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第10話 欠けているモノ

 ……


 携帯だ、と中里は思った。フレームの外で、自分の携帯電話が鳴っている、と。

 だが「彼」は未だ自分の手のロープを解くのに一生懸命で、携帯に出るどころではない。


「……くそ、誰だよこんな時に!」


 「彼」は悪態をつく。中里には判っている。この相手は。

 そもそも、自分の携帯番号など、ほとんど誰も知らないのだから。



「……」


 二十回、コール音を聞いたところで、よし野は電話を切った。


「まだお連れさんはいらっしゃいませんか?」


 着物姿のホテルの仲居が、心配そうに問いかける。よし野は黙ってうなづく。


「……お先にお食事なさってはいかがですか?」

「でも……」


 よし野は言葉を濁す。きっとこんなホテルだったら、夕食も豪勢だろう。

 だがそれだけに、できれば二人で取りたい、と願うのも当然だろう。自分には一人分でも多すぎる。


「……だけど良く食べるひとだし……」

「何だ」


 ころころ、と仲居は声を立てて笑う。


「そんなこと心配なさってるんですか。大丈夫ですよ。その時にはまたその時、たっぷりごちそういたします」

「……いいんですか?」


 もちろん、と仲居はうなづいた。


「お客さんの様に可愛いお嬢さんを待たせてるなんて、どんな色男さんでしょうね」

「色男って訳じゃあないけど……」


 口ごもるよし野に、あらあら、と仲居はまた笑い、ではお食事持ってきますね、と部屋を出た。

 彼女は窓の外の夜景を眺める。

 ホテルと言っても、基本的には和室だった。海に面した景色を一望できる窓際だけが板張りで、差し向かいでくつろぐことができる様に、籐の椅子とガラステーブルが置かれている。広い温泉もあるが、部屋風呂もある。

 正直、よし野はこう言った「観光」ホテルには来たことが無かったので、かなり戸惑っている状態だった。

 彼らの隣の市にあるこの海沿いの町は、観光地として県内では有名だった。「近場の観光スポット」としてはなかなかの場所と言えよう。

 海と言っても湾に面しているので、向こう岸の夜景が美しい。夏には海水浴や花火大会で賑わい、冬は冬で、魚介類を中心とした食事が売り物である。

 話を聞いた時、だからかなあ、とよし野は中里がこの場所を選んだ理由を考えた。

 やがて食事がやってきた。確かにそれは豪勢なものだった。全部の料理が運ばれてきてから、彼女はぽつぽつと箸を付け始めた。

 そしてつぶやく。


「美味しいけど、美味しくない……」


 こんな所でTVを付けて食事する、というのも味気ない。

 ふう、とため息をつき、箸を置くと、彼女はもう一度、中里の携帯に電話を掛けた。

 コール二十回。やはり出ない。

 留守電機能にしてくれていたら、大声で「早くこーい」と入れてやりたいところだ。


「せっかく、あたしが、プレゼントなんだぞ」


 思わずつぶやく。馬鹿だ馬鹿だと呆れられようが、何と大きなリボンまで持参している。

 なのに、だ。

 やがて思いつき、寄宿舎の方へ掛けてみる。コール一回で出た寄宿舎の当番は、すぐに「まだ帰ってこないけど」と返してきた。「ところで君可愛い声だね」なんて台詞も続いたが、彼女は丁重に無視して切った。

