陰鬱な雨が降り、白い霧が路地を覆い隠す陰気臭い日曜日。廃棄場の廃墟ビルに居を構える下級エージェントの男はグゥと腹の虫を鳴らし、古びた冷蔵庫の扉を開ける。
賞味期限が一年以上過ぎた牛乳と青黴が生えた食パンの切れ端。パンパンに膨らんだ人工肉の缶詰、濁って滑る飲料水の成れの果て……。ペットボトルの蓋を開け、饐えたカルキ臭に顔を顰めた男は何かないかと冷蔵庫の中身をひっくり返し、消費期限が一ヶ月程過ぎた未開封のジャーキーを掘り返す。
「……焼けば食えるか?」
一言そう呟き、カセットコンロを持ち出した男はまるで危険物でも扱うように袋を開け、白い油で引っ付いた内袋に手を入れる。
ヌルリと滑る感覚と、濃い胡椒の香り。乾いた……というよりも、カラカラに萎びた赤黒い肉片と化したジャーキーはペットのオヤツに見える。
味が付いているということは、これは確かに人間用の食料だ。ペット用の食べ物は薄味で、そのままの状態で食えた試しが無い。胡椒の匂いに混じる肉の香りに食欲を刺激され、肉をコンロの火で炙る。
弾ける脂と燃える肉片。一秒ばかし炙っただけで更に小さくなるジャーキー。慌てて火から遠ざけ、頬張ろうとした男の耳にインターホンの音が木霊した。
人が飯を食うタイミングで何の用だ? 仕事の依頼か? いや、そんな筈が無い。事務所は絶賛開店閉業中であり、仕事を持ち込む連中は此処一ヶ月音沙汰無し。そもそも廃棄場に事務所を構える下級エージェントに仕事を持ち込む酔狂な人間など居るはずが無い。
「すみません、デュークは居ますか?」
「あぁっと……何方さんで?」
「デュークに用事があります」
モザイク調の機械音声。コンロの火を消し、肉片を口に咥えた男……デュークは汗と垢が染み付いた長剣の柄を握る。
「五秒以内に扉を開けて下さい」
「嫌だと言ったら?」
扉の向こうに見える頭の幅が広い影は、無音で佇み沈黙する。きっと下級エージェントを誂う為に仕組まれたジョークの一種。廃棄場の子供仕掛けた機械の悪戯。一つ溜息を吐き、長剣の柄から手を離そうとした瞬間、扉がサイコロ状に吹き飛ばされる。
「五秒経過しました。会話は可能でしょうか? 下級エージェント」
「冗談だろ? 人の家のドアぶっ壊しておいてよくもそうヌケヌケと―――」
人型の腕から射出されたワイヤー・ブレードがデュークの頬を撫で、ジャーキーの袋を二つに裂く。
「待て、待て待て待て!!」
空気を切り裂くワイヤーが厭な音を奏で、滅茶苦茶に暴れ狂いながら男の部屋を切って荒らす。火花を散らして真っ二つに割れる冷蔵庫、腐敗臭を発しながら細切れになる牛乳パック、綺麗に両断される硝子の灰皿と……。
「やめろ! わかった! これ以上モノを壊すのはやめてくれ!」
目にも止まらぬ速さで動き回っていたワイヤーがピタリと止まり、人型のモニターに笑顔を浮かべた黄色の球体が表示された。
「何なんだよ……俺が何をしたって? えぇ? そもそもアンタは一体何者だ?」
「それは言えません、義体管理者により情報がロックされています」
「言えないって、あのよぉアンタふざけてんのか? その身体が義体ってことはさ、セクター5のルールに」
「失敬、下級エージェント・デューク。時間がありません、依頼内容について手短に説明させて頂きます」
「俺ぁまだ言いたいことが山程」
デュークの言葉を遮るように身の程大の棺が彼の前に置かれ「中身を死守して下さい。誰の手にも渡さずに、その時の選択を彼女自身が選べるように、お願いします」人型は深々と頭を垂れる。
「……あのさぁ、アンタが何処のどいつで何をしたいのかサッパリ分からねぇのによ、俺がハイ分かりました! とでも言うと思ったか? 人の部屋を荒らした上にだ。そもそも俺ぁ」
