ずん、ずん、ずんと単調なリズムを刻む低音だけが響いてくるレストルームの片隅で、ユーリとテディのふたりは壁のほうを向いて身を寄せていた。躰の影で手にしているのは小さな鏡、その上にはタルカムパウダーのような白い粉末。それをユーリがどこかのショップのリワードカードでふたつに分け、細い二本のラインを作ると、テディは丸めた五ポンド紙幣を使い、ライン一本分をひと息に鼻から吸いこんだ。
「……ん」
丸めた紙幣をテディに渡され、ユーリも同じように鏡の上の白い線を消した。指で鼻の下を押さえるようにし、風邪をひいたときのように何度か洟を啜り、はぁ、と息を吐く。
壁に凭れ、テディが訊いた。
「……すぐに効いてくるかな?」
「たぶんな。帰るより、ホールにいたほうがいいか……それとも、ここでしばらく様子を見るか?」
「ここはいやだな。汚いし」
壁にはびっしりとスプレーで描かれた卑猥な落書き、足許には踏み散らかされたトイレットペーパーや吐瀉物、洗面台には使い捨てられた
ユーリはテディの背中にそっと触れ、早くここを出ようと促した。
ホールに戻り、ふたりはなにか飲もうかと、またバーカウンターへ向かって歩きだした。だが、ほんの数歩進んだそのとき――
「うぁ……」
それは、始まった。
「どうした? テディ――」
どん、どん、どん、どんと肚に響き続ける音、暗闇を切り裂くように次々と色を変える光の束。踊っている集団が揺れているのか、それとも揺れているのは自分のほうか――頭のなかではぐわんぐわんと奇妙な反響を感じ、なんとか歩こうと踏みだした足は床に呑まれるように沈んでいく。
「うぅっ」
いきなりテディが足許に吐いた。それを見たからというわけではなく、ユーリも胸のむかつきに顔を顰めていた。テディの腕を引いてユーリはまたレストルームへと戻ろうとしたが、ぐらりと視界は歪み、進んでも進んでもドアに辿り着けない。それでもなんとか伸ばした手の先が壁に触れ、そのまま壁を伝ってテディを引き摺るようにして歩く。レストルームのドアを開け、そこにいた若者を押し退けるようにして洗面台に掴まらせると、躰をバネ仕掛けの人形のように折ってテディがオレンジ色の液体を嘔吐した。ユーリも並んで胃の中のものをぶちまける。
「……大丈夫か、テディ……」
一頻り吐いて呼吸を整え、蛇口を捻って跳ねた汚れを洗い流すように水を掛ける。そして水を掬った手で額や口許を濡らし、何度か唾を吐き棄ててユーリはテディに尋ねた。が。
「気持ち悪い……。まだ……、なんかむかむかする……」
テディはユーリと同じように水で顔を洗い、髪を掻きあげた。自分も悪心が治まらないまま、ユーリは心配そうにその様子を見ていた。そしてふと、鏡のなかのテディに視線を移した。そこに映る顔は蒼白く、濡れた手で掻きあげた髪は天井から照らす光を受けて、きらきらと金色に輝いている。
すると、その姿が滲むように、もうひとつのシルエットが重なった。
『つらいのか? ユーリ……大丈夫、俺がずっとついててやるよ。俺ら、
「ルネ……」
――酷い気分だった。だが、どこか現実感もない。考えたくない出来事、思いだしたくない光景が頭のなかを過ぎり、それらがふわふわと流れていくのをぼんやりと見つめているような、そんな心地だった。
壁伝いに響いてくる音は相変わらず単調で、どくんどくんと鳴る心臓の音とシンクロしようとするように足許から這いあがってくる。そして、背骨へ。ぞくぞくと、熱い氷で撫であげられているような、奇妙な感覚が走る。鏡のなかでルネはまだ笑っている。どこかから白い靄が降りてきて、ユーリを包んだ。
頬をなにかが伝うのを感じた――汗か、それとも涙なのかはわからない。なんだか、もういいんだ、という気がした。なにもかもを赦せるような、なにもかもを赦されたような――ずっとこのまま、なにも考えないでこの暖かい光のなかに留まっていたいような――
「ユーリ、ユーリ……っ、だめだ、ここ……気分が悪い、外に出たい」
テディの声に、ユーリははっと意識を浮上させた。
そうだ、テディが一緒なのだ。こんなところにいちゃいけない、外に出て、冷たい空気を吸わないと――。
ぐったりとしているテディを見て、ユーリはもう一度冷たい水で顔を洗った。顔をあげ、見た鏡にはもうルネの姿はなかった。ふぅ、と深呼吸をするとユーリはテディの腕を掴み、再びレストルームを出た。
