しかし「適当に」と言ったのに、この少女はそれから毎日やってきた。家は学校から遠くないらしい。
仕方なし、彼はやってきた彼女に、水やりだの雑草取りだのをさせるのだが、のほほんと見える割に、こつこつと作業をするので、結果、案外はかどってしまうのだ。
そしてまた、その作業の間、彼女は何かととりとめも無い話を仕掛けてくる。中里はそれに曖昧なあいづちを返すだけだったが、彼女は平気で楽しそうに話を続けていた。
そして彼は、そんな彼女を見ながらつくづく思うのだ。
「変な女だ」
*
そして8月の終わり頃。
台風がいきなりやってきた。それもかなり急激に育った、大型のものが直撃だった。
これはやばい、と中里は慌てて背の高い花々に添え木をしたり、周囲にフレームを立て、途中で買い込んだ厚手のシートを張るという作業に取り組んだ。
しかし、そもそも土壌が柔らかい花壇である。強い勢いに倒れてしまう可能性は非常に高い。今日一日つきっきりだな、と彼はその時思っていた。
Tシャツにハーフパンツの格好は、いつもと同じだったが、既にそれは完全に水浸しだった。
風雨がひどくなってくると、傘はもちろん、合羽もあまり役立たなくなる。そんな時はいっそ、濡れてしまう方が楽なのだ。気温は高いから風邪の心配も無いだろう。それに自分には、そんなことは関係無い。自分には―――
そのとき。
黄色い蝶が、ひらひらと飛んできたのか、と彼は思った。
「おい羽根! 羽根よし野! 何で来たんだ?!」
「何でって……」
走ってきたのか、ぜいぜいと呼吸を乱しながら、彼女は膝に手をついて顔を上げた。
「だって…… ひどい雨風だったし……隣の植木が飛んでくの見ちゃったから……」
だからって。
「危ないから、お前は戻ってろ!」
「今から戻る方が危ないですよ! どうせ来ちゃったんだから、通り過ぎるまで、居ます!」
強情な女だ!
彼はち、と舌打ちをした。
雨も風も時間を増すごとに強くなる。弱い地盤なので、差し込んだ棒も、すぐによろけてしまう。ブロックの外側にしっかり打ち込んだはずのフレームも同様だ。いたちごっこだった。
耳には雨風の音がやかましい。だがそれにも増して、彼女の話しかける声もひどく大きく、必死なものになっていた。
当初はそれに中里もうるさいな、と思っていた。
だが次第に、その声が、内容が、必死なものになってきた。
そのとき彼は、唐突に思った。
こいつはもしかしたら怖いのかもしれない。
怖いから、何かと口にしていないと、気が紛れないのかもしれない。
だがさすがに、彼女の話のタネも尽きかけてきた。疲れてきたのだろう。
何か無いか、と彼も自分の中の少ないボキャブラリィを必死で検索し始めた。
しかし出て来たのは、こんな言葉だけだった。
「……お前そう言えば、親父さんって……?」
「おとーさん? あたしが生まれる前に死んじゃったんです」
聞くんじゃなかった、と彼は瞬時にして後悔した。だが彼女は堰を切った様に、その話を続けた。
「交通事故だったんです。ね、良くある話でしょ。おかーさんも、そう言ってたし…… 結婚して、新婚で、あたしができたこと知って、すごく楽しい時期に、突然、だったし、苦しむ間も無かったから、まだいいほうた、っておかーさんは言うし……」
うん、と彼はうなづいた。うなづくしかできなかった。
「だから……」
*
台風一過とは良く言ったものだった。
翌朝は、西風こそやや強かったが、遠く突き抜ける様に青い空が一面に広がっていた。
かつかつ、と石畳を小走りに、岩室は保健室のほうへと向かった。
「おやまあ」
彼女は苦笑する。
保健室前のコンクリートの段差の上では、疲れ果ててどろどろになった二人が熟睡中だった。
肩をすくめると、岩室は職員玄関の方へ回り、内側から保健室を開けた。そしてしばらくして、外側の扉をそっと開き、中里の頭をやや強くはたいた。
「……何だあ? ……あ、岩室さん」
「よぉ、お目覚めかね。起きたんなら、とっととそこのお嬢さんをお家まで送ってってくれないかな」
「俺、が?」
と彼は自分自身を指した。
「他に誰が居る」
「だ、だって」
「近いぞ。お前ならおぶって行けばすぐだ。電話しておいたからな。母上によろしく」
そして簡単な地図を一枚手渡すと、ぱたん、とやや優しく扉を閉めた。
仕方ない、と彼はそっと彼女を背に乗せた。確かに遠くなかった。
