「元気してた?」
久しぶりに会ったヒナコは、相変わらず若さに満ち溢れていた。
通りで目についたこぢんまりした喫茶店に入る。以前はレジャーやショッピングにふたりして行ったものだが、私が腰を悪くしてからはこうした落ち着いた場所で話に花を咲かせることが多くなっている。
「お決まりになりましたか?」
人の良さそうな初老のマスターがテーブルまで注文を取りに来た。
「ええと……アメリカンコーヒー、ホットで」
「お孫さんは?」
ヒナコは一瞬目を丸くし、笑いをこらえながらトロピカルアイスティーを注文した。マスターが去った後、ふたりで顔を見合わせて吹き出した。
「お孫さん、かぁ……」
「ついにね」
「まぁ、仕方ない……私とサヤカの見た目じゃ」
ヒナコが少し悲しげな表情をしたのが、視力のすっかり弱った私にもわかった。
私とヒナコは大学のテニスサークルで知り合った。すぐに意気投合し、在学中は同じファミレスでバイトするほどほぼ毎日一緒にいた。
卒業して就職してからもその関係は続いた。会う頻度はさすがに減ったけど、隔週で週末に会ってはお酒を飲みながら互いの近況や愚痴を語り合う仲だった。
就職して五年ほど経ったある日、居酒屋で話が盛り上がり過ぎて終電を逃した私達は、酒の勢いもあって当時流行していたクラブへと繰り出した。
派手な照明とトランスミュージックに身を委ねる若い男女。その熱気に気圧され、私達はフロアの隅でカクテル片手に佇んでいた。
「サヤカ……なんか私、もうこういうノリついてけないかも」
「わかるー、二十代後半とハタチそこそこじゃやっぱ違うよねー」
目の前では露出度の高い服を着た女子大生達が嬌声を上げていた。
「でもやっぱ……若いっていいなー」
「それなら、不老不死にでもなっちゃう?」
突然現れた金髪ロン毛の男が、紫色の錠剤を私達の手に無理やり握らせた。足取りからして相当に酔っている。
「おい、リョースケ、行くぞ!」
「あーい!」
連れの男の呼びかけに、金髪ロン毛はこちらに投げキッスをしながら去っていった。
「これ……どうする? ヤバくない?」
「いいじゃん、飲んでみようよ! いつまでも若いまんまとか最高じゃん!」
今考えれば、相当酔っ払っていたのかもしれない。強気のヒナコに従い、私達はそれぞれジンライムとファジーネーブルで錠剤を飲み干した。
その週明けから私は急に仕事が忙しくなり、次にヒナコに会ったのは二ヶ月後だった。始めから少し元気なさげに見えたヒナコだったが、パスタ屋で注文したペペロンチーノにもろくに手をつけようとしない。
「ヒナコ、全然食べてないけどどうしたの?」
「なんか最近、食欲ないんだ。食べようと思えば食べられるんだけど、お腹空かなくて」
「え、大丈夫? 体調悪いなら切り上げよっか?」
「ううん、いい」
「そう……あ、最近美容室行った? やっぱヒナコはそのショートボブが一番似合うよ」
話題を変えようとした私に、ヒナコから思いもよらぬ言葉が返ってきた。
「行ってない……二ヶ月前から髪切ってない」
「え? でも前会った時もその長さ……」
「髪が……伸びないの」
なんて言えばいいかわからなかった。
「サヤカ……私のカラダ、変なの……」
ヒナコの涙を、その時初めて見た。
翌日、ヒナコに付き添って近くの病院に行くと、紹介状を渡された。次の病院で診察しても紹介状。まるで裁判みたいにどんどん大きな病院に回され、ついには国立の医療センターで診察を受けることになった。
そして、ついに出た診断は驚くべきものだった。
ヒナコの身体の細胞は新陳代謝を一切しなくなっていた。それぞれの細胞は常に現状を保ち続け、そればかりか、破壊されてもすぐに再生し形状記憶されているかのように元の状態に戻る。肉も、骨も、内臓も。
つまりは……不老不死の状態。
もっとも、その診断結果に関しては箝口令が敷かれた。そして、ヒナコはすぐに仕事を退職し、部屋を引き払い、医療センター内の施設に匿われた。それはヒナコを守るための措置だった。今この事実が公になれば大騒動となり、ヒナコの身が危険に晒されることは明白だったからだ。また、ヒナコが今まで通りの生活を送れば、年月の経過とともに周囲との不都合が生じてくる。ひとまずの隔離は得策に思えた。
事実を知っているのは、医療関係者とヒナコの家族と……私のみ。
