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TR-03 - The Kids are Alright [take 2]

「――ストップ。すまんユーリ、みんな。ちょっと聞いてくれ」

 皆が一斉に演奏する手を止め、俺を見た。俺は彼らが気分を害さないよう、言葉を選びながらゆっくりと云った。

「ユーリ、初めてドラムセットを前にして叩いたのはなんだった?」

「うん? ……なんだ、どうしたんだドリュー」

 ユーリは質問の意図を測ろうとするかのように、片眉をあげてそう訊いてきた。

「悪いが、まずは答えてくれ……初めてドラムをプレイしたときのことだ。好きなジンジャー・ベイカーの真似をしたか? いきなり〝トード〟を叩いたか? どうだ」

 俺がそう続けると、どうやら彼は云いたいことをわかってくれたらしく、首を横に振った。

「〝ラヴ・ミー・ドゥ〟だな」

 ……さすがにそれは嘘だろうと思ったが、俺は笑いを堪らえながら頷いて、続けた。

「ルカ、君は子供の頃からピアノをやってたそうだが、やっぱり最初は簡単な曲から習っただろう?」

「曲……ってか、そこに行くまでが大変だったよ。指の使い方に慣れて筋力もつけなきゃいけないし、姿勢が悪いだけで注意されるし……。初めの頃レッスンで弾かされたのはたぶんシューマンだったけど、シューマンって云っても〝子供のためのアルバムAlbum für die Jugend〟ってやつにある曲とかだよ」

「だろうな。――で、だ。考えてみれば当たり前なんだが、バンド全体としても、やっぱり同じじゃないかと気がついたんだ。俺たちはまあ、いちおうそれなりに演奏はできちゃいるが、ただ好きだっていう理由でいきなり難しい曲ばかりやってた。これじゃだめなんだ」

「なにがだめなんだよ。バンドなんてよ、好きな曲でなきゃやったって楽しくねえだろ」

 ルネがおもしろくなさそうにそう云うと、俺はそれに反論はせず、まず同意した。

「そうだな。やるならやっぱり好きな曲をやりたいし、それも巧くできなきゃつまらない。想像してみてくれ、みんなが最初から最後まで大きなミスもなしに、息の合った演奏を成功させるのを……。それができたら絶対にもっと楽しいし、嬉しいはずだ。というか、バンドを始めた以上そうじゃなきゃだめなんだ。まともに一曲通してできないバンドを雇ってくれるクラブハコはないからな。だから――」

「だから?」

 皆、真剣な顔で聞いてくれている。ルネも今のところ機嫌を損ねず、黙って俺のほうに顔を向けている。俺は云った。

「だから初めは、もっとシンプルな曲からやってみたらどうかと思うんだ……俺たちは、それなりのスキルがある奴もいれば、まったくの初心者もいる。ばらばらだ。しかもバンドとしてはまだレベル1だ。だから、簡単な曲からやって呼吸を合わせていきたいんだ。俺たちの敬愛するスーパースターたちも最初に真似た音楽でだ。チャック・ベリー、バディ・ホリー、リトル・リチャード、スモーキー・ロビンソン……そういうやつだ」

 ルカとテディは顔を見合わせ、ユーリとルネははぁ? と眉根を寄せてなんだそりゃ、という顔をした。

 少し考えるように顎に手をやりながら、ユーリが云った。

「名前くらいは知ってるが、そりゃまたえらく旧いもんをだしてくるな……チャック・ベリーってのは、あれだろ? 〈バック・トゥ・ザ・フューチャー〉で主人公がやってた――」

「ああ。〝ジョニー・B.グッド〟、あれはチャック・ベリーの代表曲だ」

「簡単なスリーコードで弾ける、基本中の基本みたいなロックンロールだよな」

「ふざけんなよドリュー、そんなガキ向けなんだかじじい向けなんだかわからねえようなもん、誰がやるかよ」

 予想はしていたことだが、ルネはくだらねえ、と吐き棄てた。俺はここからどう云えばいいかと少し考えていた。が――

 そこへ、思わぬ援軍が現れた。

「……でも、そのへんの曲ってほんと、いろんなバンドがカバーしてるよね……。ビートルズは〝ロックンロール・ミュージック〟や〝ロール・オーバー・ベートーヴェン〟をやってるし、ストーンズも〝アラウンド・アンド・アラウンド〟や〝リトル・クイニー〟や〝キャロル〟や……、キースがチャック・ベリーのファンだからいっぱいやってる」

