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TR-04 - Elephant Stone [take 1]

 誰かの叫び声を聞いたような気がして、テディははっと目を開けた。


 しんとした室内は暗く、半身を起こして見えたドアの傍の常夜灯に、ここがホテルの部屋だと思いだす。テディはサイドテーブルの上のランプを手探りでつけ、隣のベッドを見やった。ルカはブランケットをすっぽりと頸までかぶりこちらに背を向けて眠っていて、灯りの所為で目を覚ましたりすることもなさそうだった。

 冬の足音はまだ聞こえないが、ここマンチェスターは今の時期もっとも雨が多く、朝晩はかなり気温が下がる。部屋のなかは空調が利いているのかどうかわからない程度にひんやりとしていた。なのに、躰はじっとりと汗ばんでいる。肌に貼りついているシャツの不快さに顔をしかめ、指で抓んで引っ張ると、テディはそっとベッドから出た。

 ――叫んでいたのは、きっと自分だ。


 シャツを脱ぎ、バスルームで顔を洗う。冷たい水が頭のなかまですっきりさせてくれる気がした。鏡のなかの不安げな顔に向かって、ここはホテルの部屋で、いま自分がいるのはイギリス、マンチェスターで、バンドの皆とプロモーションをしにやってきているのだと云い聞かせる。ルカもジェシも、皆一緒だ。もうなにも起こったりはしない――そう内心で何度も唱え、ようやく落ち着いてくると、テディは部屋に戻ってベッドの端に腰掛けた。

 慣れない場所で眠ると、未だに悪夢をみて魘されることがある。今ではすっかりセックスなどただの気持ちのいい遊びだとしか思っていないのに、子供の頃に感じた恐怖は自分のなかの奥深くに巣喰っていて、忘れることは許さないとでもいうように時折こうして暴れまわる。

 こんなとき、学生の頃なら煙草を吹かしてぼぅっとしたりしたものだが――仕事がみつからず、生活費のほとんどをルカが親の金で賄っていたとき、食べる以上のことまでそれを頼るのが嫌で、煙草はやめた。

 ロニーに拾われてプロになり、売れてはいなくても自分の食扶持くいぶち程度は収入が得られるようになってからまた吸いたいなと思うことはあったが、常に一緒にいるルカはヴォーカリストだし、ユーリも楽器に金がかかるから禁煙したと云うのを聞いて、なんとなく喫煙者スモーカーに戻れないままでいた。

 煙草がだめならビールでも飲もうか――近くに遅くまでやっている店かなにかあったかなと思いながら、テディはベッドの脇に置いたバッグから替えのシャツやプルオーバーを出し、着替えを始めた。





 ホテルを出て、頼りない街灯に照らされた路地を左右に見まわしてみる。日中に見た建ち並ぶ赤煉瓦のビルディングは今は濃い灰色に染まっていて、テディを不気味に取り囲んでいた。

 広い通りへと向かって少し歩く――上はしっかりとピーコートを着てきたが、ジーンズを穿いている脚は吹く風に忽ち体温を奪われた。



 かつて『コットン・ポリス』と呼ばれたマンチェスターは十七世紀、綿工業で栄えた都市だ。産業革命において重要な役割を担い、今も街のいたるところに当時の綿紡績工場ミル倉庫ウェアハウスの佇まいが残されている。赤煉瓦の外観はそのままに、中はアパートメントやホテル、オフィスなどに再利用されているのだ。

 テディたちの宿泊したホテルもそうだった。この辺りにはないようだが、イベントスペースやギャラリーとして誰でも利用できるように解放されているところや、ライヴハウスなどもある。

 そして産業革命の地、と並んでマンチェスターを有名にしているものが、あとふたつある。ひとつはサッカー、もうひとつは音楽、マッドチェスターである。

 一九八〇年代後半頃からこの地を中心に起こったムーブメントであるマッドチェスターは、当時はマンチェスターサウンドと呼ばれ、若者のあいだで大流行した。延々と鳴り続けるサイケデリックな音楽、エクスタシーと呼ばれる合成麻薬がもたらす多幸感、それを共有しようと集まり、一晩中踊り狂う若者たち――そんなレイブカルチャーのなかから、ストーンローゼズ、シャーラタンズ、インスパイラルカーペッツ、ハッピーマンデーズなど、たくさんのバンドが世に出ていった。

 マッドチェスター自体は短いムーブメントに終わったが、ストーンローゼズは名盤を残し、ビートルズ、ピンクフロイド、セックスピストルズ、クイーンなどと並び、イギリスにおけるロックの歴史にしっかりとその名を刻んでいる。



 テディはポケットに手を突っこみ、肩を窄めながら吹いてくる風に背を向けて歩き始めた。マンチェスターには初めて来たが、知らない土地を歩くことには慣れている。確かあっちには大きな駅があったはずだと頭のなかの地図を辿り、テディはピカデリー駅のほうに向かって歩きだした。駅の近くならきっと開いている店があると踏んだのだ。だが――

