中里とよし野が出会ったのは去年の夏だった。
*
その頃の中里と言えば、先輩の去った後の園芸部を一人で守っている状態だった。
夏休みというのに彼は学校に毎日通い、麦藁帽にTシャツ、ハーフパンツで、鮮やかな夏の花々が咲き誇る三つの花壇の手入れに明け暮れていた。
「おーい」
そしてそんな作業をしている彼の頭上から、聞き覚えのある声がした。ふっ、と彼は顔を上げ―――ぎょっとする。
「手を挙げろ」
白衣を着た女が、彼の目の前に銃を突きつけていた。
「な、何だよ、岩室さん、一体!」
中里は思わず叫んだ。無論、本物の訳は無い。ははは、と岩室は笑った。
「先生、だ。そんな驚いたか?」
「あったり前だろ!」
ちゃ、と彼女は窓越しにもう一度、構える真似をする。
「いや、大学の先輩が、先日ようやくアフリカから帰ってきてなあ」
「アフリカ……」
「獣医をやっていてな」
見てみろ、と彼女はそれを中里に渡す。良く見ると、それは銃の形をしているだけで銃ではなかった。
「先のほうに、何か取り付ける様に出来てるだろ」
「ああ……」
「大動物や、動きの速い動物用の麻酔銃なんだと」
「へえ……」
中里は感心する。
「で、でもあんたが持ってていいのかよ、学校の保健のセンセイが」
すると彼女は腰に手を当て、にやりと笑う。
「ばーか、壊れてんだよ。撃てなくなってるんだ」
「ああ……」
何となく、中里はほっとする。
「そうでなきゃ、くれる訳が無いだろ」
確かにそれもそうだ、と彼は岩室に麻酔銃を返す。だがその一方で、どういう先輩だ、と彼は呆れてため息をつく。
「それにしてもお前は、毎日毎日精が出るなあ。休憩して、カルピスでも呑んでいかんか?」
「いいのかよ?」
「綺麗な花を毎日見せてくれてる礼だ」
そうかい、と言って、彼は勧められるままに、保健室に入って行った。
「最高気温が三十四度、だと。もうじき体温じゃないか」
「へえ、そうなんだ」
「何だお前、このくそ暑い中で作業していて、何とも感じないのか?」
岩室は眼鏡の下で眉を寄せた。―――感じない。と言っても通じないだろう。彼は曖昧な言葉で濁す。
「毎日毎日大変だな」
「や、慣れてるから……」
そう慣れている。それに中里はこの作業は嫌いではなかった。
偶然で入った様な部活だが、作業そのものは非常に具体的で判りやすく、勉強の類は嫌いな彼も、手で覚えていくことができた。
その作業にしても、当初は一人で黙々と取り組むことができる、という点が気に入っていただけだった。
だが、気持ちを入れて、丁寧に育てたものが、やがて綺麗に花を咲かせるということ。前の年の秋、それを目の当たりにした時、それはひどく不思議な気持ちを彼に起こさせた。
そんな彼の態度をみて、二人の先輩も、できるだけのことを「居るうちに」と教えてくれた。
卒業する時には、それまでの覚え書きのノートや、使っていた参考資料の本も置いていってくれた。
頼むよ、とそれらを手渡された時の彼等の笑顔に、中里は、それまで感じたことのない、くすぐったい気持ちを覚えたものだった。
ちりん、と風鈴が鳴った。
保健室にはクーラーは無い。あるものと言ったら、ひどくレトロな形の扇風機と風鈴だけだ。ただ、入り口の扉には藍染めの長のれんが掛けられ、大きく開け放たれている。おかげで風通しは良く、外よりはずいぶんと涼しく感じられる様である。
岩室は冷蔵庫を開け、昔から変わらない、水玉模様の紙に包まれた茶色のびんを取り出した。ちなみにその冷蔵庫の中には、薬品も同居している。
ほら、と手渡された大きめのコップは、既に汗をかいていた。口に含むと、爽やかな甘みが彼の口の中に広がった。
「それにしても、良く咲いてるな」
デスクに寄りかかり、岩室は窓の外を眺めた。
「何がある? ひまわり、ダリア。サルビア、西洋朝顔、おしろい花、トロロアオイ……」
「誉めても何も出ないぜ」
「いや、真面目に言ってるんだがな」
ずず、と彼はカルピスをすすった。
「岩室さんの家には、花は無いのかよ?」
「先生、だ。まあマンションだからなあ。ひまわりぐらいのものだ」
「ひまわり?」
鉢植えに適していただろうか、と彼は思った。
「うちのダンナが、プランタをベランダに置いててな、毎年咲かせてるんだ。結婚前からだから、よほど好きなんだろう」
へえ、と中里は少し感心した。
「まあお互い忙しいからな、放っておいても花をつける、というのは正直ありがたい。だがここのとは少し種類が違うのかな? ウチのは何か、小学生が授業で蒔くような奴だが……ここのは小振りで、群れて、どっちかというと可愛い感じだな」
「花壇にはこっちのほうが映える、って先輩達が卒業する時に俺に勧めてくれたんだ」
ふうん、と岩室は白衣のポケットに手を入れ、うなづいた。
「何だよ、何か言いたそうだなあ」
「お前さ、中里」
岩室の視線は真面目なものになった。
