「うちの会社は、完全週休二日制だよ」
その甘美な言葉に誘われて、あたしは今の会社に転職した。
給料は決して高くはなかった。
でも、前に勤めていた会社は週に一度の休みしかなく、下手をすると日曜出勤もあったのだから、土日の休みが確約されているだけで、あたしには天国に思えた。
「野村さん、この書類お願いねぇ」
「はいっ!」
どさっと音を立て、書類の束が机の上に積まれた。
月曜日から働きはじめ、今日でちょうど五日目。ついに、待ちに待った金曜日がやってきた。明日から二日間ゆっくり休める。朝寝坊もできる。録りためたドラマを観る時間もたっぷりある。久しぶりに彼氏とデートもできるのだ。それを思えば、このくらいの仕事量は苦にもならない。
あたしは山積みになった書類を、黙々と片付けていった。
そして、すべての業務を終えて帰り支度をしていると、にこやかな顔をした鈴木社長がやってきた。
「野村くんお疲れさま、うちの仕事には慣れたかね?」
「はい、社長、毎日楽しいですっ!」
鈴木社長には面接のときにもお世話になった。
でっぷりと太った中年男だけど、いつも笑顔をたやさない温厚な人物だ。あたしの入社を即決してくれた恩人でもある。
「うんうん、でも無理はしないように。倒れられたら困るからね」
なんてやさしい言葉だろう。
前の会社の鬼社長とは、天と地の差だわ。
「ぜんぜん大丈夫です。明日から二連休ですし、しっかり休みます!」
とおどけた調子で話していたら、鈴木社長の顔から突如として笑顔が消えた。
いや……、社長だけではない。
ガヤガヤと世間話をしていた周りの社員たちも話をやめ、あたしの顔を不審そうに見つめていたのだ。
何かまずいことでも言ったのかしら?
「あ、明日は土曜日ですよね?」
おそるおそる確認すると、隣の席の佐藤さんがすかさず耳打ちしてきた。
「野村さん、大丈夫? 明日は土曜日じゃありませんわよ」
「えっ?」
今度は別の席の社員が声を張り上げた。
「明日は全曜日だぞっ!」
「ぜ、ぜんようび!?」
聞いたこともない曜日に、あたしは戸惑った。
みんなでグルになって、新入社員のあたしをからかっているんじゃないかと思ったけど、とても冗談を言っているようには見えなかった。
「しっかりしてくれたまえ。金曜日の次は全曜日だろ」
鈴木社長はあたしの両肩に手を置き、目の奥を
月火水木金……全土日。
──ああ、そうか、金曜日のあとは全曜日があった。
どうして明日が、土曜日だと思い込んでいたんだろう? 仕事が忙しすぎて、全曜日の存在を、ど忘れしてしまったに違いない。
「……そ、そうでした。すみません、あたしの勘違いです!」
あたしは、必死に笑顔を作りながら謝った。
「あははは、分かってもらえば問題ないよ、明日も頑張ってくれたまえ」
「はいっ!」
鈴木社長はあたしの肩から手を離し、部屋を去っていった。
変な勘違いをしてしまったせいで損した気分だけど、全曜日が終われば土曜日がやってくる。あと一日だけ頑張ればいいんだわ。
翌朝、あたしは「全曜日」を迎えた。
会社に出勤すると、机の上に書類が山のように積まれていた。
全曜日という言葉に、いまだ違和感を覚えつつ、あたしは目の前の仕事を黙々と片付けていった。
ようやくすべての業務を終え、疲れ切った体で椅子に身を沈めた。
「よーし終わった。明日から二連休だわ!」
と独り言をもらすと、隣の席の佐藤さんが困ったような顔で耳打ちしてきた。
「野村さん、明日はまだ本曜日ですわよ」
「えっ……ほ、ほんようびっ!?」
聞いたこともない曜日に、あたしの声は裏返った。
「いやいやいや、昨日たしか、全曜日の次は土曜日って……えっ?」
頭が混乱してるあたしをよそに、周りの社員たちがクスクスと笑い出す。すると、どこからともなく、にこやかな顔をした鈴木社長がやってきた。
「んー、どうしたんだい?」
「社長、野村さんがまた曜日を間違えてまして」
佐藤さんが苦笑しながら説明した。
「あの、でも、ほ、本曜日なんて、あたし聞いたことないんですけど!?」
慌てて反論するあたしに、社長は諭すように語りかけた。
「じゃあ、そのカレンダーで確認してみたまえ」
社長の指差した壁を見ると、今月のカレンダーが貼られてあり、そこには「月火水木金全本」と、土日の前にしっかりと「本曜日」が印刷されていたのだ。
「本当に、本曜日がある……」
目の前の現実に圧倒されながら、あたしは心の中でつぶやいた。
──そうか、全曜日の次は本曜日だよね。
どうして明日が土曜日だなんて思ったんだろう?