 自分の家にも掛けてみる。もしかして、連絡が来ているかもしれない。しかしこちらもコール二十回。出ない。

 今日は残業だったかな、と母親の携帯の方にも掛け直す。だが今度は留守電になっていた。仕方ない、とその中にメッセージを入れておく。


「おかーさん、哲ちゃんから電話来たら、すぐ来る様に言ってください。こっちは……」


 ホテルの名と、自分の携帯番号を告げる。知ってはいるだろうが、念のためだった。彼女は自分の身内の記憶力は当てにはしていない。

 そしてはあ、ともう一度ため息をつく。


「……哲ちゃん、早く来ないかなあ……」



「……ったく、しつこい電話だ!」


 「彼」は二度目の長いコールに悪態をつく。

 だが中里は、よし野だったら、そのくらいしてくるだろう、と思っていた。何よりも自分がこんな行動を取る決定打となったのは、彼女の存在なのだ。

 よし野と出会って、言葉を交わして、触れ合って、彼女の母親を交えた時間を過ごすうちに、彼はあることに気付き始めていた。

 「自分の殺した彼ら」にも、こんな時間があったはずだ、と

 ただそれは、今までは形にはならず、ぼんやりと彼の中で漂っているだけだった。

 彼自身、この短い期間の中で急に自分の中にわき上がってきた「楽しい」「愛しい」と言った感情に振り回されるのに精一杯だったのだ。

 だがよし野が「標的」とされた時。

 その時本当に、中里は、自分の殺してきたのが、自分や彼女と同じ、生きて、生活している人間なんだ、と気付いた。


 何てことを。


 だが彼には、そこで悩んで沈んでしまう余裕は無かった。


「くそっ!」


 「彼」は悪態を何度もつく。

 そして手のロープを解くのを断念し、近くの鉄骨の角で擦りだした。こうなったらもう時間の問題だろう、と中里もフレームの内側で苦々しく思う。


「よし!」


 ぷつ、と一本が切れたら、後はぐるぐる巻かれているものを解くだけだった。

 手が取れたら早い。「彼」は足や胴に巻かれたロープのうち、一本を強く引き出し、引きちぎる。


「……くそ、跡がついちまったじゃねーかよ」


 ―――おい。


 中里は「彼」に問いかける。


「何だよ」

 ―――お前は自分が殺しているのが、自分と同じ生きてる人間だ、とは思ったことは無いのか?

「何だよ、オマエ、今頃、気付いた訳?」


 「彼」の答えは、中里の思ってもみなかったものだった。

 よ、と「彼」は倉庫の扉に手を掛ける。


「……鍵、掛けやがったな。ま、いっか」


 そう言いながら、そのまま強く戸を引いた。がっ、と音を立て、止めてあるプレートとネジごと、鍵が飛んだ。


「ふん、こんなものだろ」


 ぽんぽん、と「彼」は手をはたき、体育館を斜めに突っ切る。


「……何だよ、こっちもかい」


 仕方ねえなあ、と「彼」は助走をつけて、思い切りアルミサッシの入り口を蹴り倒した。がしゃん、と音を立てて、両開きの戸は向こう側に倒れた。


「だってさ」


 「彼」は中里に今更何だよ、とつぶやく。


「そういうオマエだったから、『R』にされたんだろ」


 中里はその「彼」の言葉に驚く。


「何、驚いてるんだよ。ホント、今更。そもそもそういう部分が欠けてたから、こんなモノにされちまったんだろ」


 そう言いながら、「彼」は体育館の外へと走り出た。


 ―――何処へ行くんだ?


 中里は問いかけた。


「もちろん標的を狙いにだよ。オレは生きたいんだ。オマエと違ってね」

 ―――俺と違って?

「そうだよ。生きてても死んでてもどーでもイイ様な、そんなオマエだから、そしてそれに気付かない程のバカだから、使い捨てでじゅーぶん、って奴らは思ったんだよ。だけどオレは違う、オレは生きたいんだよ! 何をしてでもな!」

 ―――それでよし野を殺すのか?

「あの女か?」


 そう言うと、「彼」は不意に足を止めた。


「ああ。あの女もどーでもイイ。ただもう、オレは、生きられるだけ生きたいんだよ。オマエと違うんだオレは。だから、ここから抜け出してやる。あの女をとっつかまえて、殺してやる。そうすれば」

 ―――「R」が手に入るから?


 それは変だ、と中里は思った。


 ―――だって、「R」はお前を出させない様にする薬じゃないか。

「うるさい!」


 「彼」は叫ぶ。そしてそのまま足を速めた。

 そして保健室の前まで来ると、花壇の周囲のブロックへ、がっ、と足を掛けた。


「こんなモノがあるから、オマエはイロイロ迷うんだよ。オレに全部任せればイイんだ。そーだよ、『R』なんて無くても、オレはオマエなんかいなくても、平気だよ。そりゃあな、時々血も見たくなるけどよ。どーせ短い人生だ。好きな様に生きればイイじゃねえか!」


 そう言って、「彼」は花壇のチューリップの芽の上に、足を踏み下ろそうとした。


 ―――やめろ!

「お…… い!」


 中里は必死でその足を止めようとする。

 無理かもしれない、だが。


 ―――……


 振り上げた足は、空中で止まったまま、行き場を無くし、ぶるぶると震えている。自分の思いが身体に伝わったのだろうか? 中里は思う。

 いや違う。


「くそ! くそ! くそ!」


 「彼」は上げた足を何とかして踏み下ろそうとする。だがどうしても動かないらしく、足はただ、空を切るだけだった。


「くそぉ!」


 大きく一言叫び、「彼」は歯を食いしばる。

 一体。中里もその様子にただ、唖然としていた。

 その時だった。


「中里!」


 正面から、鋭い声が飛んだ。はっ、と「彼」は顔を上げる。


「あんたは!」


 しゅ、と微かな音が、大気を震わせた。

 う、と「彼」は声を立てる。

 首に、何か鋭いものが突き刺さる感触を覚え―――中里の身体は、そのまま、ゆっくりと背中から地面に倒れていった。

 倒れる身体。その口から、小さく声が漏れる。


「……いわむろさん…… 何で……」


 だがその声は、確かに「彼」のものだった。

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