「うんうん。それを云うなら〝ロング・トール・サリー〟を歌ってるポールはリトル・リチャードのファンで、物真似も得意だったとかって前になにかで読んだっけ」

「そうだったね。それにさ、ビートルズかぶとむしっていうバンド名はバディ・ホリーのクリケッツこおろぎを真似て、虫に絡めたんだったよね」

「そうだそうだ。……そういや、いま思いだしたけどディープパープルの〝スピード・キング〟にリトル・リチャードの〝グッド・ゴーリー・ミス・モリー〟と〝トゥッティ・フルッティ〟がでてくるよな」

「〝ルシール〟も」

「〝ルシール〟もか。ああいうのってみつけるとなんかにやっとしちまうよな」

「わかる。尊敬してる人の本棚に自分が持ってるのと同じ本があったみたいな」

「それとなんだっけ……スモーキー・ロビンソンってのもあれだよな、ビートルズのカバーした……」

「〝ユーヴ・リアリー・ゴッタ・ホールド・オン・ミー〟、ゾンビーズもカバーしてたね。ミラクルズっていう、モータウンのグループの曲だよ。ちなみにストーンズは〝ゴーイング・トゥ・ア・ゴーゴー〟をカバーしてる」

「うん、ゾンビーズのはよく聴いたな。あれ、ビートルズのと違って途中でなんか違う曲入るよな」

「〝ブリング・イット・オン・ホーム・トゥ・ミー〟、サム・クックの曲だよ。おもしろいアレンジだよね」

「サム・クックもモータウン?」

「ううん、違ったと思う。モータウンで有名なのは、あとはマーヴィン・ゲイとかテンプテーションズとかフォートップス、スプリームスと、マーサ・リーヴス&ザ・ヴァンデラス――」

「あっ、それ知ってる。ミック・ジャガーとデヴィッド・ボウイが――」

「〝ダンシング・イン・ザ・ストリート〟」

「それ」

「うん、カバーしてたね。確かキンクスも」

「〈カインダ・キンクス〉な。セカンドアルバムだ」

「うん。やってたね。あとフーとグレイトフルデッドもカバーしてたっけ」

「カーペンターズもな」

 ――ルカとテディの、まさに呼吸の合った言葉の応酬に、俺たちは呆気にとられぽかんと口を開けたままになっていた。

 次々と波紋が広がり続ける水面を眺めるようになんとなく皆が沈黙していると、そこへ小石をもうひとつ、とばかりにユーリが云った。

「……ヴァン・ヘイレンもだ」

 それを聞いて、ルネが「まじかよ」と呟いた。

 俺は驚いていた――彼らの六〇年代頃の音楽の知識が想像以上だったことと、もうひとつ、テディがこれほど饒舌に話すのを聞いたのが、初めてだったからだ。

 テディはいつも物静かでおとなしく、今まで訊かれたことに答えるなど、必要なこと以外はほとんど話したことがなかった。伸ばしっぱなしの金髪で顔を隠そうとしているかのように、いつも俯きがちだったテディが真っ直ぐに顔をあげ、快活に喋っているのを見て、それまでの印象との違いにびっくりしていたのは皆も同じなようだった。

 へえ、と思い俺がじっとテディの顔を見ていると、それに気がついた彼ははっとしたように、また俯いてしまった。

「すごいな。ふたりとも、俺より詳しいんじゃないか? テディ、君もそんなふうに下を向いてないで、さっきみたいに喋ってたほうがいいぞ。そのほうがこっちも話しかけやすいし、なにより音楽の話ができるのはありがたい」

「うん、あの……ごめん。なんか、話の邪魔しちゃったかも……」

「邪魔? とんでもない。ぜんぜんそんなことはない。……君たちの云うように、六〇年代頃の音楽ってのはもう、基礎中の基礎だ。すごいミュージシャンたちがみんなそこを通ってきてる。ストーンズとかはブルースも入るんだろうが、ルーツなんだ。今の時代でも残ってるだけあって素晴らしい曲が多いが、そのわりにコードなんかはかなりシンプルだ。尊敬する先人たちに倣って、俺たちもまずはそういう基本的な曲からマスターして、レパートリーを増やしていかないか」

 ルカとテディはまた仲良く顔を見合わせて「いいよな」「うん、むしろやりたい」と首を縦に振っていた。ユーリを見ると、彼はドラムスティックでとんとんと肩を叩きながら「俺は賛成だ。そのてのオールディーズナンバーはチップ払いのいい年配の客に需要もあるしな。やれて損はない」と云ってくれた。なら、あとは問題のルネだが――

「俺ぁやだね。だいたいそんな旧い曲なんかやったら、俺の出る幕がねえだろうが」

 ルネの反応は想像したとおりだ。俺は、用意していた言葉を云った。

「いや、ルネ。おまえにはギターを弾いてほしいんだ」

「ギター?」

 俺は頷いてみせた。

「ああそうだ。ギターだ。おまえもビートルズやストーンズがツインギターなのは知ってるだろう? 俺は正直、リズムギターはいいんだがリードギターのほうはあまり得意じゃないんだ……。ソロなんかはおまえのほうが巧いと思うし、ぜひやってほしいんだ。頼む」

