「ならこれからどうするの? 私は何時でも戦う準備が出来ているんだけど」
「戦わない選択肢ってのも頭に入れとけクソアマ。そうやって戦いばかり追い求めていたらな、本当の敵が分からなくなるぞ?」
「敵? 馬鹿言わないでよ下僕、私に敵なんて居る筈がないわ。降り掛かる火の粉も、血に濡れた牙も、全部ロッチが守ってくれるもの」
「美しい主従関係なことで。良かったなクソ犬、お前のご主人様はお優しい大馬鹿野郎だぜ? やめろ、俺を噛もうとするな。悪かったよ、謝るから牙を剥くな!!」
噛み付こうとするロッチを振り解き、ビルを駆けたデュークは一ヵ所だけタイルの色が他と異なる場所でしゃがみ込む。
「小銭でも落ちてた?」
「少し黙れ」
爪先でタイルを叩き、空洞であることを確認する。背後から聞こえる足音から意識を逸らし、タイル全体を撫で回したデュークは「ビンゴ」と呟き、細い縁に隠されたボタンを指先で押し込んだ。
くすんだ灰色が無色透明な硝子に変わり、音も無く滑り開く。闇へと繋がる錆びた梯子に足を掛けたデュークは、アンナを抱えたまま腐敗臭が立ち込める下水道へ降りる。
「……ねぇ、まさか下水を進むつもりじゃないでしょうね?」
「当たり前だろ? 安全に進める道が下水しかないんだから、仕方ねぇだろうが」
「い、嫌よ! だ、だって、臭いじゃない!」
「ちょびっとの間我慢しろよ……ガキじゃあるまいし」
頬を押すアンナの手を払い、面倒臭いと云った様子で彼女の口に薄汚れたタオルを押し当てたデュークは、電灯一つ無い暗闇だというのにスラムへ続く水路を辿る。
セクターの地下に広がる下水道は、言うなれば都市の毛細血管だ。廃棄場からスラム、セントラルに繋がる水路には生活排水から工業廃水まで実に様々な汚水が流れ込み、セクターの外……則ち外界へ垂れ流される。外界に流された汚水は外界の人間の飲み水や生活用水として活用され、中身を何も知らない者を汚染する。
知らなければ幸福なのだろう。無知が罪と揶揄されていようとも、罪と云う言葉自体を知り得なければ人間は幸福な一生を終える。血を吐く感染症に苦しもうと、異形の赤子が産まれる遺伝子疾患に苛まれようと、無知であればそれは呪いと判断され、無意味な祈祷に人は救いを求めるのだ。
「ちょっと……黙ってないで何か話しなさいよ」
「アンナちゃんは暗いのが怖いのかなぁ? おー、怖いでちゅねぇ」
「あのね、腕に力が入って痛いんだけど? 私の完成された腰回りが歪んだらどうすんのよ」
アンナの不機嫌極まりない顔とロッチの唸り声。燻ぶる火種のような怒りを胸に抱いていたデュークは「すまん」とぶっきら棒に話す。
「素直に謝るのね、また皮肉の一つでもぶつけてくるのかと思ったわ」
「何だ? そんなに聞きたいのなら言ってやろうか?」
「結構。けど……何時まで歩くつもり? そろそろ吐きそうなんだけど」
「あと少しだ、信用しろとは言わんが……我慢しろ」
ふぅん……タオルで目鼻を覆ったアンナの銀の瞳が汚水を見つめた。
「デュー……下僕」
「何だ? 世間知らずの無鉄砲女」
「クソアマって言わないの?」
「飽きるだろ?」
「同感、ねぇデューク」
「何だ? ……アンナ」
「正直言うとね、私は何で貴男が廃棄場に住んでるのか理解出来ないわ」
「……」
「剣を持っているのなら、身に降り掛かる理不尽を幾らでも斬り伏せられる筈よね? 上級エージェントにも成れる実力がある筈なのに、何で下級エージェントなの? 落ちぶれ方が半端じゃないわ」
「……色々あるんだよ、俺にだって」
「その色々って何よ」
「一つ言っておく、余計な詮索は無しにしようぜ? 俺とお前は他人同士だし、お友達とか恋人でも何でも無い。人の過去をアレコレ掘り返すのは賢いやり方とは言えないな」
「貴男……意外と臆病者なのね」
「勝手に言ってろ馬鹿女」
深い溜息を吐き、悪臭に咽たデュークの足が止まる。手探りで壁に手を這わせ、朽ちかけた梯子を掴むと勢いよく上り、マンホールの蓋を開けた。
「此処は?」
「スラムだ、セントラルの次に栄えているセクターの無法地帯ってとこだな」
「スラム……」
白い霧に乱反射するネオンと背の高い古びた高層ビル群。ありとあらゆる人種が大通りを行き交い、老若男女問わず入り乱れる様は人間の路上路天街と云っても差し支え無いだろう。
「どうした? 呆けちまってさ」
「……綺麗」
「は?」
「いえ、少し、ほんの少しだけ綺麗って思ったの。なに? 私が自分以外を褒めちゃ悪いの?」
「いや」
「じゃぁ」
「俺もさ、この街は綺麗だと思うぜ」
「……」
「人が沢山生きていて、死にながらも続いている世界は美しい。アンナ、お前は何も間違ったことは言っちゃいねぇさ。あぁ、絶対に」
「……何よ、柄にも無いことを言って」
下水の香りを振り撒きながらクツクツと笑うデュークと、行燈の色に濡れる幻想的な霧を眺めるアンナ。黒鉄の装甲に包まれた鋼鉄猟犬が路地の奥へ駆け抜け、その様子に唸るロッチの尻尾が一日中振り続ける雨粒を弾いた。
「さて、行くとするか」
「行くって、何処へ? 私を食事にでも連れていってくれるのかしら? なら褒めてあげるわ、げぼ……デューク」
「飯なんざ食える筈ねぇだろ? 金が無いんだ、残飯でも漁って腹を満たしな」
「じゃあどうするのよ、飢えたままほっつき歩けって言うの? とんだ甲斐性なしね」
「……俺の友達が経営しているコープへ行く。其処でなら有益な情報……お前を運んできた義体の情報を手に入れることが出来る」
頭を掻き、煌びやかなネオンに濡れる複合ビルを目指して歩き出すデュークと、不満げな表情を浮かべながらもアンナは彼の後を追う。
スラムは廃棄場のような静けさも無ければ、人が憲兵に隠れて動く様子も無い混沌とした自由の様相を見せていた。露店に並ぶ軽食を古びた紙幣と交換する労働者、靴を磨いて小銭を稼ぐ子供達、怒鳴り声を上げながら銃を握るスーツ姿の男達と実に様々な人間模様……否、人の営みが繰り広げられており、何故か懐かしさを感じてしまう。
郷愁と呼ぶべき感情なのか、感傷と云うべき心の香りか。ツンとした火照りを感じた鼻先を指先で擦り、デュークを呼び止めようとしたアンナの肩が半サイボーグの男二人組とぶつかり「おい女ぁ!! 何処見て歩いてんだぁコラッ!!」怒号が飛んだ。