「――ステーキのほうがよかったな」
「私が食べたかったの。ヘルシーだし、偶にはいいでしょ」
メイフェアにある日本料理店で、ニールとエマはテーブルを挟んで向かい合っていた。
黒を基調にしたジャパニーズモダンな店内にはジャズが流れていて、ニールは意外と合うもんだなと思い聴き入っていた。周りのテーブルを埋めている客たちは、エマと同様ほとんどがスーツ姿――それも、安くはなさそうな――だった。いい値段のするこの店に、仕事帰りに寄って一杯引っ掛けるのを習慣にしているような
食べているあいだ、ふたりは特になにも話さなかった。その所為かニールは寿司と天麩羅の盛り合わせをあっという間に平らげてしまい、エマが食べ終わるまでビールを飲んで待っていた。つまみにと頼んだ枝豆をラビオリのように包んで揚げたものが旨くて、つい飲みすぎてしまいそうになる。
なんとか酔っぱらうことなく店を出ると、ふたりは肩を並べ、ハイドパークのほうへ向かって歩いた。お互い、場所とタイミングを計っているのがわかる。やがてパークレーンから広い三叉路へ抜け、人影も疎らになると、並木を背にエマが立ち止まった。
ニールは煙草のケースを出そうとしてポケットを探り――持っていないことに気づいて舌打ちをした。
「ねえニール……やっぱり、一緒に暮らしましょうよ。仕事ならなんとかなるわ。私もファッション誌以外にだって知り合いはいるし――」
「あー、またそれかよ。そんな気はねえって云ってんだろ、しつけえな……そんなことよりもよ、金。すまねえが早いとこ貸してくれねえか。煙草も買いたいしよ……」
そう云うと、街灯に照らされたエマの顔ががらりと険しくなった。
「それよ……あなたがそんなふうだから! だからもうこっちに来てって云ってるんじゃない! お金だって、貸すのはかまわないわよ、返してもらわなくたっていいくらいよ。でも、私は? あなたはお金だけあればそれでいいのかもしれないけど、じゃあ私っていったいなんなの? あなた、すぐ私のことを元妻元妻って云うけど、私は
エマはそう云って持っていたバーキンを振り回し、どかっとニールの腿のあたりにぶつけた。
「痛ってえな! 俺に、いま以上に情けなくなれってのか! 金がねえからっておまえんとこに転がりこんで、小遣いもらって飲んでろってのかよ、そんなヒモみたいな真似を俺にしろって? 冗談じゃねえ……金はちゃんと返す。だから、早く出しやがれ、煙草を――」
「あなたのプライドなんかどうでもいいわよ、私があなたと暮らしたいって云ってるの! どうしてわかってくれないの……私だって仕事で疲れて家に帰ったとき、誰かに傍にいてほしいのよ……。ねえ、私のこと、もう愛してないの? 私と一緒になんていたくない?」
「そうは云ってねえだろ! 俺だっておまえと――」
おまえと昔のように一緒にいたいと思っている。だから――と、ニールは云いかけた言葉を呑みこんだ。
だから、あの映画を成功させて富と名声を手に入れたかったのだ。世界的に有名なファッション誌の編集長として名を馳せている、元モデルでスタイリストでもある、才能に溢れるエマと釣り合う自分になるために。
〈
しかし今の自分のままでは、とても父親になる自信など持てなかった。
たった一本でいい。ちょっとばかり小細工を弄するのも厭わなかった。自分のセンスで見出し、自分の仕掛けでスターダムに伸しあがらせたバンドの、伝説になるような映画を作って名を揚げて、成功を実感するに足る金を手にしたかった。そして、堂々とエマの隣に立てるようになりたかった。
そのあとでなら、休業ということにしてジョン・レノンのように
なのに――あと少しでそれが叶うはずだったのに、どうしてこんなことになってしまったのか。
「……とにかく、俺もちょっといろいろ考えようとは思ってるからよ、今回もう一度だけ金、貸してくれ。それとな……すまねえが、ロニーにはおまえと俺が会ったこと、云わないでおいてくれ。あっちも、落ち着いたらちゃんと――」
「落ち着いたらって、なにがどんなふうに落ち着くっていうの……。ロニーも大変だろうけど、テディだって可哀想に……。なんであんなところを撮ったの、どうしてあんなことになったのよ」