 リードギター、ソロと聞いてルネの顔つきが変わった。さりげなくちらりとユーリを見ると、彼も俺を見てにやりと口許だけで笑った。どうやら俺の話の運び方は正解だったようだ――少し考えこんだあと、ルネは云った。

「しょうがねえなあ、そうまで云うなら引き受けてやるよ。まあ、俺は逆にリズムギターよりリードのほうが得意だしな」

 よし。俺はうまく話が纏まったことにほっとした。


 簡単な曲をしっかりやっていくことでバンドとして息の合った演奏ができるようになり、徐々に難易度の高い曲にチャレンジしていけば自然とスキルアップも望めるはずだ。ルネもそうやって成功体験を積み重ね、達成感を味わえばなんでもすぐに投げださず、努力できるようになるだろう。

 できなかったことができて満足感を得、自分に自信をつけることは、何ものにも代え難い歓びだからだ。





「あっ――ご、ごめん。ミスった……」

 ベースを弾いていた手をテディが止めてしまい、そのまま途惑っていると、ユーリとルネもそれに倣うように演奏をストップしてしまった。テディが申し訳なさそうに謝り、ユーリが「頭から」と云ってカウントするのを、俺は「ちょっと待ってくれ」と片手をあげて止めた。

「ミスをしたら周りがフォローしなきゃいけない。演奏は止めちゃだめだ。失敗してもわからなくなっても、ずっと弾き続けたほうがいい練習になると思う」

「……確かにそうだ。客の前でごめんもやり直しもないからな」

「でもよぉ、それじゃあごまかすのが巧くなるだけで、上達とかしねえんじゃねえの?」

「……ミスったら演奏はノンストップのまま、できるまで同じところをやり直そう」

 ユーリがそう云うと、ルネは「げっ」と顔を顰めて舌を出した。

「まじかよ。下手なこと云うんじゃなかった」

 ルネがぼやく。だが今のところ、こんなふうにぶつぶつ云いはしても、ルネは真面目にギターを弾いてくれていた。作戦は大当たりだ。


 最初に俺は、基本中の基本である3連ロッカバラッドの名曲としてニール・セダカの〝The Diaryザ ダイアリー〟を皆に聴かせ、これをやろうと提案した。ルネはなんだこりゃと云いつつ、なにがツボだったのか大笑いしていた。ユーリは、ロックンロールでもない甘々なアメリカンポップスを聴いてさすがに絶句していたが、まあとりあえずやろうと俺が云うと黙って頷き、指でテンポをとりながら聴いていた。

 そしてやってみてわかったのは、スローな曲は意外と合わせるのが難しいということと、丁寧に弾く余裕があるぶん、楽器の下手さがもろに露わになるということだった。指の使い方、音の出し方――そういう細かい部分のあらが、ごまかしようもなくよく見えてしまう。これはもう、各自で担当楽器のスキルを高めていくしかない。俺も、もっと練習しようと決意した。

 一方で、良い発見もあった――ルカの甘く伸びやかな声は、こういうラヴバラッドにもってこいだということだ。彼が『Wow wow wow wow ~~♪』と歌い始めたとき、それまではしょうがないな、しばらくは付き合うかという感じだったユーリとルネが、ぴしっと姿勢を正して真剣な演奏をし始めたほどだ。ルカをみつけてきたユーリの功績はでかい。思っていた以上に、彼の声は素晴らしい。


 俺たちはそんなふうにして、簡単なバラッドやポップスを延々とやり続けた。〝Baby It's Youベイビー イッツ ユー〟、〝Sealed with a Kissシールド ウィズ ア キス〟、〝16 Candlesシックスティーン キャンドルス〟――切々と歌いあげるタイプの曲は、ルカの声質にぴったりだった。まるで彼のために作られた曲のようにさえ感じられた。

 そうしてゆっくりとした曲を繰り返し演奏しているうちに、俺たちの呼吸もだんだんと合ってきた。テディは多少ミスはしてもリズムだけは外さないようについてくるようになり、ルネも必ずの部分がある所為か、文句ひとつ云わず真面目にギターを弾いていた。あまりにも真面目に集中してやりすぎ、腹が減ったことに気づかずぶっ倒れそうになったくらいだ。

