ここは京都の祇園。
この街の一角に、地元の人には愛され観光客にも人気の、とある老舗の料亭があった。
その店の女将はこの道三十年の仕事一筋の人であり、今まで幾人ものお客様を相手にしてきた大ベテランだ。
店にやって来る地元の人たちは、皆口を揃えて「女将はいるかい?」と尋ねるほど有名な人だった。
そんな名物女将には、とっておきのとある言葉があった。
それは、お茶漬けでもどうですか? だ。
この言葉は『そろそろお帰りください』という意味を、まったく別の言葉で表して伝えるという、相手を思いやる京都ならではの独特の言葉だ。
意味を知っている人であれば『いや、お構いなく。失礼させていただきますよ』と返して退店する。
だがこの女将の凄いところは、意味を知らない人であってもお客様になんの不満も感じさせず、退店させるところにあった。
世の中の酸いも甘いも知った女将が放つ、包み込まれるような独特な雰囲気。そして聞く人を不思議と心地よい気分にさせる、絶妙な声音があるからこそなせるものだ。
まるで唱えれば最後、相手を思い通りに従わせることが出来る、魔法の言葉のようだった。
今日も今日とて、料亭は大盛況。
大勢の人達が来店し、飲んだり食べたり騒いだりと大賑わいだった。
ぼちぼち閉店も近くなってきた、夜の十時を過ぎた頃。
残りのお客様は奥の部屋で一人で食事をしていた、見るからにお酒が好きそうな恰幅のいい男性のみ。
女将は最後に御礼の挨拶をするため、その男性のいる部屋へ向かっていた。
向かう最中、チラリと廊下の時計が見えた女将は、はぁとため息を吐いた。
ここ最近残業ばかり続いていたから、今日くらい早く帰りたかったのに、まだ仕事があるのかとうんざりしたのだ。
この後の仕事はあれとこれとと数えた女将はだんだん億劫になり、思わずまた、はぁとため息を吐いた。
おっといけない。こんな顔でお客様の前に出てはだめよと、女将は自分の頬を軽く叩いた。
お客様には色々と注文してもらったんだし、お店は繁盛したんだと、複雑な気持ちを切り替えた。
女将は男性の部屋の前に到着し、引き手に手を伸ばし、すっと襖を開けた。
中にいた男性は、お酒で熱くなった体に、お冷を流し込んでいたところだった。
女将は手慣れた作法で膝を突き、深々と頭を下げてこう言った。
「旦那様。本日は当店へお越しくださり、誠にありがとうございます」
男性は苦しそうに膨れた腹を撫でながら、満足そうな顔で女将に言った。
「いやいや、とんでもない。こちらこそ楽しかったし美味しかったよ。ありがとう」
女将はそれに対し、再度お礼を言った。
「ありがたいお言葉、大変嬉しゅうございます。また是非に、当店をご贔屓くださいませ」
男性は言われ慣れない褒め言葉に、酔った体がさらに気持ちよくなった。
男性は辿々しい褒め言葉で、お店や接客の感想を述べた。
女将はそれを一言一言飲み込むように、ありがたく受け止めた。
男性があらかた話し終わると、女将はあえて、少しの沈黙の時間を過ごした。
少し経って空気が変わったのを察した女将は、男性に聞こえるかどうか分からない位の、小さな咳払いをした。
そして女将はゆっくりと顔を動かし、仏のような微笑みで、男性をじっと見つめた。
目を合わせた男性は、まるで漆塗りされたような女将の瞳に、引き込まれるように見つめ返した。
それを見計らった女将は、ゆっくりと口を開き、魔法の呪文を唱えた。
「旦那様。そろそろ、お茶漬けでもどうですか?」
男性はその言葉を聞いた瞬間、ビクンと体が動いた。そして何かを感じ取ったかのように、はっとした顔をした。
それを見た女将も、心の中でよしと思い、若干頬を緩めた。