話がそこに向くと、ニールは下を向き、ゆるゆると頭を振った。
「だから、俺が訊きたいくらいだっつったろ。こんなことになるなんて思ってなかったんだよ……そりゃあ、ロニーたちにすりゃ俺に責任があることだし、責められてもしょうがねえが」
「もう、答えになってないわよ……ねえ、もしその気があるなら私も一緒にプラハまで行くから、ちゃんと
「逃げやしねえよ。ってか、おまえには関係ない話だろ。だから……早く、金を貸してくれ」
ニールがそう云うと、エマは泣くのを堪らえているような表情で俯き、バッグから封筒を出した。
「……返さなくていいわ」
「いんや、ちゃんと返す。……いつになるかはわからんが」
それを聞き、エマは顔をあげて大きく溜息をついた。
「……そんなにプライドが大事? 中途半端な、誇大広告みたいな見せかけだけのプライドが」
「なんだと?」
「だって、そうでしょう!? 金はちゃんと返す返すって、ずいぶんご立派に聞こえるけど、結局そうやって何度も私に頼ってくるんじゃない! けれど一緒に暮らすのは嫌? 勝手よね、私がそうしたいって云ってるのに、あなたは私の気持ちより自分のプライドのほうが大事なのよね――」
「最後だっつってんだろ! 俺ぁ確かに勝手かもしれねえが、おまえだって俺の気持ちなんざちっとも考えてねえじゃねえか! プライドプライドっつーが、おまえは俺がヒモみたいな真似を平気でできるような男だと思ってやがったのかよ! できねえよ、できるわけねえだろうが!!」
「そこまで云うならお金だって借りに来るんじゃないわよ! 自分でしっかり稼ぎなさいよ、ちゃんとしてよ! 収入が足りないなら煙草もお酒もやめなさいよ! 云ってることはもっともだけど、やってることが追いついてないのよ、中途半端なの!!」
――ぐうの音も出ない。ニールはがっくりと肩を落とした。エマは声を詰まらせ、バッグを開けてハンカチーフを出した。そしてそれを握りしめると溢れそうになった涙を拭い、はあ、と静かに息をつく。
「……違う。こんなことが云いたいんじゃないわ……あなたがヒモみたいなのは嫌だって云うのもわかるわよ。でも、ちょっと順序が違ってもいいじゃない……。とりあえずこっちに来てやりたい仕事をみつければ、それで問題ないじゃない。映画とか音楽のライターみたいな、あなたの得意なことでいいじゃない。私はあなたに好きなことをしていてほしいの……だって、そういうあなたが好きなんだもの。ただ傍にいてほしいだけなのよ、愛してるの……!」
だんだんと上擦る涙声に居た堪れなくなり、ニールは黙ったまま、くるりとエマに背を向けた。
「待ってよニール! ……私が悪いの? ねえ、私が仕事で成功したのがいけなかったの? 私はじゃあ、どうしたらよかったの……。ニール、答えてよ、ねえ……!」
背中に刺さる声に、ニールはもうなんの言葉も返すことはできなかった。
――いい歳した男の涙声なんて、ヒモよりみっともねえや。
西へ行けば近くにハイドパークコーナー駅があったが、煙草を買いたかったのでニールはピカデリー通りをホテルなどの立ち並ぶ賑やかな、東のほうへ向かって歩いた。
ハードロックカフェの前を通り過ぎ、そういえば昔エマと一緒に来たなと想い出が一瞬過ぎり、ちくりと胸が痛む。それをごまかすかのように、ニールは煙草、煙草と唱えながらひたすら歩いた。やがて路地に小さな店をみつけ、ニールはアンバーリーフ・ブロンドという手巻煙草を買った。
さて、とニールは辺りを見まわした。吸うためにはどこかで巻かなければならない。シガレットローラーも持ってきてはいなかった。どうしたものかと考えていたが周囲は暗く、そんな細かい作業ができそうな場所など思いつかない。
しょうがない、グリーンパーク駅まで行ってトイレででも巻くか、とニールは足早に歩き続けていたが――
「……ジェイク?」
その駅まであとちょっと、というところで、ずっと捜していた人物に似た人影を見かけ、ニールはぼそりとその名を呟いた。すると、その人物ははっとして立ち止まり、慌てて元来た方向へと走りだした。――ジェイクだ。
「待ちやがれ!! ジェイク……おい、待てこの野郎!」