 だんだん曲のテンポと難易度も上げていき、〝Slow Downスロウ ダウン〟や〝Dancing inダンシング イン the Streetザ ストリート〟などもマスターした。そうしていくうちに曲の習熟スピードはどんどん加速していって、クローヴァーズやミラクルズのようなリズム&ブルース、ジミー・リードやマディ・ウォーターズなどのブルース、ゾンビーズやキンクスなどのブリティッシュビートと、数ヶ月のあいだに俺たちのレパートリーはかなりの数に増えていた。





「おっ、なんかいい匂いがするな」

 ホスポダの仕事を終えたユーリが扉を開けて入ってきたとき、カウンターに向かって坐りビールを飲んでいた俺たちは「おう、おつかれ」と振り返り、いつものように声をかけた。ユーリはそれに応え、上着を脱いで適当なチェアに掛けるとそのまま奥へと進み、厨房を覗いた。

「なに作ってるんだ? ばあさん。……おっ、こいつは――」

グラーシュgulášだよ。こういうもんは階上うえよりここのでかい鍋で作ったほうがいいからね。一人分かそこら作ろうったってできないしね、たくさん作って、冷めたら小分けにして冷凍しとくんだよ」

 ばあさんが食材の袋を持って現れ、厨房に籠もってしまったので俺たちは練習を始めず、こうして飲んでいるというわけだ。ユーリは厨房の入り口に凭れるようにして中に顔だけ出し、ばあさんのやることを見ていたが――

「なあ、ばあさん……俺も店でグラーシュを作ってみたりするんだが、なかなか店の味にならないんだ。ちゃんとレシピどおりにやってるのに、なんでだと思う?」

 めずらしくそんなことを相談するユーリに俺は思わず視線を逸らし、聞いていないふりをした。ルカとテディとルネの三人は、厨房とは反対側の端でなにやら話しこみ、ふざけたりくすくすと笑ったりしている。耳を澄ましているのは俺だけだ。

「店の味ねえ。ま、レシピなんかあったって、作り手が違えば味も変わって当たり前だけどね。鍋に放りこむもんをきっちり量って順番どおり入れたって、火の加減やらかき混ぜ方でいくらでも変わるからね。煮込みは簡単だからこそ難しいんだよ」

「やっぱりそうだよな……。なあ、どうしたらちゃんと教えてもらえるのかな……」

 どうやらユーリはなかなか厨房をやらせてもらえないことを悩んでいるらしい。他のことなら俺に愚痴ってくることも偶にあるが、料理のことではお手上げだ。

 俺はばあさんがどう答えるかと、そっちのほうは見ないまま聞き続けた。

「あんた、わりとバカだね。そんなの決まってるじゃないか。あんたにできる、いちばん旨いグラーシュを作ればそれでいいんだよ」

「旨い……って云ってもでも、だから店の味が――」

「ほうら、やっぱりバカだ。あんたね、自分なりの旨いもんもできちゃいないのに、いったいどこの誰がレシピやこつなんか教えてくれるっていうのさ。ちゃんと一所懸命に作ったもんを食べてもらって、そこで初めてなにが足りないとかもっとこうしたほうがいいとか、そういうことも聞けるってもんだよ」

「……そう、か……。云われてみりゃそのとおりだ」

「あんたの云ってるレシピってのは、そりゃあなにをどれだけ使うっていう、最小限の条件でしかないんだからね。料理ってのは、そういうもんさ」

 ばあさんの云っていることが、俺にはよくわかる気がした。



 プラハのサッカークラブに誘われ、パリからひとりでやってきて、早く皆に馴染んで活躍しようと頑張っていた頃――挨拶をきちんとしても話しかけても、タオルやドリンクを渡したりして気を遣っても、俺はなかなか他の選手たちに受け入れてもらえなかった。俺はそれを、人種差別だととった。自分以外に黒く縮れた髪を持ち、褐色の肌をした奴はひとりもいなかったし、嫌われる理由など他になにも思いあたらなかったからだ。

 いったんそう思い始めると、練習のときコンビを組む相手がいないのも、試合にまったく出してもらえないのも、打ち上げパーティに誘われないのもすべて俺が白人ではないからだとしか考えられなくなった。そうだと決めこんでいた。

 すっかり卑屈になってしまった俺は、そのうち練習にすら行かずふらふらと遊び歩くようになり、偶々夜の街で会ったクラブのメンバーと揉め、相手を殴ってしまった。俺はひとりだったが、相手は四人連れだった。多勢に無勢の勝ち目のない喧嘩になりかけたとき、背の高い金髪の男にたすけられ、俺はそこから逃げだした。――その男がユーリだった。

 翌々日、俺はクラブに呼びだされ、謹慎を言い渡された。喧嘩両成敗、とはいかなかった。先に手を出してしまった俺だけに処分が下されたのだ。俺はその場でクラブを辞めた。もうこんなところでこれ以上やっていけない。そう思った。

