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第3話 先生のお気に入り

「何だまたお前か」


 低い声が、五年八組の教室に響く。既に授業は始まっていた。


「遅れて申し訳ございません、溝口先生」


 そして違う種類の低い声が響く。後ろの扉を開けた中里は、軽く頭を下げた。彼にしてはこの上ない位に言葉は丁重だったが、心が入っていないことは誰が聞いても丸判りだった。


「まあいい。座れ」


 いつものことである。授業を露骨に妨害しない限り、注意されることも無い。

 中里は一番後ろの窓際の席に座った。そこが一年前からの彼の指定席だった。

 授業は英語のリーディング/ライティングの時間だった。担当教師の溝口は、なめらかな口調と、よどみない流れで授業を進めて行く。


「……と言うことで、この章の作者に関しての、俺からの説明は以上だ」


 とん、と溝口はホワイトボードを叩く。

 ボードにはこの日入ったばかりの新章の出典に関して、細かい説明が書かれている。以上だ、とこの教師が言ったら本当に「以上」なのである。皆必死でノートを取る。彼は二度説明をするのが大嫌いなのだ。


「それ以上の彼の経歴、他の出版物については……」


 そしてまた口にしながら、ボードに数種類の本の名前を上げて行く。まだ前の分を写し取っていない生徒達は、慌てる。スペースが無くなれば、彼は平気でどんどん前のものは消して行くのだ。


