◆
三崎から放射される圧は、畏怖を覚えさせるようなものではなかった。
だが不気味だ。
例えるならば蜘蛛の糸といった所だろう。
不穏の縦糸と厄の横糸が複雑に交差し、編み上げられた毒液滴る蜘蛛の巣である。
その視線を真向いから受けた男は、気圧され、我知らず後退る。
──こんな、ガキに!
だがすぐに持ち前の愚かさで下がった血圧を再び上昇させ、三崎に詰め寄ろうとするが──
「やめて」
そう言いながら麗奈が一歩前へ出た。
「お兄ちゃんも私も関係ない」
普段は三崎にべったりな甘えん坊の麗奈だが、しかしその実、非常に聡明で状況判断に優れた少女でもある。
──皆わかってない……。この人たちは何も分かってない
この状況で人々が混乱するのは仕方ない──それは麗奈にも分かっているのだが。
麗奈はもはや、理不尽な事を言ってくる者たちのことなどどうでもよかった。
内心にあるのはある種の危惧だ。
──お兄ちゃんに "割り切らせちゃいけない"
麗奈はそう考えている。
・
・
・
こんな人たち、どうなってもいい。
別に怖くもない。
私たちにはくまっちがいし、おじいちゃんもいる。
この人たちは本当に馬鹿だと思う。
もし私が怒ってくまっちをけしかければ、この人たちはどうなる?
想像するまでもない。
ズタズタに切り裂かれて挽肉みたいになってしまうだろう。
おじいちゃんの魔法でもいいかも。
当たれば最後、黒焦げだ。
私は私たちを守るためにこの人たちを傷つけることに何とも思わない。
でもお兄ちゃんにさせちゃいけないとおもう。
お兄ちゃんは "普通" の人だから。
こんな人たち相手でも自分の手で傷つければ、お兄ちゃん自身も傷つく。
心の傷は治りにくい。
でもお兄ちゃんはやると決めたらやるだろう──そういう人だから。
普通にできる事なら普通にやってしまうのがお兄ちゃんだから。
・
・
・
麗奈は三崎が "やる" 方向へ傾きつつあることを敏感に察していた。
そしてその勘は正しい。
基本的に善良な三崎なので、積極的に人を傷つける、殺めるといった暴力的な手段を取ったりはしない。
そういう手を取るためには幾つもの心理的なハードルを乗り越える必要がある。
だがそういったハードルを乗り越えて、今置かれている状況も鑑みて、 "やらないという合理的な理由がない" となれば、三崎は手を汚すことを厭いはしないだろう。
「私たちも色んな人を喪ってしまって悲しいと思ってるし、すぐにでもここから逃げたいの。だから邪魔をしないで欲しいな。だけどもしこれだけ言っても分かってくれないなら、少し痛い目にあってもらうよ」
麗奈はそう言ってアーマード・ベアに思念を飛ばすと、この銀毛の熊はその巨体を揺らしながら大きな咆哮を上げた。
「グルルルルルァァァァァァァ!!」
地響きのような大音声(だいおんじょう)に、人々は恐怖のどん底に突き落とされる。
「ひ、ひぃぃぃぃ!」
「た、助けてくれ!」
先ほどまで三崎を責め立てていた者たちも他の者たちも、悲鳴を上げながら一目散に逃げ出していった。
そうして人々が完全にいなくなると麗奈は小さく息を吐き、心配そうに三崎の顔色を窺う。
すると三崎は申し訳なさそうに「……嫌な役やらせちゃったね、ごめん」と謝った。
嫌な役、それは人々に脅しかけた事だけを意味しない。
というのも、もしその気にならば皆して渋谷の避難所へ向かうと言う事も出来た筈だからだ。
アーマード・ベアを鎮静剤として使って、落ち着かせた後なら通る理もあるだろう。
しかし麗奈はそうしなかった。
いきなり脅しかけて、人々を散りじりにさせた。
このような状況で、身を守る手段にも乏しい一般市民の末路など暗いに決まってる。
麗奈はそれを理解した上でやった──要するに間接的な殺人のようなものだ。
「いいのいいの! ……まあ私たちにもっと余裕があれば、とは思うけど……それは無理な話だし」
多くの人々を護りながら道中を行く事の困難さを考えると、一緒に行くという手はなかった。
ならばここで何事もなく別れられれば良かったのだが、それもまた状況が許さなかった。
だから脅した。
麗奈はその判断を後悔してはいない。
彼女が本当に守りたいのは兄である三崎の命で、その次に自分の命だからだ。
「……渋谷の避難所に行ったら、少し休もう。色々な事が起こりすぎて疲れちゃったよ」
「私も。じゃあ、ええと……そうだ、駅に行くんだったね! 中野から渋谷だから、歩いて30分……うーん、もう少しかかるかな?」
麗奈が言うと、三崎は少し考えこむ。
あの謎の石碑の声を思い出したのだ。
「隔離っていうのが少し気になるけどね」
「え?」
「ほら、あの石碑。中野を隔離したって言ってただろ?」
「ああ、うん……そうだね……確かに気になるかも……」
三崎は頷く。
「まあ中野区を丸ごと覆うみたいな事は出来ないと思うから、きっと中野から出れないってわけじゃないんだとはおもうけど……」
三崎もどこか自信はなさげだった。
とはいえ、前へ進まなければならない事には変わらない。
そうして二人は再び渋谷への道を歩き始めた。