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第36話 渋谷 

 ◆


 声は消えると、三崎と麗奈は山本の裏庭に戻っていた。


 互いに見つめ合う。


「試練っていってたね……」


 麗奈がぼそりと呟く。


 試練。


 無茶苦茶な事を言いやがって、と三崎は内心で憤った。


 せめてその試練とやらを受けるか受けないか、その意思確認くらいしてくれよと。


 ともかくも人知を超えた何者かが、この混沌を意図的に紡ぎ出している事は分かった。


 そして "これ" はまだまだ終わりそうもない。


「しんどいなぁ」


 三崎は思わず愚痴を漏らす。


 ・

 ・

 ・


 "声" を聞いたのは三崎たちだけではない。


 避難所に身を寄せ合う者たち、魔物との戦闘に身を投じる者たち、全てがその声を聞いた。


 強制的に、拒絶の余地もなく。


 千代田区から新宿へと向かっていた新田真由は、その場に立ち尽くす。


「試練……」


 そう、試練だ。


 つまりこの状況がより悪くなる、過酷なものになる可能性があるということだ。


「三崎君……」


 真由の声には隠しきれない不安と、そしてそれ以上の寂しさが込められていた。


 渋谷の自宅で、瀬戸絵里香は家族の顔を不安げに見つめている。


「ねえ、今の声……聞こえた?」


 母親に尋ねてみるが、絵里香の母は困惑した表情を浮かべたままだ。


 声は聞こえても、何の話だかさっぱり理解できないらしい。


 絵里香の精神に試練という言葉が重く圧し掛かってきている。


 絵里香は三崎と再会したいと思ってはいるが、だからといって家族を見捨てるという選択肢はなかった。


 ただ、 "その時" がいつか必ず来るという事は知っている。


 試練と言うからには、いつまでも家に閉じこもっているわけには行かないだろう。


 ──もし、ここを出て行かなきゃいけない様な事になったら


 自分は果たして、一人きりで家族を守る事が出来るだろうか? 


 三崎のように、皆を守る事が出来るだろうか? 


 絵里香にはその自信はなかった。


 中野区に住む陣内竜二は、自室で薄く歪んだ笑みを浮かべながらタバコをふかしながら人気がなくなった街並みを眺めている。


 陣内もまた "声"を聴いていた。


「まるでゲームみたいだな」


 一人呟く陣内は、この状況を決して悲観してはいなかった。


 確かに "ルール" もなにもわからなかった時は混乱したが、今はそうではない。


 これが虐殺ならお手上げだった所だが、ゲームならばルールがある。


 そのルール次第では十分助かる目はあるだろうというのが陣内の考えだ。


 ──それによ、試練ってことはそれをクリアすりゃ当然何かしらあるんだろうしな


 つまりは褒美。


 陣内は変わってしまったこの世界がそこまで嫌いではない。


 生ぬるい前の世界は別に嫌いではなかったが、自分という人間がゆっくりと腐っていくような気もしていた。


 しかし今はどうだ? 