 だが後日、殴った相手がひとり、俺にわざわざ会いに来た。どうして辞めた、おまえはいったいパリくんだりからなにをしに来たんだと呆れたように云われ、俺は白人のなかに俺ひとりだけ混じってやるなんて無理なんだと、そう答えた。そして――やっぱりそんなふうに勘違いしていたんだなと、がっかりした顔をされた。

 その日、そいつとは飲みながらいろいろ話したが――結局のところ、誰も肌の色で差別などしていなかったし、新入りへの嫌がらせのようなことをやっていたのもほんの二、三人だけだった。俺は先ずすべきこともせず、勝手に誤解して勝手に卑屈になり、自分から輪の外にいただけだったのだ。

 足許の影ばかりを見つめていて、自分が光に背を向けていることに気づいていなかった。莫迦だった。



「――そろそろできたよ。……どうだい、味見してみるかい?」

 そんな声が聞こえて、俺は厨房のほうを見た。

「え、いいのか?」

「ちょっと作りすぎちまったからね。ま、偶にはいいだろ。ほら、ぼけっとしてないでそこの棚から皿五枚出しな。ただしクネドリーキKnedlíkyはないよ」

 ユーリが厨房に入り、かちゃかちゃと皿を出し始めたタイミングで、俺も手伝おうと席を立った。ルネたち三人も「お? 皿出してる」「まじで? 食わしてくれんの?」と、旨いものにありつけそうな空気を感じとったらしい。深めの皿にパセリと玉ねぎを添えたグラーシュが盛りつけられ、ユーリと俺がカウンターに並べると、ルネたちはビールの瓶だけ持って席を移動してきた。

「どうしたんだよ、ばばあが俺らに食わしてくれるなんてよ! 熱でもあんじゃねえのか、それともお迎えが近いのか?」

 ユーリは無言でばしっとルネの後ろ頭を叩いた。「痛っ! 叩くことねえだろユーリ!」と喚くルネに苦笑いし、俺はその隣に坐った。ばあさんはカウンターの中でスツールに腰を下ろし、煙草を咥えて火をつけた。

 ふーっと煙を吐きながらばあさんは、食べ始めて静かになった俺たち五人を順に見て、云った。

「どうだい、旨いかい」

「……ああ、とても旨い」

 静かな声でそう云ったユーリの顔には、笑みが浮かんでいた。俺はその横顔になんだかほっとすると「うん、旨い。最高に旨いよ、ばあさん」と云いながら、夢中でグラーシュを口に運んだ。本当にすごく旨かったのだ。ルカとテディもなんだか嬉しそうに時々顔を見合わせながら、黙々と食べていた。ルネも、さすがに食べているあいだは憎まれ口を利く暇はないようだ。

 満足げな表情で、煙草の火を灰皿に押しつけて消しながら、ばあさんが席を立つ。

「さて。あたしゃもう階上に戻るから、あんたらそれ食べたらちゃんと洗いもんしといておくれね。それからあの鍋、あとで持って上がってきてくれないかい? どうせあたしが消えたらあんたらまた、でかい音鳴らすんだろ。その前に、忘れないうちに頼んだよ」

 ばあさんはそう云って、奥のドアから出ていった。まあ、こんな旨いものを食べさせてもらったのだから、そのくらいはお安い御用だ。と、俺がそう思っていると――「おいおい、嘘だろ……」と、ルネが呟いた。俺もユーリも、なんのことかと首を捻りつつルネを見た。彼は云った。

「ばばあ、でかい音ってだけで……ヘタクソって云わなかった。初めてだぞ」

 そういえばそうだ。俺は意外だな、と思わずルネの顔を見た。

 ばあさんが悪口雑言を浴びせてこなかったことではない――いつも似たようなことで叱られてばかりいるルネが、実はばあさんの言葉をしっかり聞いていたことが、だ。

 今日はなんだか、とても好い日だ。そう思った。




       * * *




 最初に比べればずいぶんバンドとしての演奏力も上がった頃。俺たちはオールディーズやジャズを聴かせる観光客向けのナイトクラブで、オーディションを受けた。

 結果は無事合格。俺たちは週に二度、火曜と水曜の夜に演奏できることになった。その帰り道、皆――もちろん、俺も含めてだが――は重い楽器を担いでいることを忘れるほど大燥おおはしゃぎしていた。

