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お茶漬けでもどうですか?
御戸代天真
文芸・その他ショートショート
2024年11月20日
公開日
2,980文字
完結
名物女将と何も気づかない男性による、言葉の意味の違いが織りなす勘違いショートショート。

第1話

ここは京都の祇園。

 この街の一角に、地元の人には愛され観光客にも人気の、とある老舗の料亭があった。

 その店の女将はこの道三十年の仕事一筋の人であり、今まで幾人ものお客様を相手にしてきた大ベテランだ。

 店にやって来る地元の人たちは、皆口を揃えて「女将はいるかい?」と尋ねるほど有名な人だった。

 そんな名物女将には、とっておきのとある言葉があった。

 それは、お茶漬けでもどうですか? だ。

 この言葉は『そろそろお帰りください』という意味を、まったく別の言葉で表して伝えるという、相手を思いやる京都ならではの独特の言葉だ。

 意味を知っている人であれば『いや、お構いなく。失礼させていただきますよ』と返して退店する。

 だがこの女将の凄いところは、意味を知らない人であってもお客様になんの不満も感じさせず、退店させるところにあった。

 世の中の酸いも甘いも知った女将が放つ、包み込まれるような独特な雰囲気。そして聞く人を不思議と心地よい気分にさせる、絶妙な声音があるからこそなせるものだ。

 まるで唱えれば最後、相手を思い通りに従わせることが出来る、魔法の言葉のようだった。


 今日も今日とて、料亭は大盛況。

 大勢の人達が来店し、飲んだり食べたり騒いだりと大賑わいだった。

 ぼちぼち閉店も近くなってきた、夜の十時を過ぎた頃。

 残りのお客様は奥の部屋で一人で食事をしていた、見るからにお酒が好きそうな恰幅のいい男性のみ。

 女将は最後に御礼の挨拶をするため、その男性のいる部屋へ向かっていた。

 向かう最中、チラリと廊下の時計が見えた女将は、はぁとため息を吐いた。

 ここ最近残業ばかり続いていたから、今日くらい早く帰りたかったのに、まだ仕事があるのかとうんざりしたのだ。

 この後の仕事はあれとこれとと数えた女将はだんだん億劫になり、思わずまた、はぁとため息を吐いた。

 おっといけない。こんな顔でお客様の前に出てはだめよと、女将は自分の頬を軽く叩いた。

 お客様には色々と注文してもらったんだし、お店は繁盛したんだと、複雑な気持ちを切り替えた。

 女将は男性の部屋の前に到着し、引き手に手を伸ばし、すっと襖を開けた。

 中にいた男性は、お酒で熱くなった体に、お冷を流し込んでいたところだった。

 女将は手慣れた作法で膝を突き、深々と頭を下げてこう言った。

「旦那様。本日は当店へお越しくださり、誠にありがとうございます」

 男性は苦しそうに膨れた腹を撫でながら、満足そうな顔で女将に言った。

「いやいや、とんでもない。こちらこそ楽しかったし美味しかったよ。ありがとう」

 女将はそれに対し、再度お礼を言った。

「ありがたいお言葉、大変嬉しゅうございます。また是非に、当店をご贔屓くださいませ」

 男性は言われ慣れない褒め言葉に、酔った体がさらに気持ちよくなった。

 男性は辿々しい褒め言葉で、お店や接客の感想を述べた。

 女将はそれを一言一言飲み込むように、ありがたく受け止めた。

 男性があらかた話し終わると、女将はあえて、少しの沈黙の時間を過ごした。

 少し経って空気が変わったのを察した女将は、男性に聞こえるかどうか分からない位の、小さな咳払いをした。

 そして女将はゆっくりと顔を動かし、仏のような微笑みで、男性をじっと見つめた。

 目を合わせた男性は、まるで漆塗りされたような女将の瞳に、引き込まれるように見つめ返した。

 それを見計らった女将は、ゆっくりと口を開き、魔法の呪文を唱えた。

「旦那様。そろそろ、お茶漬けでもどうですか?」

 男性はその言葉を聞いた瞬間、ビクンと体が動いた。そして何かを感じ取ったかのように、はっとした顔をした。