そして、もちろん同じ錠剤を飲んだ私もすぐに入院となり何度も精密検査を受けさせられた。しかし、現状普通の人間となんら変わった箇所のないことがわかり、経過観察つきの退院となった。錠剤の分析は全く進まず詳しい仕組みは不明だが、その効き目には個人差があるようだ。
退院する時、担当医師からこう言われた。
「サヤカさん、ヒナコさんとは一生の友人でいてあげてください。あなたの存在がヒナコさんの支えになる日が……必ず来ます」
もちろん、言われなくてもそうするつもりだった。
ヒナコは世間から隔離されているとはいえ外出はでき、永続的な関係でなければ一般の人々に会うことも許可されている。なので、私は積極的にヒナコを外に連れ出した。
「ヒナコ、普段は何してるの?」
「……研究」
「え? 勉強嫌いのヒナコが?」
「違う、私が研究されてるの。血を採られたり腕に小さな傷を作って再生する様子を観察されたり……今後の医療に活かすんだって。まぁでも、その報酬のおかげでお金には困らないわよ。時間にも余裕あるから、いっぱいドラマ観てる」
そう言ってヒナコは笑った。
定期的にヒナコと外出する日々。それは私が職場の先輩と結婚しても変わらなかった。でも、抗えない変化は確実に起こった。
「お母様もよくお似合いですよ」
一緒に行ったブティックで店員からそう言われた時はさすがにちょっとヘコんだ。でも、無理もない。五十歳過ぎのおばさんの横に見た目二十代の女性がいたら一般的には親子だと思うだろう。そういう時は、いつまでも若い姿のままのヒナコを少し羨ましく思うのだった。
そして、ついに今日はお孫さん、か……。まぁ、気づけば私も70代後半でどこからどう見てもおばあちゃん。仕方のないことだ。
「カズトさんの葬儀、無事終わった?」
「ええ、親族だけで済ませたわ……まぁでも、好きなことやれた人生だったと思うし、後悔はないんじゃない」
「……サヤカもいずれ死んじゃうんだよね」
「……うん」
「そしたら私、ひとりぼっちになっちゃうね……ずっと、ずっと」
私は喫茶店で向かいあったまま、ヒナコと一緒に無言で涙を流すことしかできなかった。
それからはヒナコとほぼ毎日会った。ヒナコとできる限りの時間をともにすること、それが私の最後の生きがいのように思えた。
でも……ついにその時はやってきた。
「サヤカ! 死んじゃいや!」
「私ももう九十五歳よ……かなり頑張ったほうじゃない?」
病院のベッドで冗談をとばすが、私にすがりつくヒナコを捉える視界は既にぼやけていた。
「いや! サヤカ、ひとりにしないで……!」
ヒナコの叫ぶ声が遠くなっていき、真っ暗な闇が私を包んだ。
* * *
「調子はいかがですか? ヒナコさん」
「いつも通りよ……二百七十年間、いつも通り」
十六代目の主治医の朝の問診に軽口を叩く。もっとも主治医といっても形式上のものだが。
私は有り余る時間を利用し、勉強嫌いを克服し知識と教養を身につけた。そして、いまや医師として医療の最先端に立ち日々研究を重ねている。実質、私の主治医は私自身だ。
問診が終わり、私はいつものように医療センターの一番奥の部屋を訪ねた。
「おはよう……サヤカ」
ベッドには、年老いた姿のまま眠り続けているサヤカ。もちろん返事はない。
まさか死の直前で錠剤の不老不死の効果が現れるなんて、効き目の個人差にも程がある。でも、皮肉にもその日から、やっと私にも長らく忘れていた生きがいができた気がするのだ。
私がサヤカの意識を取り戻す。そして……最期を看取る。
「サヤカ、いつか一緒に天国に行こうね」
返事はない。いや、もしかしたら “行くのは地獄かもよ” なんて、心の中で冗談で返しているかもしれない。
それでもきっとマシ……この生き地獄よりは。
以前はずっとサヤカを羨ましく思っていた。愛する人と歳を重ねていく穏やかな普通の日々。永遠ではないからこそ人間は生きることに懸命であり、それこそが人生の輝きなのだと思う。だから、私も……。
「そうそう、今日はビッグニュース! ついに研究の成果あったかもしんない……今回の不老不死の治療薬」
そうサヤカに話しかけながら、ふと病室の鏡に映る自分の姿を見る。三世紀近く変わらない二十七歳の顔とショートボブ。
その前髪をかき上げると、そこには生えたばかりの短い1本の白髪があった。