「今年、園芸部に部員勧誘しなかったろ」
う、と彼は言葉に詰まった。
「去年はお前一人が何とか入ったから、部も存続したが、この分だとまずいぞ」
そんなこと言われても。中里は困惑した。ただでさえ地味な園芸部なのに、自分一人しかいない、ときたら。
「けど、俺に寄って来る奴が居ると思うかよ、岩室さん」
「先生、だ! だがなあ、私としても来年でこれが見納めというんじゃ、非常にもったいない」
「あんたが見たいだけかよ!」
「そうだ。悪いか」
そう堂々と言われてしまうと。中里は再び言葉に詰まった。
判ってはいる。判ってはいるのだ。
昨年の先輩達が一生懸命手入れをしている姿をそのたび彼は思い出す。とてもささやかな場所なのかもしれない。だが自分が学校に居る、残りたった一年半で終わらせてしまうには忍びなかった。
その時だった。
「……ん?」
中里はとん、とコップをデスクの上に置いた。
「どうした」
「や、何か外から変な音が」
「変な音?」
岩室は中里が指す方向を見た。
「いつも思うが、お前、地獄耳だな。おーい、どうした?」
あ、先生~、と女生徒の声が、中里の「地獄耳」にも飛び込んで来た。
「陸上部で練習してたんですけど、日射病なんです~」
ショートカットの小柄な少女が、自分より背の高い相手の腕を肩に掛けて歩いて来た。
「すいませんお願い…… だっ!」
段差だ。中里は反射的に立ち上がり、腕を伸ばした。二人の少女は、彼の太い両腕の中に、あっさりと収まった。
「あ、ありがとうございます……」
「よーし中里、お前そのまま、二人とも運んでくれ。右のはこっち、左のはそこの丸椅子に乗せてくれ」
「はいよ」
返事と共に、彼はそれぞれを指摘された場所へと乗せた。
「……あーあ、こんな日に外で練習するんじゃないよ。ウチの学校の連中は、基本的に体育系の連中と違ってそう強くは無いんだからな」
「そうなんですかあ?」
椅子に座らされたショートカットの少女は、驚いた様に目を見開いた。
「そうだよ。あー…… 今日はこういう奴があと二、三名出てもおかしくは無いな……」
そう言って岩室はちら、と中里を見た。
「何だよ」
「後でアイス食わせてやるから、今日一日、お前、手伝っていけ」
「アイス一つで、かよ」
「ここに来た奴の人数分」
「よし、引き受けた」
腕を振り上げる中里に、にやり、と岩室は笑った。そして丸椅子の少女に向き直った。
「お前も疲れている様だな。カルピスどうだ?」
「いいんですか?」
「私がいいと言うんだ。いいんだよ」
それは理屈になっているんだろうか、と中里は思ったがあえて口には出さなかった。
「でもこの後の練習はいいのか?」
「……実はあたし、今日で辞めるんです」
「まだ夏休みだろ、四年生」
岩室は呆れた様に腕を胸の前で組んだ。
「えーと、今日、大会のお話とかあったんですけど、あれって結構費用とか、掛かるんですね。ユニフォームとかスパイクとか…… 聞いてるうちにこれはちょっとなあ、と思って……」
「費用?」
何となく中里はその言葉に捕まった。
「あ、うち、おかーさんと二人なんで」
「ああ、なるほどなあ。それに家のこともしたいし、か?」
岩室の言葉に彼女はうなづいた。
「初めは部活するのも止そうかな、とも思ったんですけど……」
「それじゃあ園芸部はどうだ?」
ぶっ、と中里は再び口にし始めたカルピスを吹き出した。何だその話の飛躍は。
「汚いなあ…… ほれ、ティッシュ」
「い、いわむろさん」
「園芸ですか?」
中里の動揺も気にせず、少女は丸い目を大きくさせて問いかけた。
「ほれ、そこの花壇、今こいつ一人でやってるんだ。……まあこいつ、見ての通り馬鹿力だから、一人でも構わないんだが、もしも鬼の霍乱でも起こして学校休んだりしたら、こいつはともかく、花が水もらえなくて可哀想だろ。その位でいいから」
何とも身も蓋も無い台詞である。
反論してやりたい気持ちが中里にも無くは無いのだが、対抗できる程のボキャブラリイも彼にはあいにく無かった。
しかし相手は更なる彼の動揺も、全く気にせず、そうですね、とあっさりうなづいていた。
「じゃあ入部だ。おい部長、いいだろう?」
良いも何も。自分抜きでさっさと決められてしまった現実に中里は思わずめまいがしていた。
「悪いのか?」
岩室は重ねて問いかけた。
「……良いです」
「じゃあ決定だ。これでさ来年も園芸部は安泰だ」
ぱちぱち、と岩室は手を叩いた。
「え?」
「さっきから四年だ、と言ってるだろう、この子」
言われてみれば。体操服の下が短パンだったので、つい目を逸らしていたのだが、ゼッケンには「4年9組 羽根よし野」という名が大きく書かれていた。
「部長さん」
お前のことだ、と岩室は面白そうに顔を歪めた。
「いつから来ればいいんですか? 週に何回ですか?」
「……適当に……」
そんな訳で、羽根よし野は園芸部の二人目の部員になった。