 それを見た女将も、心の中でよしと思い、若干頬を緩めた。

 先ほどよりも冴えた顔付きになった男性が、女将を見つめたままこう言った。

「おお、酔い覚ましにいいな。いっぱいもらおうか」

 女将の右肩が、一瞬だけガクッと落ちた。

『あれ? おかしいな』

 すぐに姿勢を戻した女将は、咳払いをして平静を装った。そして、同時にこう思った。

『もしかして、地元か隣県のご出身の方でしたかね。それならば、こうしましょうか』

 女将は先ほどと変わらない仏の笑みのまま、男性を見つめ、こう言った。

「でしたら、お客様。ぶぶ漬けでも、いかがでしょうか?」

 ぶぶ漬けとは京都の方言で、お茶漬けを指す言葉である。

 女将は地元弁で尋ねれば、意味は伝わるだろうと思ったのだ。

 女将の提案を聞いた男性は目を丸くし、唸り声を上げて共感しながら、頭を数回縦に振った。

 よし、今度こそ。と、女将も心の中でガッツポーズをした。

 男性はまるで、こいつはやられたと言わんばかりに頭に手をやり、苦笑いしながらこう言った。

「そいつは美味しそうだなぁ。何かの漬物かい? やっぱり京都はいいよなぁ、そういうのが多くて。でもなぁ、いっぱいごちそうになって、お腹いっぱいになっちゃったからさ。今日はやめとくよ」

 女将は一瞬、後ろから腰を抜かれたのかと思うくらい、無意識に斜め前に崩れかけた。

『なんでやねん!』

 女将が心の中で、半ギレのツッコミを入れた。

 伝わらないイライラと男性の察しの悪さに、女将は腹の中がグツグツと鍋を煮るように熱くなってきた。

『なんなんだ、このお客は。さっさと帰れよ。笑顔でいるのもだんだん疲れてくるんだよ』

 心の中で言いつつも、さすがに目の前のお客様に言うわけにもいかないので、なんとか言葉を変えて気づかせようと考えた。

 そしてとあることを閃いた女将は、男性にこう尋ねてみた。

「旦那様。本日の懐石に出ました、どぼ漬けやすもじ、おつくりはいかがでしたでしょうか?」

 どぼ漬け、お作り、すもじはそれぞれ、ぬか漬け、お刺身、お寿司の京都弁である。

 女将は、本日懐石に出てきた一品一品を男性に思い出させることによって、酒で鈍った胃袋の感覚を呼び覚まそうとしたのだ。

「お出ししたどぼ漬けは、当店自慢の一品なんです。

 お作りやすもじのネタも毎朝仕入れていますので、新鮮な食材を使っておりますのよ。お味はいかがでしたでしょうか?」

 女将は、さあどうだと言わんばかりに、男性に問いかけた。

 聞かれた男性は、長い間忘れていたものをやっと思い出した時のように、すっきりした顔になって、両手をパチンと合わせた。

 見ていた女将も

『よし、これは流石に決まった』

 と、勝利を確信した。

 男性は、評論家のような佇まいで口元に指を近づけ、軽く首を捻りながらこう言った。

「いやぁ、どれも美味しかったよぉ。特に刺身が美味かったねぇ。いいとこはやっぱり、出すものはが違うね。ぜひ近いうちに、また来させてもらうよ」

 女将の頭の中で、ブチッと何かが弾ける音がした。

 とうとう我慢の限界を迎えた女将は即座に立ち上がり、般若のような形相で男性を怒鳴った。

「もうなんやねん、あんた。こちとら毎日残業続きで疲れてんやぞ、いい加減気づけや!」

 女将に突然捲し立てられた男性は、その勢いに呆気を取られてしまった。

 何が起こったのか分からず、混乱している男性の頭の中で、一つのとある仮説が浮かんだ。女将が伝えたかった何かに、初めて勘づいたのだ。

『そうか。この人はずっと、私に気づいてもらうのを待っていたんだ。今日一日ずっと仕事をしていて、ご飯を食べる暇がなかったんだ。だからお腹が空いて、こんなにイライラしているんだな』

 そう思った男性が、憤慨してる女将に尋ねた。

「女将さん。お茶漬けでもどうですか?」

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