暗い舗道を懸命に走り、ジェイクを追いかける。こんなふうに走ることなどこの十年ほどはまったくなく、思わず普段の不摂生な生活を呪ったが、それはジェイクもあまり変わらないようだった。ほとんど同じペースで速度を落とし始め、もつれた脚をゆっくりと止めると膝に手をつき、肩で息をする。その肩をがしっと掴み、ニールはあがった息を整えようと深呼吸しながら、やっと云った。
「ちくしょうこの野郎……捕まえたぞ。どういうことなのか説明、してもらおうじゃねえか……!」
「わ、悪かった……! ゆるしてくれ、家を追いだされそうで、切羽詰まってたんだ。他に金を工面する手立てを思いつかなかったんだよ、本当にすまなかった……!」
「けどおまえ、結局あのフラットは追いだされてんじゃねえかよ。俺が渡したあの金は? あれで払ったんじゃなかったのか? いや、おまえんちのことなんかどうでもいいや。それより、あのディスクはどうしたんだ。いったいなんであんなことになってる? おまえがあのサイトにアップしたのか、どうなんだ!」
ジェイクは真っ直ぐに立ってこっちを向き、逃げないと云いながらニールの手を払った。よろよろと路地のほうに寄るジェイクに、ニールはまた逃げられないようにと様子を窺いながらついていった。
人気のない暗い一角でジェイクが足を止める。ニールはその正面に立つと、腕組みをしてじっと顔を睨んだ。
ジェイクはすっかり観念したらしく、一気に
「……あの動画をアップしたのは俺じゃない」
「じゃあ誰だってんだ。おまえはいったいなにをしたんだ」
「……売った。前にパブで知り合ったゴシップ誌の記者をやってるって奴に、ディスクを売ったんだ。すぐにまとまった金が欲しかった……。それで、奴が買うって云うから――」
「記者だって? いや……おかしいだろ。それならなんで、そいつは記事に書いてスクープにしなかった。どうして動画サイトになんて」
「だから……俺もまさか奴がああするとは思ってなかったんだよ。奴は、あの動画で儲けようとしたんだ。でもアカウントはもう停止されてるみたいだし、いくら再生回数がとんでもない数字になってもあれじゃ儲かりゃしねえよ。あんなバカだとは思わなかった……!」
「それでジェイク、おまえはいったいいくらもらったんだ。そんなことまでしたのに、なんでおまえはミアと離れちまってるんだよ」
「……もらってたあの金、俺はちゃんとミアに渡したんだ。これで家賃が払えるだろって。そしたらミアは家賃もなにも払わないで、金だけ持ってキーラを連れて実家に帰っちまったんだ。俺、わけがわからなくて、とにかく連れ戻すにしても家賃を払わないと肝心の家がなくなるって焦っちまって……、だからディスクを売って……。その金で家賃はなんとか払ったんだが、家主の野郎、滞納分だけ受けとって、もう住まわせられねえって……。なにもかも遅かったんだ。ミアも、家賃のことなんか関係なく、俺とはもう別れるつもりだったんだよ……」
――なんてこった。
ニールはあまりにも莫迦莫迦しい話に目眩がしそうだった。自分が渡してやった金は女房に持って逃げられた? ディスクを盗んで売った金で家賃を払ったはいいが、結局追いだされた? そして買ったディスクの動画をウェブ上にアップした奴は、それで儲けられると思っていた? とんだコメディではないか。
悪銭身につかずどころか、その悪銭にすらなっていないのはいいザマだとは思うが――こんな莫迦莫迦しいことのために自分の思惑が台無しに、否、伝説になるはずの大切な作品が踏み躙られてしまったとは。
ジー・デヴィールは人気絶頂から急転直下、イメージダウンして叩かれまくり、テディはルカにさえ知られたくなかったであろうことを世界中に広められ、そして自分はあれこれと思い描いていた夢を、粉々に叩き壊されてしまった。
ニールは怒りに震え、ぐっと拳を握りしめた。
「……ミアに逃げられた時点で、なんで俺に云わなかった。家賃なんか放っておけばよかったんだよ。俺んちにいて、あのまま映画を成功させてれば、俺もおまえも家賃どころじゃねえ金を手にできてたってのに」
「すまない、ほんとに……悪かった。どうかしてたんだよ、ミアとキーラを取り戻さなくちゃ、呼び戻すには家がなくちゃって……それしか頭になかったんだ。自分がとっくに愛想を尽かされてるなんて、考えもしなかったんだ……!」