「……以上の本が詳しい。関心がある者は読んでおくように」


 三十名定員のクラスの半分が、冷や汗をかきながら、溝口のその言葉に無意識にうなづいている様だった。その大半は女子である。


「……ねえねえ、読む?」


 こそっ、とした声が所々で聞こえる。


「一応……だいたい溝口サンのおすすめって当たりだもん。見ておいて損無いしさあ」

「……ねえ、溝口センセ、今日あたり、チョコいっぱいもらってそうじゃない? ほら、怖いけど格好いいし」

「えー……? やだなああたしも送ろうって思ったのに」

「こらそこ! 原口、坂下!」


 思わず声が大きくなっていたらしい。話していた女生徒達の間に、2㎝ばかりに欠けたチョークが飛んだ。びく、と二人の身体が固くなる。

 すると溝口は口元だけでふっと笑い、眼鏡の下の色素の薄い瞳を光らせ、ゆっくりと生徒の机の間を回り始めた。


「お前ら、授業中に喋っている余裕があるなら、今の章くらいは、軽く読めるだろうな」


 溝口は片方の女子に近づき、指名する。だがまだその章は始めたばかりである。その上近くに溝口が居るときたら……さすがにしどろもどろになるのも仕方あるまい。

 途中で止めさせると、斜め少し前に視線をやる。


「話にならんな」


 そして窓際の、真ん中あたりの女生徒に向かって声を掛けた。


「……志野。志野毬絵しのまりえ

「はい」


 透明感のある声が、教室中に響いた。ああまただ、というため息も同時に漏れる。しかしそれは仕方ないだろう、という納得とあきらめの混じった空気に変わる。

 始めたばかりの章にも関わらず、志野毬絵という女生徒は、実に発音もなめらかに、すらすらと数段落を読みこなした。


「……ふーん、いいわねえ、先生のお気に入りは……」

「しーっ、また投げられると何だし、手紙にしよ手紙に。こないだ、岩室サンから、面白い手紙の折り方教わったんだ……」


 少女達の囁きが今度は聞こえたのかどうなのか、しばらく歩き回っていた溝口は、志野の横に立つと、OK、と短く言った。はい、と答えて彼女は座る。

 ふと中里はその時、彼女が何かを溝口の上着のポケットに入れるのが見えた様な気がした。手紙だろうか? チョコかもしれない。今日だし。

 だがその疑問はすぐに頭の中に埋もれて行った。彼にはどうでもいいことだった。

 志野毬絵は成績も良く、部活動にも熱心で、教員全体のおぼえも良い。自分とは別世界の人間だ、と中里は考えていた。

 中里は勉強には全く縁が無い。

 かと言って、その巨体と力を生かして運動部に入って活躍するということも無い。

 後期部に入ったばかりの頃は、各部からのスカウトもそれなりにあちこちから来た。だがそれをことごとく断ったのは彼自身だった。

 理由は「身体が弱いから」。

 さすがにその時は、皆から呆れられた。それだけの体格と筋肉を持っていて何が「身体が弱い」だ、と。

 だが部活動は生徒の自主性に任せられ、所属するもしないも自由なので、それ以上の無理強いは誰も彼にはさせられなかった。


 そんな彼が、園芸部に入ったのは偶然だった。


 勧誘が何処からも来なくなった頃、彼は正直、暇を持て余していた。

 運動部をかわしていた頃はまだ良かった。逃げまくっていることで、時間を潰すことができた。

 しかしそれも無くなると、勉強熱心ではない彼は、学校では全くの暇になってしまう。

 友人と遊べばいいではないか、と言っても、その巨体とこわもての外見が、知らず知らずのうちに、彼から人を遠ざけてしまっていた。

 ただ、前期部はそれでもまだ、自由裁量の時間が少なかった。勉強が嫌いだ、と言っても、毎日たくさん出る宿題はこなさなくてはならなかったし、部活動も必修だった。

 彼にしてみれば、それだけで手一杯で、時間も潰すことができた、と言ってもいい。

 ところが後期部に来てみると。

 いきなり「授業の邪魔をしなければ後は個人の自由に任せる」という言葉が急に重くのし掛かってきた。宿題も無い。ただ、自分で予習復習をしない限り、どんどん授業から置いていかれる、それだけのことだ。

 だが彼は、嫌いな勉強はとことん無視した。結果、窓際の「指定席」を用意され、クラスの「お客様」にされてしまったのだ。

 そんなある日。

 ふらふら、と彼は校舎の中庭を歩いていた。

 やることも無い。寄宿舎に帰って、食事の時間まで寝てやろう、と思いながら、角を曲がった時だった。


 あれ。


 彼は思わず下を向いた。足元に、小柄な男子生徒が転がっていた。そういえば、何か腹の当たりに当たった気がした。

 大きな袋が二つ、その場に投げ出されていた。ぶつかったショックで放り出したのだろう。

 彼には「気がした」程度かもしれないが、相手には大きなダメージだったらしい。


「だ、だいじょうぶですか?」


 慌てて中里は相手に駆け寄った。ネクタイの色からすると、どうやら六年生のようだ。打ち所が悪かったらしく、気を失っていた。


「おいどうしたんだ、一体」


 その時、やはり重そうな袋を二つと、素焼きの鉢を三つ程肩に掛け、六年生がもう一人、よろよろと歩いて来た。


「あ、先輩、何かこの人が、俺にぶつかって」


 ひっ、と相手は一瞬退く。


「えー…… と」


 この六年生も、中里の外見に負けている様だった。どうやら自分が動かないといけないらしい、と彼は結論を出した。


「保健室って、何処ですか?」


 中里はそう言いながら、倒れた六年生を左の腕に抱え、右手には落ちていた大きな袋をひょい、と二つ同時に抱え上げた。ずっしりとした重みが感じられたが、彼にとっては、大した重さではなかった。

 冷や汗をかきながらも、六年生は中里を保健室の前へと案内した。そして荷物もそこに下ろしてほしい、と頼んだ。


「どうもありがとう」


 両手の荷物を下ろした彼に、六年生は言った。


「いや…… そう言えばこの袋、結構重かったけれど、これは何ですか?」

「土だよ」


 そう言って、六年生は笑った。

 一緒に歩くうちに、中里を怖がっていた気持ちもさすがにほぐれて来た様だった。


「土?」

「うん。僕らは、園芸部なんだ」


 園芸部。そんなものが学校にあったとは、中里は知らなかった。

 だが確かに保健室の前には、花壇らしいものがあった。ちょうどその時には、スイートピーが所狭しとつるを伸ばし、柔らかな色合いの花をつけて、絡み合っていた。


「……でも、今年で廃部だろうけどね」


 え、と彼はその時、思わず六年生に問い返していた。


「去年も今年も、結局誰も入部希望者が居なかったんだ。残念だけど……」


 その時、彼は何故自分がそこで入部する、と言ってしまったのか、後になってもよく判らなかった。

 そして今でも、その理由は判らない。

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