二階建てのアパートの階段を登り、「羽根」というプレートのある扉の呼び鈴を押した。するとすぐに扉は開いた。よし野に良く似た、小柄な女性が、通勤前なのだろう、白シャツに紺パンツ、軽いメイクをした姿で現れた。
「えーと……」
中里が言いよどんでいると、彼女はすっ、と上から下まで、一瞬のうちに彼の全身に視線を走らせた。
そして数秒。母親は言った。
「なるほどね…… 何してるんだい、お入りよ」
は、はい、と彼は思わずどもってしまった。
アパートは二人暮らしのせいもあってか、そう広くは無い。キッチン+2部屋、という所だった。
「こっちに乗せてくれないかな」
キッチンに誘われ、食卓の椅子を示される。
ああそうか、と中里は思った。さすがにまだ彼女も自分もどろどろの格好のままなので、他の部屋に通せないのだ。
「えーと、あんた、園芸部の部長だって?」
「あ、中里です。……えーと、どうも、すみませんでした」
ふん? という風に彼女は片眉を上げた。
「何を謝る訳?」
「や、台風の夜に返しもせずに……」
「それはいいさ。どーせこの子が、居るってだだこねたんだろ。まあ困ったと言えば、できれば今夜は帰りませんから、くらいの連絡は欲しかったってとこかね」
そう言って彼女は、あはは、と明るい声を立てて笑った。
だがちら、と見ると、テーブルの上には、吸い殻が山になった灰皿が置かれていた。
すいませんでした、と彼は改めて深々と頭を下げた。
「いいよ。それよりあんた、腹減ってないかい?」
「え」
「どーせこの子の分も作っておこうと思うからさ、あんたも食っていけばいい」
「や、俺は」
「若いもんが遠慮するんじゃないよ。コーヒーにミルクや砂糖は?」
「あ、両方……」
強い、と彼はため息をついた。
*
「それじゃあ、行ってくるからね」
よろしく、と娘と自分を置いて、母親は仕事に出かけてしまった。食事に手をつけながら、彼はぼんやりとこの状況の意味を考えてみる。
だが確かに腹は減っていたようで、チーズオムレツを乗せたぶ厚いトーストは瞬くうちに彼の口へ、胃袋へと吸い込まれて行った。
そうか、俺腹減ってたんだ、と彼は今更の様に気付いた。
そして前方に同じ食事を用意されたよし野に目をやった。冷める前に起こすべきだろうか、どうするべきか……
しかし、悩む時間は少なかった。母親が乗せていったタオルケットが落ちた拍子に、彼女は目を開いたのだ。
「あ、……れ? 部長、おはよう……ございます……え?」
「岩室さんが、送ってやれって言ったから」
「あ、やだ! ……ごめんなさい、ありがとう、です」
顔を赤らめ、いきなり彼女は頭を下げた。
「いいよ。それよりお前のお母さんが、食事用意してったぞ」
「あーっ! 食べなくちゃ食べなくちゃ」
そして慌ててコーヒーに手をつける。トーストに口を大きく開ける。豪快だな、と改めて彼は思った。母親似だ。
そう言えば、正面に座って食事をすることなど、今まで無かった。いつも保健室で岩室が間に入っていた。
「……何ですか?」
手が止まっていたらしい。彼女は不意に顔を上げた。
「や、ずいぶん豪快に食うなあ、と」
「だってお腹、空いてたんです! でも、台風過ぎて、良かったですね! ……あ」
そして今更の様に、彼女はぽん、と手を叩いた。
「もしかして、部長、おぶって連れてきてくれました?」
「あ? ああ。他にどうしようがあるんだよ」
「やっぱり! 何か、すごく、気持ち良くて、それで目が覚ませなくて」
気持ちよくて? ふと彼はとくん、と心臓が音を立てて跳ねるのを感じた。
「大きくて、暖かくて、しっかりして、ゆらゆらして、うん、本当に気持ちよくて」
とくんとくん、とまた跳ねる。何だ? と彼は思った。
「……何かおとーさんにおぶわれてるみたいで」
「親父さんに?」
その途端、心臓は平静に戻った。
「会ったこと無いけど…… こういう感じかなあ、って思って」
「ふーん……」
「だからですよ! 気持ち良くて、どうしても目がさめなくて」
うんうん、と彼は生返事をする。
そしてそのまま、朝食の続きをどんどん口に放り込み始めた。何となく、味が落ちた様な気がした。
いや違う。彼はふと気づいた。俺は今、美味いと感じていたんだ。
驚いた。とても、驚いた。
だがそれが何故なのか、彼にはまるで判らなかった。
「ごちそうさま」
そう言って、彼は食器をシンクに置くと、飛び出す様に部屋を出た。
何か、無性に胸の中がもやもやとしていた。