握った拳を振りかざし――そのまま
* * *
ニールはマンチェスターには帰らず、バラ・マーケットの近くにある長期滞在向きな安ホテルに部屋をとり、そこで何日かを過ごしていた。
本当はマンチェスターに戻って記者の仕事は辞め、もっとしっかり稼げる仕事をみつけ、エマに借りた金はその最初の給料がもらえるまでの生活費に充てるつもりだった。
けれど、どうしてもそんな気にはなれなかった。
ならもう、ここロンドンでエマに仕事を紹介してもらって、一緒に暮らそうか? 考えて、ニールはゆるゆると首を横に振った――なにか少しでも下手を打てばエマに迷惑がかかるのだと気を張りながら、黙々と仕事を熟し周囲とも仲良しごっこをする、なんてことはごめんだった。
映画さえうまくいっていれば。ジェイクさえ引き入れなければ――しかし、いくら考えたってもう、なにもかも取り返しがつかない。これからの人生を賭けていた映画は自分の手から離れたところで無料公開され、その原因を作ったジェイクを殴る拳も、自分は持っていなかった。愛する女との生活のために金が欲しかったのは、ジェイクも自分も同じだった。しかもジェイクは家も女房も、子供までも失った。ジェイクがやったことは決して赦せないが、おまえの事情なんか知るか莫迦野郎と殴ることは、ニールにはどうしてもできなかったのだ。
ニールは吸っていた煙草を灰皿に押しつけて消し、その手でテーブルにあったビールを取った。ぐい、と呷りながら窓を開けると、猫の額ほどの小さなバルコニーがあった。とっぷりと暮れた群青色の空の下、ちらちらと街灯やなにかの店の灯りが並木のあいだから漏れ光っているのが見える。
マーケットで酒と惣菜などを買いこみ、ニールはずっとホテルの部屋に籠もっていた。宿賃のうちである朝食を摂りに下りたとき、誰かが置き去りにしたらしいタブロイド紙をつい癖のように持ってきてしまったが、相変わらず見たくもない記事ばかりだった。丸めて壁に叩きつけたきり、拾う気さえもしなかった。
日中、浴びるようにビールを飲んで寝てしまう所為か、夜中になると目が冴えていた。TVをつけると深夜は鬱陶しい報道番組などもやっておらず、懐かしい旧い映画を放送しているチャンネルがあって、ニールは嬉々として視ていた。その二時間ほどのあいだは、昔のように幸せだった。やはり自分は映画が好きなのだと、あらためて噛み締めた。
昨夜やっていたのはフェリーニの〈8 1/2〉だった。大好きな映画だった――若い頃に観たときは難解だと思ったが、昨夜はマルチェロ・マストロヤンニ演じるグイドの――というより、フェリーニ監督の感情の揺れがよくわかる気がしたのだ。
窓枠を跨ぎ、バルコニーへ出てみる。持っていたビール瓶が空だったことに気づくと、ニールはそれを柵の上に置いた。凍りつきそうなほど空気は冷たく、せっかくアルコールで麻痺させた頭が醒めてしまった気がした。柵から身を乗りだし下を見て、ロックスターならTVを投げ落とすところだよなと考えてひとり笑う。
いいアイデアだと思った。嘘も妥協もない、伝説になる作品を作りたかった。
そして、エマと――
「……中途半端、か。まったくそのとおりだ……」
ただ好きなだけで、才能も運もない。そのくせプライドだけはあって、そのプライドが邪魔をして惚れた女と一緒に暮らせないなんて。
どっちつかずなのはやめて、駄目な自分を認めて、できることをやればいいのだろうか。今からでも遅くはないだろうか――またエマと、共に生きていけるだろうか?
「……もう一本、飲んで寝るか」
ニールは部屋のなかへと戻ろうとして――柵から離した手が置いてあった瓶に触れ、はっとした。
「おっと――」
落ちる。瓶が――ニールは思わずそれを掴もうと手を伸ばし、柵についていたもう一方の手をずるっと滑らせた。がくんと折れた躰が上半身の重みに引っ張られ、真っ逆さまに
ああ、だけど――こういうラストシーンも、けっこう悪くないんじゃないか。
カット! という声と
◎𝖡𝖮𝖭𝖴𝖲 𝖣𝖨𝖲𝖢/ 𝖳𝖱-𝟣𝟢 ~ 𝖳𝖱-𝟣𝟤 - 𝖲𝗂𝗍𝗍𝗂𝗇' 𝗈𝗇 𝖺 𝖥𝖾𝗇𝖼𝖾