 六月も半ばを過ぎた今は観光にはベストシーズンらしく、カレル橋には大勢の人の姿があった。そのあいだを縫うようにして、俺たちは浮かれ気分のまま、くるくると踊るように歩いた。お祝いをしなきゃと途中でスーパーマーケットに立ち寄り、スタロプラメンとソーセージやトラチェンカTlačenka、チーズにウトペネッツUtopenecパラチンキPalačinky蜂蜜のケーキMedovníkまで買いこみ、いつもの練習場所に戻った。パーティの始まりだ。


 この数ヶ月間、毎日のようにバンドとして皆で真剣に練習をしてきたけれど、本当に仲間になったのはこの晩だったかもしれない、と俺は思う。飲んで食って、くだらない話をして騒いで、一本のジョイントを廻して、冗談を飛ばして笑いあって。


 そうして、少し落ち着いてきた頃に、もらってきた契約書をじっくりと読みながら、ユーリが云った。

「……バンド名、決めないと」

 そういえばそうだった。今まで誰も云いださなかったのが不思議なくらいだ。

 契約にあたっての必要に迫られ、俺たちはほろ酔い気分のまま、緊急会議と洒落込むことにした。

「ビートルズにあやかって虫の名前からとるとか?」

「いやだね、だっせえ。どうせなら虫とか小っせえもんじゃなくて、恐竜みたいなでかいもんにすれば――」

「T.レックスがあるだろう」

「ダイナソーJr.ジュニアってバンドもあるぞ」

「……んじゃ動物! ライオンとか強いやつの――」

「ライオン、聞いたことがあるぞ。確か八〇年代頃のハードロックだったか」

「ダグ・アルドリッチか。あったな」

「それもあんのかよ……」

「あの……ありがちだけど、ストーンズみたいに曲名からとるのは……?」

「たとえば?」

「うーん、ミッドナイトランブラーズとか……」

「呆けた年寄りが夜中に徘徊してるみたいじゃねえかよ」

「でも曲名からならいろいろいいのがありそうだな……他になにかないか?」

「そうだな、リトルウィングスなんてどうだ?」

「それたぶんジミじゃなくて、ポールのファンだと思われるんじゃないかな。まあどっちでもいいけど」

「クラプトンかも」

「ってかもう絶対ありそうだし」

「……ディズレイリギアーズって、かっこいい響きなんだがな」

「おっと、アルバムタイトルまるごときたぞ」

「クリーム愛が溢れてるな」

「うーん、悪くはないけどもっとこう、シンプルなのがいいよ。クイーンとかクリームみたいに単語ひとつで」

「だから例をだせよ」

「うーんと、たとえば……シャインとか」

「禿げそうだ。やめろ」

「もっとなんかマシなのねえのかよ!」

「ザ・ハートブレイクストレンジャーズってのはどうだろう」

「……ドリュー、それは本気か? 真面目に考えたのがそれなのか?」

「オールディーズっぽい響きがいいかと……いや、いい。忘れてくれ」

「そんなに悪くないと思うけどね。そうだな、俺ら五人だし、フォアスティックスをもじってファイヴスティックスってのは?」

「レッドツェッペリンのファンじゃなきゃ、絶対の意味にとられると思うぞ」

「じゃあいっそ素っ裸で靴下だけつけて演奏するか?」

「ゼップじゃなかったのかよチリペッパーズかよ! ……あー、でもなんかエロい意味をひっかけるのはいいんじゃね?」

「……それはありかもしれない」

「よし決まりだ。ビッグティッツ!」

「俺らにおっぱいティッツはないぞ」

「じゃあ、プッシーアタッカーズ!」

「却下だ」

「ちっ……なら、クリームパイじゃ?」

「そのものずばりじゃなくなっただけマシだが、ふつうに裏の意味がわかりすぎる。ちょっと下ネタから離れろ、ルネ」

「……ずばりじゃなくて、かかってるくらいならいいの? ダブルミーニングみたいな……」

「うん? まあ、そういうことかな……なにかあるか? テディ」

「……ザ・ヴァニラクリームフィリングス、とか」

「微妙にルネとドリューの案が混ざってる感じだが……かなりエロいな」

 見た目もおとなしそうで、いつも物静かなテディがこういうダーティな話にのってくるとは意外だった。ユーリも同じように感じたらしく、彼は目をぱちぱちとさせながらテディを見ていた。

「でも、ちょっと長すぎるな。それならクリームドーナッツでいいかもな」

 テディのほうを見たままユーリが云う。それを聞いて、隣に坐っているルカが独り言のようにぼそりと云った。

「単純に好みで云うと、クリームドーナツより俺はグレイズドドーナツのほうが好きだけどな――」

「ルカっ、それは――」

 テディが慌ててルカに向かってなにか云いかけ――口を閉ざし、はっとしたようにこっちを見た。

 奇妙な間が空いたその一瞬――俺は見た。ユーリとテディが視線をかち合わせ、凍りついたように動きを止めるのを。

「グレイズドドーナツってあの砂糖の白いのぶっかけたやつ……あっ」

 ルネもなにか云いながら、しまったという顔になって下を向いた。ユーリはテディから目を逸らすように反対のほうを向き、テディはなにやらルカに耳打ちをしている。俺はいったいなんだろうと少し考えていたが――ルネの言葉でなんとなくわかってしまった。