 学歴だとか家柄だとか、そんなモノには左右されない本当の力が試される世界。


 どうにも心の奥を震わせる響きがあるではないか。


 自分はこの世界で、どこまで "強く" なれるのだろうかと陣内は再びにやりと笑った。


 そして銀座。


 下水道の暗闇で震えていた黒田 仁の体が、 "声" を聴いて一瞬ビクリと震える。


 蹲ったままの黒田だが、その両眼には異様な精気が漲っていた。


 黒田の胸中では、叫び出したくなるほどの破壊欲求が膨れ上がりつつあった。


 自身が召喚したあの悪魔のクールタイムが1秒、また1秒と減るたびに、黒田は自身の人間性がこそげ落ちていくような気がしている。


 自分がまるで別の何かに変わっていくような感覚──だが、黒田はそれを怖いとは思っていない。


 これまでの弱く醜い自分が、まるで真逆のものへ作り変えられていく様な感覚は、黒田に性行為にも似た快感を齎していた。


 どろりと蕩ける両の眼に、時折妖しい光が走る。


 ・

 ・


 全ての人々が、この声を聞いていた。


「お兄ちゃん、これからどうするの……?」


「とりあえず、避難所を目指そうと思うんだけど──そうだね、ここから近い避難所は、ええと……渋谷か」


 ラジオ放送の内容を思い出しながら答える。


 ただ、避難所にいくというのは確かに大きな目的の一つではあるが、その裏に思惑がないではない。


 渋谷には瀬戸 絵里香が住んでいるのだ。


 ──瀬戸は無事だといいけれど


 絵里香は三崎にとって、片思いの相手でもある。


 ある側面では年相応とは言えない馬鹿げたタフさを持つ三崎ではあるが、別に精神が鋼鉄で出来ているというわけではない。


 こういう状況だからこそ、好いた女に逢いたいという思いはごく自然に持ち合わせていた。


 勿論それを馬鹿正直に麗奈に話す事はしなかったが。


 ──どうせいい顔しないだろうし


 妙にべったりとはりついてくる妹を見ながら、三崎は内心溜息をつきつつそんな事を思った。


 ◆


 三崎は玄関先でボストンバッグを抱え、改めて中の荷物を確かめていた。


 中には何本かの二リットルペットボトルが入っている。


 とはいえ、いつまで行動することになるのか分からないので不安は尽きない。


 非常食としてかじれるようなビスケットやチョコレートなども放り込んでみたが、果たしてどれだけもつのか。


 一方、麗奈のほうは窓際で辺りを伺いながら、アーマードベアをちらりと見やる。


 まるで銀色の鎧をまとっているかのように光沢を放つその体躯はふつうの熊よりはるかに大きく、渋谷までの道中で頼りになりそうだった。


「荷物を持ってくれるのは助かるな」


 ボストンバッグの口を閉じながら、三崎が麗奈に視線を投げかける。


 すると麗奈は頷きつつ、アーマードベアの背中を軽く叩いた。


「うん、くまっちは力持ちだからね。えっと……こうやって取り付けとけば落っこちないかな」


 アーマードベアの背には簡易的な固定具が取り付けられ、そこに予備の荷物がいくつか括りつけられていた。


「そっか。あとは……なるべく戦闘はしたくないし、警戒くらいはちゃんとしておこう。ゴブリンを出しておこう」


 とりあえず、準備は整った。


 食糧、水、最低限の道具や護身用の武器──すべてをボストンバッグに詰め込み、三崎は自身も小さいバックパックを背負った。


「それじゃ、渋谷を目指すか。避難所は……たぶん、まだ機能してるはずだから」


 そう言って三崎が玄関のドアを開け放つと──


「お兄ちゃん……これって」


 三崎は答えない。


 いや、何と答えればいいか分からなかったのだ。


 外の様子が一変していた。


 ──魔界


 三崎の脳裏に、ふとそんな単語が過ぎる。


 ◆


 霧はさらに濃密さを増し、昨日の倍以上に広がっている。


 腐敗臭のような鼻をつく匂いが辺りを覆い、不気味な淀みが空気全体に重く圧し掛かっていた。


 道端に生い茂る木々は常識ではありえないほど急速に成長し、幹や枝葉が黒ずんで歪み、枝先には淡く光る瘤のようなものがいくつも点在している。


 生物とも植物ともつかない異様な姿は、メンタルがやたら強い三崎をして背筋に悪寒が走るほどだ。


 濃霧の奥からは低いうなり声や湿った足音が響いてくる。


 何かが動いている気配はあるのに、その姿をはっきり捕らえることはできない。


 見えない脅威がすぐ背後で息を潜めているような感覚が、身体の芯を蝕むような恐怖をもたらしていた。


 麗奈、大丈夫か


 そう声をかけようとして、三崎は自らの喉が思いのほか乾いていることに気づく。


 大したことないよ、さっさと渋谷に行こう──そう笑ってみせたい気持ちもあるが、今はそんな余裕がない。


 握りしめた麗奈の手の震えが、三崎自身の鼓動とリンクするように伝わってくる。


 少しでも気を抜けば、濃霧の怪しげな気配や足音に呑まれそうだった。


 インターネットが使い物にならない以上、渋谷までは地図とコンパスアプリで向かわないとならない。


「……行こう」


 三崎が小さな声でそう呟くと、麗奈もまた小さくうなずき、震える指先で三崎の手をしっかりと掴んだ。

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