい」という要望が入った。すぐに、と返事をしキッチンのほうへ急ぐ私の背中に「全員分よ」ともう一度お母さまの声が当たった。
湯と茶葉を用意し、茶器を載せたワゴンを押す。応接間へ戻れば、先ほどまでいなかったお父さまとシエナお姉さまもいて、お姉さまは退屈そうにソファーの上で一つ欠伸をした。
「先ほど、手紙が届いた」
ポットから注いだダージリンの甘やかな香りが私の鼻をくすぐる。お父さまの前に、ティーカップを置くのと同時に、お父さまはそう口を開いた。
「手紙?」
シエナお姉さまが首を傾げる。
「ああ。アリス・テイラーという男からだ」
「アリス・テイラーというと、クランブルの侯爵ではないですか」
お兄さまがお父さまに言う。艶やかで真っ直ぐなジャックお兄さまの茶色の髪は、窓から差し込む光が反射して、ダージリンの紅茶のようにキラキラと光っている。クランブルは確か、とてものどかで、フルーツや野菜が豊かに実る町だ。お兄さまの話では、そのアリス・テイラーという男性はその町の領主なのだという。
「そのテイラー侯爵が、一体なんの手紙を?」
「うちの娘を、嫁に貰いたいそうだ」
真っ赤なシーリングワックスが目立つ白い封筒を掲げ、お父さまが言う。まぁ、といの一番に色めきだった声を上げたのはお母さまだった。
「もちろんそれは、シエナを、ということですわよね?」
「おそらく」
「おそらくって?」
お母さまが眉を顰める。お父さまは「んー、いや、」と言い淀みながら、最近ぽっこりと出てきたお腹を隠すように、ベージュ色のベストをそっと整えた。
「それが、手紙には『ご令嬢さまを』としか書かれていなくてな。誰を、という名前がないんだよ」
「ヴィオは社交界に出たことがないんですよ。シエナに決まっていますわ」
お母さまが扇子で私を差す。私もそれに「ええ」と賛同し頷いた。
「先日の舞踏会でも、皆、お姉さまに釘付けでした。私に……とは、考えられません」
「テイラー侯爵とは踊ったのか?」
「さぁ。どうだったかしら。覚えていないわ。ヴィオの言う通り、たくさんの紳士とダンスをしたので」
お兄さまに尋ねられたお姉さまは、困ったように答えるけれど、その声はどこか上機嫌そうに聞こえた。先ほどまでの退屈さは、すっかりとなくなっているようだった。
「ついにシエナも結婚ね。ああ、忙しくなるわ」
ふふふ、とお母さまが可愛らしく両手を重ねて言う。はぁ、と幸せに満ちた溜息を遮ったのは、
「私、テイラー侯爵とは結婚したくないわ」
他の誰でもなくお姉さま本人だった。
「えっ!」
お母さまが悲鳴に近い声を上げる。なぜ、と詰め寄られたお姉さまは「だって」と、紅茶をそっと啜って続けた。
「クランブルなんて田舎……ではなくて、顔も分からない侯爵さまのところに嫁ぐなんて、私、不安よ」
「でも、シエナ。そんな選り好みしていたら、次の縁談はいつになるか……」
お母さまの口元が引き攣る。お姉さまは、特にそれを気に留めることはしない。気に留めないどころか、とても自信に溢れた笑顔でお父さまとお母さまを見た。
「私、皇子さまに気に入られたのよ。先日の舞踏会、私、一番に皇子さまから誘われたの。それから、食事の誘いもいただいたわ」
ええっ、とお母さまの口からはまた高い声が上がる。お母さまの表情が、いつにも増してコロコロと大きな変化を見せるから、目が回ってしまいそうだ。
「お父さまだって、田舎の侯爵さまよりも皇子さまのほうがいいに決まっているでしょう?」
「そ……れは、たしかに、そうだな」
うん、とお父さまは緩む口元を隠すように頷く。きっと頭の中は、この家の繁栄を思い描いているのだろう。
「では、このテイラー侯爵の申し入れは断るということで、」
「いえ、父上。テイラー侯爵の縁談は受けましょう」
「ちょっと! お兄さま、何を言っているの? 私は絶対にイヤよ」
「最後まで話を聞け、シエナ」
綺麗な唇を歪ませたお姉さまを、ジャックお兄さまは冷静に制止する。高い声は頭が痛む、とお兄さまは眉間に皺を寄せて、こめかみを指で押さえた。
「テイラー侯爵の元には、シエナではなくヴィオレッタが嫁ぐのです」
お兄さまの口から突然紡がれた私の名前に肩が跳ねる。困惑した声を私とお父さまが同時に上げた。
「手紙には『ご令嬢さま』としか書かれていなかったのでしょう? ならば、ヴィオもそれに当てはまりますから」
「でも、ジャックお兄さま、私では……」
「いいえ、ヴィオ! それがいいわ。これを逃したら、ヴィオにはきっと縁談話は舞い込んでこないわよ。ね!お父さま、お母さま」
お姉さまが一度手を叩く。
「お相手が侯爵さまなら、お父さまも文句はないでしょう?」
「うーん、まぁ……そうだなぁ」
「そうよ。これで決まり。よかったわね、ヴィオ。ヴィオにはきっと、のどかな田舎暮らしがぴったりだと、姉さまは思うもの」
「ええ。私もそう思うわ」
ずっと険しい顔をしていたお母さまも、パッとその表情を明るくさせる。
「それでは、私はこれから商談がありますので」
お兄さまが席を立つ。このままこの話が進むべきではないと思う私が「お兄さま」と声を掛ければ、彼は一度私に視線を向けた。ブラウンのジャケットを羽織りながらお兄さまは、あの日、舞踏会で見たお姉さまと同じ目で、
「婚姻は、お前のためにするものではない」
と言った。