チュン―――と、窓硝子に細い点が映り込むと盛大に割れる。飛び散る硝子片に目を回し、咄嗟に頭を抱えて地べたに伏せたデュークは、人型の足の間……薄い霧が流れ込む廊下に幾人もの武装クローン兵を見る。
「時間です。後は頼みました、下級エージェント」
「はぁ⁉ ちょ、ちょっと待て! 何でセクター3の兵隊が」
「棺があるからでしょうね」
「棺ってッ!! 俺ぁ仕事を引き受けるとは一言も」
弾丸を真正面から受け止め、榴弾を斬り裂きながら襲撃者を撃退する人型はあっという間に階下へ落ち、荒れ果てた部屋に残されたのはデュークと棺のみ。伏せたまま地面に転がったジャーキーを口の中へ放り投げ、長剣を片手に立ち上がったデュークは「これ、どうすんだ?」と呟き、頭を掻きながら項垂れる。
叩いてみると、中は空洞だ。
撫でれば冷たい鋼の感触が肌に伝う。
剣の柄で正面を叩きつけても傷一つ付かない特殊合金仕様。
どうしたものかと悩み、棺を弄繰り回していたデュークの背にレーザー・ポインターの赤い点が止まり「それから離れろ、塵屑」張りのある女の声が鼓膜を叩く。
「あ、あぁ……えっと、俺には戦う意思が」
「その臭い口を閉じろ、貴様に発言権は無い」
「臭い口って……俺ぁ毎日歯磨きを」
「言葉が分からないのか? それとも痛い目をみないと分からないのか? 廃棄場の塵」
「そ、そこまで言わなくてもよくねぇか?」
ゆっくりと地面に膝を付き、長剣をなるべく遠くへ放り捨てたデュークは棺に映る女を見る。
鷹を思わせる鋭い目付きと燃えるような赤髪、整った顔立ちからはある種の高貴さが見て取れ、身に纏う防護装甲服も他のクローン兵とは異なる特別仕様。指揮官型の単一製造クローンだろうか? それとも過去に存在していた優秀兵のクローンか? 逡巡するデュークは両手を頭の後ろに組み、深い溜息を吐く。
「棺を回収しろ」
「男はどうします?」
「抵抗するのならば殺せ」
「了解しました」
このまま黙っていれば命の心配は無い。口を閉ざし、クローン兵の足音に耳を傾けていたデュークの視界の端……ゴロゴロと転がってきた人型の頭部が映り「爆発まで後十秒」という無機質な文字列が浮かび上がる。
「マジかよ」人型……義体には時限爆弾が仕込まれていて「最悪だ」兵士の腹を殴り飛ばし、怯んだ隙に首を腕で締めあげたデュークは、兵士を肉壁にしながら雨のように撃たれる弾丸を防ぎ、棺の後ろに身を滑り込ませた。
眩いばかりの閃光と平衡感覚を失わせる爆音。クローン兵の死体で身体に被せ、耳と目を腕で覆ったデュークは閃光爆弾の爆風を防ぐと、すかさず長剣を握り、刀身を鞘に収めたまま女の懐に潜り込む。
「ッ!!」
眼前に迫る銃底を弾き、脳天を貫こうとする銃口から身を逸らす。一瞬の攻防からデュークの近接戦闘能力を推測した女は距離を取り、失った視力を取り戻す為の時間を稼ぐ。
「廃棄場の屑が……小狡い策をッ!!」
「勘違いすんじゃねぇ! 俺が爆弾なんか使うか馬鹿野郎!」
「全員射撃体勢準備!! 撃ち方」
「ま、待てよ! 馬鹿って言ったのは謝るから撃つのはやめろ!!」
掌全体を棺の表面……真ん中に位置する円に触れた時、棺から白煙が吹き出し、重苦しい金属音を響かせながら二つに割れる。
「は……? え?」
動揺するデュークの瞳に映ったモノは、生命維持装置を思わせる機械に繋がれた白銀の美女。死んだように眠る美女は、ゆっくりと瞼を開くとデュークを見つめ。
「貴男……誰?」
と、見るからに彼を不審者か何かだと決めつけるような視線を向けた。