「す、すみません、あたし、すっかり勘違いしてました!」
慌てて謝ると、社長は満足そうにうなずいて、あたしの両肩に手を置いた。
「分かればいいんだよ。明日もよろしく頼むよ」
「は、はいっ!」
と明るく答えたものの、胸の奥に妙な違和感が残った。
明日が本曜日だと頭では理解しているのに、その事実がどうしてもしっくりこない。まるで手品でも見せられている気がした……。
あたしは家に帰るなり、彼氏に電話をかけた。
「ねえ、真田くん。土曜日のデートの約束、ちゃんと覚えてる?」
「はぁ? 当たり前だろ。久しぶりのデートだぞ!」
彼の返事を聞いて、少しほっとした。
「でね、ちょっと変なこと聞くんだけどさ……、一週間って、月火水木金全本土日の九日で間違いないよね?」
数秒の沈黙のあと、真田くんがぽつりとつぶやいた。
「……香織、お前、ついに壊れたか?」
「ちがうの! なんかね、昔はもう何日か短かった気がするのよ!」
「一週間が、六日とか七日だった時代があったってこと?」
「うーん、まぁそんな感じ。でもさ、カレンダーを見ても、辞書で調べても、一週間は昔から九日だって書いてあるし……、そもそも、そんな大掛かりな改ざんなんてできるわけないよね?」
「そうだよ。第一、そんなことして何のメリットがあるんだよ」
「……あたしを休ませないため、とか?」
冗談のつもりはなかったが、真田くんは
「落ち着けって、香織。明日の本曜日が終われば、ちゃんと土曜日が来るんだから。そしたら俺たちデートできるだろ?」
「そうだよね。うん、分かった。また連絡するね」
と言って、あたしは電話を切った。
けれど、携帯を置いたあとも、胸の奥の違和感は消えることはなかった。
それからが地獄の始まりだった。
全曜日、本曜日の次には永曜日がやってきた。
その後も朋曜日、炎曜日、士曜日、圭曜日、林曜日、曰曜日、目曜日、鑫曜日、焱曜日……。聞き慣れない名の「曜日」たちが、土曜日の前に容赦なく立ちはだかった。
あたしは毎晩のように彼氏に電話をかけた。
「真田くん、昨日も一昨日もその前の日も、明日が終われば土曜日が来るって言ったよね!? デートできるって言ったよね!?」
と問い詰めても、昨夜までの話をきれいに忘れ、こう言い張るのだ。
「いやいや、ずっと前から焱曜日はあったじゃん。お前、本当に壊れてるぞ!」
最後は口論になり、彼氏は電話に出なくなった。
新しい曜日を告げられるたびに、終わりの見えない日々が続いてゆく。
どれだけ働いても、休みの日は決して訪れない。カレンダーを見ても「土曜日」や「日曜日」の文字は、いつの間にか見慣れぬ曜日にすり替わっていたのだ。
月が変わりカレンダーがめくられても、そこに土日の表記は見つからない。
「あたし……、いつから働き続けてるんだ?」
ぼんやりとした頭で問いかけるが、答えが見つかるはずもない。
体は鉛のように重かった。
机の上には書類の山がそびえ立ち、終わることのない電話のベルが鳴っていた。
そもそも「週」って何だ?
その定義が崩れた今、週休二日制という約束に意味はない。
円周率の三・一四に無限の続きがあるように、隠された曜日が無限にあるとすれば、土曜日や日曜日に辿り着くことは永遠にないのかも知れない。
「うちの会社は完全週休二日制だよ」
その言葉の裏に潜む悪意を、あたしはようやく理解した。
朦朧とした意識のなか、にこやかな顔をした鈴木社長が目の前にいた。
「あ、明日こそ、土曜日ですよね?」
やっとの思いで言葉を絞り出したが、結果はもう分かってる。いつものように社長の顔からは笑顔が消え、聞いたこともない曜日をあたしに告げるのだろう。
「おいおい、野村くん、明日はまだ明曜日だぞ!」
うず高く積まれた書類の山に、あたしは顔面から崩れ落ちていった──。
(了)