途端に音と光の波が押し寄せてくる。テディはまたつらそうに口許を手で押さえ、ユーリも吸いこんだ空気が躰のなかで風船のように詰まっているような、奇妙な息苦しさを感じた。
なんだこれは。ユーリは思った――俺たちがやったのは本当にヘロインだったのだろうか? あの売人は調子のいいことばかり云って、俺たちを騙したのではないだろうか。なんにせよ、この状態はうまくない。どうにかしないと――
なんとかバーカウンターまで辿り着き、ミネラルウォーターをボトルのまま二本もらうと、ユーリはテディを支えて転がるように外へ出た。
「――ちょっとは楽になったか」
「ん……吐き気は治まった……」
ふたりはクラブの音が聞こえないところまで離れ、なにかの建物の扉へと続く階段に腰掛けていた。辺りはまだ暗く、時折湿った風も吹いていたが、寒さは感じなかった。
とろりと濃密な空気に包まれているような心地良さに身を委ね、ユーリは考えていた――さっきはひょっとするとろくでもない
テディは今は落ち着いているようだが、それでもまだ怠そうに手摺りに凭れ、焦点の定まらない目で
どうして自分はテディが試してみたいと云ったとき、それを止めなかったのだろう。何故テディはあの男のあんな言葉に立ち止まったのだろう? それになにより――どうしてルネを連れ去ってしまった悪魔のような女神を、俺は――
「……ホテルに戻らないと」
ユーリはゆっくりと立ちあがった。そのまま宙に浮かびあがるような錯覚を覚え、頭のなかを少しでもクリアにしようと冷たい空気を吸いこむ。それに倣い、テディも手摺りに掴まりながら立ちあがった。はぁ、とテディがまた重い息を溢すのを見て、ユーリは云った。
「……まったく、酷い目に遭ったな」
「うん……こんなんならやるんじゃなかった……、もう二度とスマックなんかやるもんか」
「ああ、そうだな。ウィードのほうがずっといい」
「ビールを買うはずだったんだよ……」
「ああ、そうだった」
テディが二度とやるもんかと云うのを聞いて、ユーリはほっとしていた。
まったくだ。ヘロインなんて、絶対にやらないほうがいい。もう絶対に手は出さない。やっちゃいけなかったんだよ、なあルネ。聞いてるか? 莫迦野郎――
「……ルネはさ」
はっとしてユーリはテディを見た。ちょうどルネのことを考えていたところへその名前が聞こえてきて驚いただけだったが、テディは途惑ったように首を振り、「ごめん」と謝ってきた。ユーリは云った。
「いや、かまわない。……ちょうど今、俺もルネのことを考えてたんだ。どうした?」
「うん……ちょっと、俺も思いだしてさ。……ルネは、なんでひとりであんな広い家に住んでたの?」
「ああ、そのことか」
ジャズクラブで演奏をするようになった頃。クラブの閉店は午前二時、楽器やらなにやらの片付けをし、その日のギャラとチップなどを分け合って、帰るのは三時を過ぎていることがめずらしくなかった。
さすがにその時刻、間借りしている部屋に帰るのは気が引けるとドリューが云うので、クラブの帰りは決まってみんな、ルネの家に集まるようになった。気分が高揚したまま朝まで飲み明かすこともあったし、疲れて適当に雑魚寝することもあった。それもまた、楽しみのひとつになっていたのだ。
ルネの家はヴルタヴァ川沿いの道をずっと南下した、郊外の住宅街にあった。初めてやってきて、通りからその家を見たドリューたちはその大きさに圧倒されていたが、よく見ると左右対称のそれはイギリスでもよく見かけるセミデタッチドハウス、つまりひとつの建物で二戸の物件だった。まあ半分だとしても
もともとそこはルネの祖父母の家だったのだと、ユーリは聞いたことがあった。ふたりがしょっちゅう連むようになった頃にはもうルネの祖母は他界していて、その家にはルネと母親と祖父の三人が住んでいた。三人兄弟のいちばん末っ子であるユーリは家にいると使いっ走りにされるので、しょっちゅうクレツキ家に入り浸っていた。
だが祖父が病に倒れて療養所暮らしになると、ルネの母親カテジナはその世話に追われ仕事を減らさざるを得なくなり、医療費と生活費のやりくりに困るようになったらしい。カテジナがみつけた解決方法は、そこそこ財産を持っている男と再婚することだった。ルネと同じ、輝くようなプラチナブロンドを持った彼女にとってそれは、それほど難しいことではなかった。
