ドアを閉じた手は乾いていて、深い皺が刻まれていた。ぱたんという音は廊下に敷き詰められた絨毯に吸いこまれ、屋敷内はしんと静まりかえったまま、
時間というワックスを何層にも塗り重ねたような重厚なドアの前で、アレックス・ワレリー・ヴァレンタインの長年の友人であり主治医でもあるジョージ・サトクリフは、一緒に往診に来た看護師エセルと顔を見合わせ、ゆるゆると首を振った。
「……どうしようもない。どれほど高名な医者にだって、あれはなおせない」
「いつもあんなにお元気だったのに……」
ふたりはそう云ってがくりと肩を落とし、重く息を吐いた。
もう自分たちにやるべきことはなにもないと、患者の部屋を後に歩き始めたそのとき――ふたりは、そこに顔馴染みであるこの家の執事と、若い青年が立っていることに気がついた。
頸のあたりまである
「なおせない……? どういうこと……じいさん、そんなに悪いんですか……?」
世界的な人気を誇るロックバンド、ジー・デヴィールのベーシスト、テディ・レオン――本名、セオドア・ルシアン・レオン・ヴァレンタインはそう云って表情を曇らせ、駆け寄ってサトクリフたちを押し退けるようにドアノブに飛びついた。
「あっ、待ってください! アレックスさんは――」
慌ててエセルはそれを止めようとしたが、その声はどうやら美貌のベーシストには届かなかった。患者の孫であるという彼はエセルたちを振り返りもせず部屋に入ってしまい、ドアは再び、音をたてて閉じられた。
ああ……と困った顔をするエセルの肩に手を置き、サトクリフはゆるゆると首を振った。
「……しょうがない。ふたりで話させてやろう。そのほうがいい」
「……そうです、ね……」
ふぅ、と息をつくと、ふたりは「お世話様でございました」と近づいてきた執事のグレアムと一緒に、また歩きだした。
* * *
カーテンが開けられているにも拘わらず昏さを感じる、厳かな雰囲気の部屋。繊細な装飾が施されたマホガニーのキャビネットや、クラシックなデザインのコンソールテーブル。マントルピースの上には大きな鏡、その前には花瓶や時計など、いくつかの小物が並べられ、小さなフレームに収められた何枚かの――テディと、テディによく似た面差しの女性の――写真が飾られている。
その反対側に設えられている天蓋付きのベッドで、この古い屋敷の主であるアレックスは生気を失った顔をテディに向け、嬉しそうに綻ばせた。
「おぉ……セオドア、来てくれたのか。よかった……もう一度おまえに会えた……。これでもう、なにも思い残すことはない」
弱々しく吐かれたそんな言葉に、テディは僅かに表情を強張らせた。まさか本当に、こうして病床に臥したまま――過ぎった虞れに、テディは表情を見せないようにきょろきょろと椅子を探すふりでごまかし、壁際にあった布張りの椅子をベッドに寄せ、腰掛けた。
「なに云ってんの、もうツアーは終わったし、何度だって来るよ。……そうだ、今日はなにも持ってこなかったけど、今度CDを持ってくるよ。バンドのアルバムじゃないんだけど、映画用にまたコール・ポーターをカバーしたんだ。じいさん好きだろ? 他にもなにか欲しいものがあったらなんでも――」
「こうしておまえの顔を見られただけで充分だ……。儂はもうだめだ。アンナにもおまえにも酷い仕打ちをしてしまった……その天罰が下ったんだ。もういい……これでやっと、あの子に詫びることができる」
ベッドに横たわったまま、目尻の皺を深くしてそんなことを云うアレックスに、今度はショックを受けたのを隠すこともできず、テディは言葉を失った。
前回ここへ来て祖父に会ったのは夏、ヨーロピアンツアーで訪れたマンチェスターからロンドンへと向かう合間の、ほんの僅かな時間だった。
二月にブリットアワードのスピーチで会いに行くと云ったあと、テディは本当にすぐにでも訪ねようと思っていたのだが、授賞についての取材やレコーディング、アルバムのリリースに伴うTV出演にツアーのリハーサルと休む間もなく仕事に追われ、とうとう訪問が叶わないままツアーが始まってしまった。