先ほどよりも冴えた顔付きになった男性が、女将を見つめたままこう言った。
「おお、酔い覚ましにいいな。いっぱいもらおうか」
女将の右肩が、一瞬だけガクッと落ちた。
『あれ? おかしいな』
すぐに姿勢を戻した女将は、咳払いをして平静を装った。そして、同時にこう思った。
『もしかして、地元か隣県のご出身の方でしたかね。それならば、こうしましょうか』
女将は先ほどと変わらない仏の笑みのまま、男性を見つめ、こう言った。
「でしたら、お客様。ぶぶ漬けでも、いかがでしょうか?」
ぶぶ漬けとは京都の方言で、お茶漬けを指す言葉である。
女将は地元弁で尋ねれば、意味は伝わるだろうと思ったのだ。
女将の提案を聞いた男性は目を丸くし、唸り声を上げて共感しながら、頭を数回縦に振った。
よし、今度こそ。と、女将も心の中でガッツポーズをした。
男性はまるで、こいつはやられたと言わんばかりに頭に手をやり、苦笑いしながらこう言った。
「そいつは美味しそうだなぁ。何かの漬物かい? やっぱり京都はいいよなぁ、そういうのが多くて。でもなぁ、いっぱいごちそうになって、お腹いっぱいになっちゃったからさ。今日はやめとくよ」
女将は一瞬、後ろから腰を抜かれたのかと思うくらい、無意識に斜め前に崩れかけた。
『なんでやねん!』
女将が心の中で、半ギレのツッコミを入れた。
伝わらないイライラと男性の察しの悪さに、女将は腹の中がグツグツと鍋を煮るように熱くなってきた。
『なんなんだ、このお客は。さっさと帰れよ。笑顔でいるのもだんだん疲れてくるんだよ』
心の中で言いつつも、さすがに目の前のお客様に言うわけにもいかないので、なんとか言葉を変えて気づかせようと考えた。
そしてとあることを閃いた女将は、男性にこう尋ねてみた。
「旦那様。本日の懐石に出ました、どぼ漬けやすもじ、おつくりはいかがでしたでしょうか?」
どぼ漬け、お作り、すもじはそれぞれ、ぬか漬け、お刺身、お寿司の京都弁である。
女将は、本日懐石に出てきた一品一品を男性に思い出させることによって、酒で鈍った胃袋の感覚を呼び覚まそうとしたのだ。
「お出ししたどぼ漬けは、当店自慢の一品なんです。
お作りやすもじのネタも毎朝仕入れていますので、新鮮な食材を使っておりますのよ。お味はいかがでしたでしょうか?」
女将は、さあどうだと言わんばかりに、男性に問いかけた。
聞かれた男性は、長い間忘れていたものをやっと思い出した時のように、すっきりした顔になって、両手をパチンと合わせた。
見ていた女将も
『よし、これは流石に決まった』
と、勝利を確信した。
男性は、評論家のような佇まいで口元に指を近づけ、軽く首を捻りながらこう言った。
「いやぁ、どれも美味しかったよぉ。特に刺身が美味かったねぇ。いいとこはやっぱり、出すものはが違うね。ぜひ近いうちに、また来させてもらうよ」
女将の頭の中で、ブチッと何かが弾ける音がした。
とうとう我慢の限界を迎えた女将は即座に立ち上がり、般若のような形相で男性を怒鳴った。
「もうなんやねん、あんた。こちとら毎日残業続きで疲れてんやぞ、いい加減気づけや!」
女将に突然捲し立てられた男性は、その勢いに呆気を取られてしまった。
何が起こったのか分からず、混乱している男性の頭の中で、一つのとある仮説が浮かんだ。女将が伝えたかった何かに、初めて勘づいたのだ。
『そうか。この人はずっと、私に気づいてもらうのを待っていたんだ。今日一日ずっと仕事をしていて、ご飯を食べる暇がなかったんだ。だからお腹が空いて、こんなにイライラしているんだな』
そう思った男性が、憤慨してる女将に尋ねた。
「女将さん。お茶漬けでもどうですか?」