「おい」

 突然背後から肩を掴まれ、テディは弾かれたように振り向いた。

 そこに立っていたのはユーリだった。自分の反応に逆に驚いたような表情で「すまん、驚かせちまったか」とユーリが云うと、テディはほっと肩の力を抜いた。

「うん、ちょっとびっくりした……どうしたの? こんな夜中に」

「それはこっちの台詞だ。おまえこそこんな時間にホテルを抜けだして、どこへ行くつもりなんだ」

 テディはどう云おうか、と少し迷いつつ、正直に答えた。

「目が覚めちゃって、もう眠れそうになくてさ。散歩がてら、ビールでも買いに行こうかと」

「ビール? それなら反対側だろう……あっちはピカデリー駅だが、夜は近づかないほうがいい。ちょっと裏に行くと立ちんぼや売人プッシャーだらけだ」

「そうなんだ……詳しいね」

 そう云うと、ユーリはにっと口許に笑みを浮かべた。

「ジェシに聞いたのさ」

 その言葉に、そういえばジェシはマンチェスター育ちだったと思いだす。

「そっか、忘れてた……。じゃあ、どっちへ行こうかな」

「飲みに行くんなら、ノーザンクォーターだろう」

 ユーリはそう云って、踵を返し親指で方向を示した。「一緒に行こう。付き合うぜ」





「ところで、ユーリはどこへ行くつもりだったの?」

 ユーリと肩を並べて歩きながらテディがそう尋ねると、彼はなんだか困ったような、ばつが悪そうな顔をした。

「俺は……ちょっと、カナルストリートのほうへな」

「カナルストリート? なにがあるの」

「……おまえに要らんことを教えると、ルカに文句を云われる」

 ぽりぽりと顎を掻くその仕種に、テディは小首を傾げた。

「要らんこと? なに」

「くそ、俺が云ったってルカに云うなよ? ……ゲイヴィレッジだよ。ちょっと遊んでこようと思ったんだ」

「あ、そういうこと……」


 バンドを始めてしばらくしてから、ふとした一言でユーリとテディは互いに同じセクシュアリティだと気づいた。が、テディにはルカがいるし、ユーリはふたりとも好みじゃないから安心しろとか、ベッドを共にする相手には困ってないと云って、誘ってくるようなことはまったくなかった。

 それでも、ちょっと冷やかしたりきわどいジョークを云い合うようにはなっていたが――


「別にいいじゃない。俺も連れてってよ、ビール飲むのをそこのバーにすればいいだけだろ」

「なに云ってるんだ、やめとけ。ルカに云うぞ?」

 でおとなしいテディがそんなことを云うのが意外だったのか、思わずユーリは立ち止まり、首を横に振った。その台詞をどこかで聞いたような気がして、テディはぷっと吹きだした。

「なんだ、なにがおかしい」

「ううん、ごめん……昔、同じことを云われたのを思いだして」

 テディはくすくすと笑いながら、ユーリの顔を見つめた。「そういえば、なんとなく感じが似てるよ。ユーリと、同じことを云った奴」

「……浮気相手?」

「そうじゃないよ、ただの友達」

 懐かしいやんちゃな顔を思いだしながら、テディは云った。「とってもハンサムな奴だったんだけどね……ストレートノンケだったから」

 それを聞き、自分も何度も憶えがあると云うようにユーリは頷き、溜息を返した。



 マンチェスター北部に位置するノーザンクォーターは、洒落た雑貨店やカフェ、レストランやバーなどの飲食店が建ち並ぶ、若者が集まる賑やかなところだ。他にも何軒ものレコードショップや劇場、斬新なデザインのブティックなどもある、クリエイティヴな地区である。芸術活動も盛んで、ティブストリートを往くと巨大なオブジェやモザイクアートなど、いくつもの作品を見ることができる。



 ユーリとテディが向かったこのときは時間が遅い所為かほとんどの店は既に閉まっていて、ネオンの光も疎らだった。どこかにやっているバーかなにかないかと探して歩きながら、ふと小さなライトに照らされていた看板をみつけて読むと、金曜と土曜のみ四時まで営業、と書いてあった。どうやら他の店も、こんなふうに平日は早仕舞いしているらしい。

 それでも何人かの人影はあり、そっちのほうにきっと開いている店があると歩き続けていると――やがて微かに漏れ聞こえる音楽と、そこに坐りこんでいる数人の若者たちをみつけた。どうやらクラブのようだ。