スペイン、ドイツ、オランダと好調に日程を消化しながらバンドは移動を繰り返し、ようやくツアーが中盤に差し掛かりイギリスへとやってきたとき。三ヶ所で行われる公演の合間に無理を云って時間をもらい、テディはやっと祖父との再会を果たした。ヴァレンタイン邸に滞在できた時間はほんの四十分程度だったが、誤解や擦れ違いで生じていた溝が既に風化し、さらさらと流れ始めた砂が隙間を埋めていくのを確認するには充分な時間だった。
帰り際、テディは慌ただしく去らなければいけないことを詫び、老人の目に少し寂しげな色が浮かぶのを見て、ある約束をした――
「なに弱っちゃってるんだよ。しゃんとしないと治るものも治らないだろ、今度一緒にジャズクラブへ行こうって云ったじゃない。俺との約束破るの?」
内心の動揺を隠してテディはそう云ったが、アレックスの穏やかな色を湛えた瞳は未来ではなく、過去を見ていた。
「ジャズクラブか……、一度くらい、あの子のステージを観てやればよかった……。あの子の歌っているところを……歌声を聴いてやればよかった。くだらないことで私は……あの子を……アンナを――」
老人の目に、後悔の涙が溢れた。
アレックスはベッドに横たわったまま、ゆっくりと、だが止め処なく悔恨の念を吐きだした。娘がジャズ歌手としてやっていくのが心配だったのならそれをやめさせようとするのではなく、信頼の置ける付き人でもつけてやればよかったのだとか、毎月ただ送金するのではなく、自らが迎えに行ってやればアンナの気も変わったのではないかとか――アレックスは頑固だった自分をこれでもかというほど責め、神に、早世してしまった娘に、そしてテディに何度も何度も赦しを乞うた。
「儂が……儂がくだらんことであの子を責めなんだら、おまえも……。ぜんぶ、ぜんぶ儂のせいだ……セオドア、儂を、儂をゆるしてくれ……!」
「もう、そんなことはいいんだって。ほら、ずっと喋ってると疲れるだろ、俺はここにいるから、少し
楽しい話をするのならともかく、こんなふうにつらい想い出話ばかりで後ろ向きになっているのはよくないと、テディは何度も話を切りあげアレックスに眠るよう促した。だがアレックスは聞かず懺悔のようにそんな話ばかりを続け、聞いているこっちまでもが気を滅入らせてしまうほどだった。テディは逐一もうそんなことはいいんだと宥めたが、どうしても吐きださないと気が済まないのか、アレックスは孫や娘が知る由もない
さすがにうんざりしていなかったと云えば嘘になる。が、そんな話さえひょっとしうたらもうできなくなるのかもしれないと思うと――テディは胸がつまるのを感じ、昏い貌を見せてはいけないとさりげなく視線を逸らした。
偶々だが、その先にはドアがあった。
「……俺、ちょっと外で煙草を吸ってくるよ。ついでになにか欲しいものがあったら頼んでくるけど、なにかない?」
思いついてそう云うと、アレックスは「儂はなにも……煙草なら、そこに灰皿があるからここで吸えばいい。儂も吸うんだ、気にすることは――」と、窓際のテーブルを指した。確かにそこには大理石らしき灰皿とライターがトレイの上に並んで置かれていたが、テディは首を横に振った。
「いくら普段吸ってるからって、具合の悪いときに傍では吸えないよ。いいんだ、俺もちょっと喉が渇いたし、なにかもらってくるよ。すぐに戻るから、ちゃんと寝ててよ?」
そう云ってテディは部屋を出ると、閉めたドアを押さえるようにして背中を凭せかけ――はぁ、と息を吐き天井を仰いだ。
この家で過ごしたことがあるとはいえ、それはほんの数日のことであったし、しかも大抵は使用人の誰かに呼ばれ、案内されるようにして後をついていっただけだった。だからテディはこの広い屋敷のなかのどこになにがあるのか、まったく把握していなかった。知っているのは自分が寝泊まりしていた、嘗ては母が使っていたという部屋からダイニングとエントランスまでのあいだくらいなものだ。