 なるほど、そういうことか。そして、ルネはそれを知っていたということか。なら、ルカとテディのあの仲の良さにも納得だ。

 俺には偏見などまったくない。もしもユーリが俺にカミングアウトしてくることがあったら、そのときはこう答えるだけだ――そうか、君は同性愛者ゲイだったのか。で、それがどうかしたのか? と。



 翌朝。いつものアラームの代わりに俺の覚醒を促したのは、聞き慣れたオルガばあさんの怒号だった。

「なんだいこの有様は!! こンの不良坊主ども! ほらさっさと起きな! 起きなって云ってんだよ、よくもまあこんな硬い床で眠れるもんだ! ゴミも始末しないでなんだい、これじゃ虫が涌いちまうよ! 瓶もひっくり返しちまって、中身が溢れてるじゃないか、ほら起きるんだよ! ルネ!! ユーリ! ドリュー! ルカ、テディ!」

 起きな! と大きな声で云いながらばしばしと箒の柄で叩かれ、俺たちはようやく重い頭を起こした。

「……痛ぇな、なんだよ……、まだ朝じゃねえか……」

朝だよ! ほら、起きたらとっととゴミの始末しな! ゴミの始末が済んだら次は掃除だよ! このまんまにしとくなら家賃を倍に上げるからね!!」

 家賃が倍になるのはちょっと勘弁してほしい。ユーリやルカたちも起きだすと、俺たちは顔も洗わず水も飲まないまま、云われたとおり掃除を始めた。時計を見るとまだ朝の七時過ぎだった。こんな時間からいったいなにをしに下りてきたのだろうと思い、ふと見ると――ばあさんは厨房で、なにやらパチパチと音をたてていた。どうやら揚げ物を作っているようだ。

 ゴミを一纏めにし、ビール瓶を漱いで並べ、食べ溢しやビールで汚れた床を掃除する。手分けしてそれを済ませると、俺たちはやれやれと手と顔を洗い、ようやくカウンター席で落ち着いた。

「――ばあさん、今日はなにを作ってるんだ? こんな朝っぱらから」

 そうユーリが尋ねると、ばあさんは一言、「ウナギだよ」と答えた。

「ウナギ!?」

「鰻って、あの……ゼリー寄せJellied eelsの……」

 鰻と聞いて、ルカとテディのふたりが揃ってうっぷと口許を手で覆い、蒼い顔になった。嫌いなのだろうか。俺はパリにいた頃食べたアンギーユのワイン煮込みやソテーを思いだし、旨いのにと首を傾げた。

「ジェリードイール? なんだいそりゃ。そんなもんは知らないよ。あたしが作ってるのはフライSmaženýだよ」

 立ちあがって、ユーリが厨房を覗く。

「うわ、なんだこんなにたくさん……」

「もらったんだよ。朝一番に捕ってきたって云って、近所のじいさんにね。今の時期はいっぱい捕れるんだよ。で、そのじいさんはもう男やもめだし、捕ったはいいがどうしようもないってんで、うちに持ってきたんだよ」

「なるほど、フライにしたやつを返すってわけか。それにしても多いな」

「なんだい、また食べたいのかい?」

 その言葉に慌てたように「いや、鰻はいい、いらない、結構です……!」と云ったのはルカだ。相当嫌いらしい。

「俺もいらねえ。鰻だの鱒だの鯉だの、食い飽きた」

 生まれも育ちもプラハのルネがそう云った。が、俺は不思議だった――ソーセージやチーズには飽きないのに、どうして魚は飽きるのだろう。まあ俺も、どちらかというと肉のほうが好きなのだが。

 そしてばあさんは機嫌を損ねたのか、それっきり黙って料理を続けていたが――そろそろいったん解散して帰ろうかというタイミングで、なにやらパンを並べた大皿を出してきた。

「ん? ……なんだ、ロフリーク?」


 ロフリークというのはチェコのシンプルなロールパンだ。これにソーセージを詰めたチェコ風ホットドッグがパーレック・フ・ロフリークPárek v rohlíkuと呼ばれ、いたるところで売られている。