「飲めればいいか」

「俺はかまわないよ……踊ったりはしないけど」

 ユーリとテディのふたりは、ハウス系の音楽が鳴り響いているそのクラブへと、足を踏み入れた。

 ――中は意外と混み合っていた。他にオープンしているところが少ない所為だろうか。単調なダンスミュージックに合わせて点滅するグリーンやパープルの光のなか、陶酔しきった表情で大勢が躰を揺らしている。人を避け、ホールの端を歩いて奥まで行くと、DJブースの反対側にバーカウンターがあった。顔を見てすぐ注文を聞きに寄ってきたバーテンダーに、ユーリはバス・ペールエール、テディはテキーラサンライズを注文した。

「ビールを飲むんじゃなかったのか?」

「ビールって云ったのは、店で買って帰るつもりだったからさ。ひとりでこういうところに来ようなんて思わないし」

「知らなかったな、カクテル党だったのか」

「っていうか、本当は酒、あんまり飲めないんだ」

「……いつも一本だけ飲んでたじゃないか」

「あれ、実は途中からルカとボトルを交換してたんだ。俺はいつも三分の一くらいしか飲んでないよ……寝ちゃうから」

「まじかよ、気づかなかった」

 催眠術にかかったように踊っている集団をカウンターに凭れて眺めながら、ふたりは交互に耳に顔を寄せて話していた。すると、どこから現れたのかひとりの男が近づいてきてテディに並び、カウンターに両肘をついた。

 だがバーテンダーは離れたところでグラスを拭いていて、自分たちのときのように注文を聞きには来なかった。男は無遠慮にテディの顔をじっと見て、笑顔をつくるようににっと口角をあげた。

「やあ、踊らないのかい?」

「……もう踊り疲れたんだ」

 テディがそう答えると、その男はオーケイ、わかってる、というように大きく頷き、云った。

「欲しいものがあるなら云ってくれ。大抵のもんはあるよ」

 ――売人だ。テディは困ったようにユーリの顔を見た。「なんだ? どうした」とユーリがテディの躰越しに男を見る。男はカウンターから離れてふたりの前に移動し、今度はユーリに話しかけた。

「あんたたち運がいいよ。今夜は上物が入ってるんだ……試してみないかい」

「……悪いな。間に合ってる」

「そりゃないな。エクスタシーやウィードの話じゃないんだぜ? ヘンリーだ」

「ヘンリー?」

 耳に届いたその単語に、テディはユーリの袖を引いた。気づいてこっちを向いたユーリに、「ヘンリーって、こっちイギリスのスラングだ……ヘロインのことだよ」と耳打ちする。ユーリは一瞬にして、顔色を変えた。

「悪いが、本当に要らない。友達ダチがそいつにやられたばかりだ」

「やられたって? ……ああ」

 きつい顔つきで云ったユーリに、しかしその男はさらに続けた。「そりゃあ気の毒だったな。でも、そいつは運が悪かった。麻薬ヤクでやられちまう奴ってのはほとんど、混ぜもんだらけのひどいネタを掴まされて効かないんでやり過ぎたか、普段はそこそこひどいネタを使ってんのに、そのときに限って手に入ったのが上物だったかのどっちかさ。純度が高けりゃほんの少しの量でいいのに、いつもの量使っちまってお陀仏するんだ。俺は信頼してくれて大丈夫! 今日のブツはほんとに特別なんだ、嘘は云わない。混じりっけなしの中国産、色白の姑娘クーニャンだ。チャイナホワイトさ、ブラウン粗製じゃない。そのへんで手に入るやつの三分の一で効くって保障をつけとく。まじで滅多にないぜ?」

「テディ、帰るぞ」

 ユーリは片手にペールエールの瓶を持ったまま、男を無視してテディの背を押し歩きだした。テディは持っていたカクテルを慌てて一息に飲み、空にしたグラスをカウンターに置いた。男が慌てて追ってくる。

「待て待て待て。まじで今日のを逃すと後悔するぜ……オーケイ、わかった。あんたら見ない顔だし、今日はもう初回限定の大サービスだ。お試し価格ってやつだ。こいつで厭なことや肚の底にたまってる黒いもんは綺麗さっぱり消しなって、な?」

 ――その言葉に、ぴく、とテディが立ち止まった。気づいてユーリが怪訝そうな顔で振り返る。

「テディ?」

「安くしとくんだ、打つんジャブじゃなくて嗅いでスニフやればいい。なにも危険なことなんかないさ、可愛いクーニャンが天国へ連れてってくれる」

 テディが舌で唇を湿し、俯き加減に考えこんでいるのを、ユーリは探るように見つめた。

「……欲しいのか?」

「……ちょっと、試してみたいかも」

 上目遣いにテディが答える。その顔を暫し見つめ――ユーリはくそ、と小さく毒づき、手にしていたビールを呷った。ふたりの様子を、売人の男はにやにやと笑みを浮かべ、黙って見ている。

 やがて、ユーリは云った。

「いくらだ」

 じゃああっちへ、と云って、男はレストルームへと続く通路のほうを手で示した。

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