十三歳になったばかりのルネは、母を軽蔑した。
療養所まで遠かったこともあり、カテジナは新しい夫と共に便利のいい場所にみつけたアパートメントに越した。が、ルネは一緒についていかなかった。カテジナもカテジナで、まだ十三歳のルネがひとりでその家に残るのを止めはしなかった。二週間に一度程度、生活費を渡しにやっては来たが手料理の鍋を持ってくるようなことはなく、ルネが悪友たちと部屋を荒らしてもそれを叱りもせず、掃除したりもしなかった。そしてそのうち腹が大きくなり赤ん坊が産まれると、カテジナはまったく寄りつきもしなくなった。生活費でさえ近くに住むカテジナの妹、つまりルネの叔母に言付けるようになったのだ。
この頃ルネとユーリは連んで悪さばかりしていて、警察の厄介になったこともあるのだが、それでもカテジナはしょうがなく
――ルネは実質、母親に棄てられたようなものだったのだ。
「そういやあの家、どうなったんだろうな」
「……葬儀のとき、おかあさんとかおばさんとか、いたよね……」
ユーリは結局、テディの質問にはなにも答えはしなかった。が、テディはなんとなく察したのか、そう独り言のように呟いたきり、もうなにも云わなかった。
ユーリはそのとき、テディの表情から朧気に感じとった――ああこいつも、人に云えないようななにかを抱えているんだな、と。
『こいつで厭なことや肚の底にたまってる黒いもんは綺麗さっぱり消しなって』
いつまでも消えない厭な記憶や、後悔していること、埋めることのできないぽっかり空いた
そしてテディも自分も、その差しだされた手をとってしまったのだ、とユーリは思った。ただ、躰が受けつけず悪心と嘔吐で気持ちいいどころではなかったが――
これでよかったのだ。まだ、ルネに逢いに行こうとは思わない。
ふらふらと歩いてホテルまで辿り着き、ようやく部屋に戻って時計を見るともう三時を過ぎていた。
テディは恐る恐る、という感じにそっとドアを開けていたが、そのまま静かに部屋に入っていったということは、ルカはまったく起きる様子がなかったのだろう。ほっとしながらユーリも自分の部屋に戻り、ベッドの上に躰を投げだした。
「……ゲイヴィレッジに行っときゃよかった、か……?」
暗い天井を眺めながら、ふとそんなことを考える。が、ユーリはくっと喉の奥で笑い、すぐにその考えを否定した。
テディは仲間だ。自分が声をかけて始めたバンドの、大切な一員なのだ。ルカは今はテディと好い仲だというだけで、バイといってもどうもストレート寄りな気がするし、性格も生真面目な坊っちゃんだ。自分とテディが
テディは弟分のようなものだな、とユーリは思った。ルネのときと同じに――そして、今度こそ連れていかせたりしない。
二度とヘロインなんかに手は出させないし、なにかあれば自分が護る。ユーリはこのとき、そう心に誓った。そう――みんなで酒を飲んで、騒いで、偶にジョイントを廻す程度で充分じゃないか、と思った。
本気で、そう思ったのだ。
* * *
――翌朝。
起きて
ユーリは眉をひそめ、ルカに尋ねた。
「……テディは? まだ起きてこないのか」
「起こしたんだけどな、なんか疲れてたみたいだ。たぶんもうじき来るだろ」
ルカがそう答えるのを聞き、ほっとする。少なくとも眠っているあいだに具合が悪くなったり、呼吸が止まったりはしていないとわかったからだ。もうそういう心配をする必要はないだろう。ユーリはなにも云わないまま、グラスに水を注いだ。
そして程無くテディも現れた。なんだか怠そうではあったが、水を飲んでトーストに手を延ばすのを見て、食欲もふつうにありそうだと安心する。
ルカが「そういやおまえ、夜中にどこ行ってたんだ?」などと云いだし、一瞬ひやりとしたが、テディは巧くごまかした。意外と嘘が巧い。
いつもどおりの、何事もない平和な朝。特になにを話すこともなく、みんな黙々と食事を続けている。テディが二枚目のトーストを手に取り、またマーマレードをたっぷりと塗る。ユーリがなんとなくそれを眺めていると、テディがそれに気づいたように顔をあげ、一瞬目が合った。
――昨夜のことは、もちろん誰にも云わないさ。
さりげなく視線を逸らしながらそう内心で呟くと、ユーリは口許に笑みが浮かぶのを隠すように、さくりと薄いトーストに齧りついた。
◎𝖡𝖮𝖭𝖴𝖲 𝖣𝖨𝖲𝖢/ 𝖳𝖱-𝟢𝟦 ~ 𝖳𝖱-𝟢𝟧 - 𝖤𝗅𝖾𝗉𝗁𝖺𝗇𝗍 𝖲𝗍𝗈𝗇𝖾