 だが皿の上に乗っているのは、それとはちょっと違うようだった。


「ほら、食べてみな」

「あ? なんだこれ? ソーセージじゃねえじゃん」

「文句は食べてからにしな」

「やだよ、なんだよこれ。鰻のフライだろ? こんなもんロフリークに――」

「食ってみな!」

 最初にユーリがひとつ取り、俺も手を伸ばした。どうやら切りこみを入れたロフリークに、鰻のフライを挟んであるらしい。オニオンスライスも入っている。しょうがねえな、食ってやるよとルネも嫌々ひとつ取った。そしてふたつ残った大皿をルカたちのほうへ廻し、俺はぱくりと一口齧ってみたが――

「……旨ぇ……」

 ルネがいちばんに呟いた。嫌いなようだったルカとテディも口を動かしながら首を何度も縦に振り、「フィッシュ&チップスみたいだ」「あれよりパサパサしてなくて旨いよ」と喜んで食べている。ユーリは「うん。こりゃ旨い」と云いながらまじまじとロフリークの中身を見つめ、「ほんとに旨いな。ばあさん、これ、タルタルソースはわかるが、この茶色いソースはなんだ?」と尋ねた。

「そりゃただ市販のウースターソースとバルサミコ酢を混ぜただけだよ。ちょっと黒胡椒も振ってあるけどね」

「へえ、こいつはいいな。うちでもなにかに使ってみるか……ああそうだ。云うのを忘れてたが、俺、厨房に入れるようになったんだ。まあ、グラーシュはまだ作らせちゃもらえないが」

「ふうん、そうなのかい。ま、せいぜい頑張んな」

 そして、ばあさんは紙に包んだ鰻のフライをバスケットに入れサーヴィエットを掛けると、「あんたら、それ食べたらこれを斜向かいのじいさんちへ持っていっておくれ」と言い付け、階上へと戻っていった。





 結局、バンド名はとりあえず『ハニーシロップ&ヴァニラクリームトライフル』に決定した。ああでもないこうでもないと悩んだあげく、だんだん面倒臭くなりどうでもよくなってきて適当に命名したものだ。

 だがこの長ったらしくエロいのかただの甘党なのかわからないバンド名は、ほんの二週間ほど使っただけで変更することになった。ルカが好きなバンドの曲名を、そのまま使おうと提案してきたからだ。それがなかなか良かったので、全員一致で採用することに決まった。

ジー・デヴィールZee Deveel』。うん、なかなかいいんじゃないかと思う。


 ある日、俺はアルバイトの帰りにまたレノン・ウォールへ立ち寄った。

 季節はすっかり夏、タンクトップにサングラスといった感じの、軽装の若者が大勢集まっているその向こうに、まだ十代であろう女の子たちのバンドが演奏しているのが見えた。

 曲は〝Boysボーイズ〟だった。

 彼女たちは知っているのだろうか。これがビートルズのオリジナルではなく、シュレルズというアメリカのガールグループのカバーであることを。――いや、別に知っている必要はないのだろう。歴史に学ぶことの大切さはよく説かれるが、俺はときどき思う。ひょっとすると、なにも知らずなにも抱えていない世代だけの世界があったなら、意外と問題などなかったりするのではないか、と。まあそんなことは、想像のなかでしかありえないのだが。

 歓声と拍手が起こる。曲が変わる。俺はラ・マルセイエーズを奏で始めたメロディカの音に思わず笑みを溢しつつ、そこから少し離れたところまで移動し、壁に向かって立ち止まった。

 びっしりとアートな落書きで埋め尽くされている壁にほんの僅かな隙間をみつけると、俺はポケットからペイントマーカーを取りだした。いつか描こうと思って買ってあったものだ。色は少し迷ったが、水色にした。

 その、世界のどこへ行っても晴れてさえいれば見られる澄んだ色で、俺は『もう大丈夫、やっていける。俺は今、幸せだ。A.L.トーレス』と書いた。そして、少し考えてその上に、大きめの字で『Zee Deveel』と付け足した。書いてみて、イーがちょうど五つあるのだなと思い、eを顔に見立てて目と眉や口を描いていった。絵はもともと得意なので、なんとなく皆に似せることができた気がする。みんな笑顔だ。そしてふと――自分の思いつきに吹きだしそうになりながら、右端のエルを箒にした。


 さて、そろそろ行くか。また遅いと云われてしまうなと思いながら、俺は広場を後にした。仲間たちが、大切な友人たちが今日も俺を待っている。









◎𝖡𝖮𝖭𝖴𝖲 𝖣𝖨𝖲𝖢/ 𝖳𝖱-𝟢𝟤 ~ 𝖳𝖱-𝟢𝟥 - 𝖳𝗁𝖾 𝖪𝗂𝖽𝗌 𝖺𝗋𝖾 𝖠𝗅𝗋𝗂𝗀𝗁𝗍

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