その所為か、水か紅茶でももらおうとダイニングのほうへ向かっていたつもりだったテディは、その見慣れない廊下で方向を見失い、立ち止まってしまっていた。
上がってきたときとは違う、祖父の寝室から近いほうの階段を下りていき、確かダイニングはあっちだったと左へ折れると、その廊下の先は行き止まりだった。あれ、おかしいなと思い、少し戻ってまた左へ折れると、その先には階段があった。しかし
広いといっても、学生の頃に行ったあのマナーハウスにはまったく及ばないのだが、何度か改築を重ねているらしく妙に廊下が入り組んでいるのと、一階ごとに離れている不連続な階段が何ヶ所かあって、自分の位置がわかりづらいのだ。
「まいったな……ミステリの舞台なら大歓迎な家なんだけどな」
そんな独り言を呟きつつ頭を掻いていると――
「どうかなさいましたか」と背後からいきなり声がして、テディは跳びあがらんばかりに驚いた。
「……ああびっくりした……。グレアムさん」
いつ何処から現れたのか、初めて会ったときよりも頭髪がかなり少なくなった、祖父とそれほど年齢の変わらないように見えるスーツ姿の執事に、テディは云った。
「その、ちょっと喉が渇いて。ダイニングへ行こうと思ったんですけど……迷ってしまって」
「そんなことでしたらお部屋のベルを鳴らしてくだされば、私どものほうからお伺いしましたのに」
部屋のベル、と聞いてテディは苦笑しながら、首を横に振った。そんなふうにして使用人を呼ぶなど、テディは旧い映画かなにかでしか見たことがない。
「いえ……煙草も吸いたかったんで。じいさんは部屋で吸えって云ったけど、まさか病人の傍ではね」
「まだサトクリフさま……お医者さまが、テラスのほうでお茶を飲んでおいでです。そちらでご一緒なされますか」
さっき擦れ違った医者がまだいると聞いて、テディは祖父の病状をちゃんと聞かなければと思い、頷いた。
「そうだね、さっきはろくに挨拶もできなかったし。かまわないならそうさせてもらおうかな」
「では、参りましょう」
そう云ったグレアムの顔に一瞬笑みが浮かび、テディは少し驚いた。
自分が笑いかけられるなど、初めてのことだったのだ。
「――あ、あの、グレアムさん」
歩き始めたグレアムをそう呼び止めると、彼は振り返った。
「はい、
「その、セオドアさまってやめてよ……。あのさ、変なこと訊いていいかな」
「なんでございましょう」
「グレアムさんって、俺のこと……その、好く思ってなかったよね?」
十四歳の頃――母親のアンナが事故に遭って亡くなり、一緒に暮らしていた男も姿をくらまして、テディが一時的に児童養護施設で保護されていたとき。ここイギリスのバーミンガムからポーランドのヴロツワフまで、遥々テディを迎えにやって来たのはこのグレアムだった。そしてこの屋敷からロンドンの学校までテディを送っていったのも、放校になってしまったとき連れ帰ってきたのも、すべて彼である。
だがグレアムはテディに対して、必要以上の言葉を発することはまったくなかった。ましてや今のように、笑顔を見るなどただの一度もなかったことなのだ。
祖父がなかなか自分の前に現れなかったことも相俟って、テディはきっと自分は疎まれているのだと思っていた。この家にとって、自分は厄介者なのだと信じこんでいたのである。
グレアムは少し困ったような顔をしてじっとテディを見ていたが――やがて、ばつが悪そうな、なんともいえない表情でこう云った。
「……好意を持てなかったのはセオドアさま、あなたではなくて……コンラッドさまです」
「え?」
コンラッドというのは母アンナの愛した男――テディの父親の名前である。
グレアムはふぅ、と息をつくと「長い話になります……あちらに椅子がございます。掛けて話しましょう」と、今いるところよりなお昏い、廊下の奥のほうを指した。
歩き始めたグレアムに続き、絨毯の敷かれた廊下を端まで移動すると、テディは勧められた布張りの椅子に、やや緊張気味に腰を下ろした。