スミレが口にした経験とは、異性に対してのことを言っているのであろう。だからといって、変に想像するような、性的な意味は込められてはいない。というのも、一見すると遊んでそうに見えるが、実は一途で純情な乙女なのだ。このような彼女を一言でいうなら、まさに恋愛初心者。口では大きく見せていても、男性に対しては奥手で免疫も無きに等しい。
だが、こうした性格とは裏腹に、スタイルは抜群で男ウケするような体つき。しかも最大の魅力は、お尻みたいな大きな胸である。ゆえに、異性からは度々熱い視線や好意を寄せられるも、いざとなると尻込みをして逃げ出してしまう。よって、恋愛経験が豊富というのは、口から出任せであったと理解できる。そしてもう1つ彼氏が出来ない原因は、妥協を許さない理想の高さが関係していた。
といっても、年収や社会的地位などには興味がなく、欲するものは容姿や性格といった内面的な要素。けれど、そう都合よく条件に合う相手など見つかるはずもないだろう。ところが、そんなスミレにも転機が訪れることになる。その内容とは、上司から直々に命じられた教育係。すなわち、新入社員に対して、営業のノウハウを叩き込むというもの。
――それが2年前に入社してきた夏樹との出会いであった……。
彼は高身長で顔立ちも良く、性格は温厚かつ真面目。何事にも真摯に取り組む姿勢は、社内の女性からも人気が高い。その上、噂に聞く限りでは、ひとり身ときたものだ。つまり、彼女にとっては理想的な相手といえる。しかし、そんな男性が目の前にいるというのに、アプローチすら仕掛けることが出来ないでいた。
要するに、恋愛に対して不器用な一面を持つため、三十路前だというのに未だ独身のまま。こうしたスミレの一面を知っていた夏樹だからこそ、日頃の悪ふざけも目をつぶりやり過ごしていたのだろう……。
「そういえば……私って、あと少しで30代ね。指導してた頃は、もう少し若かったのに……時がたつのって、早いものね」
「スミレ先輩? 急にどうしたんですか?」
「いや、なんかね。独身って言われてみて、ふと自分の年齢を実感したのよ」
「実感っていっても、まだ20代じゃないですか」
過去を懐かしむスミレの呟きに、夏樹は元気づけるように声をかける。
「けど、この年齢で独身って、周りから見たら痛い女よね」
「そんな、痛い女だなんて、僕はそんなこと思いません」
「あら? 嬉しいこと言ってくれるじゃない」
「当たり前じゃないですか。僕にとってスミレ先輩は、営業の基礎を教えてくれた先生のようなもの。だから、尊敬こそすれど、そういう風に思ったことは一度もありませんよ」
夏樹の言葉に、スミレは嬉しそうに微笑んだ。とはいえ、あくまでも同僚としての意見であり、特別な感情など微塵も含まれていないに違いない。
「先生ねえ……」
「んっ?」
「いや、こっちの話よ。まあでも、そろそろ私も結婚を考えないとね。じゃないと、この職場のお局様になりそうだわ」
「結婚ですか?」
スミレの言葉から、夏樹は彼女の結婚を意識した。というのも、今まで独身でいる理由を深く聞いたことがなかったからだ。
「そうよ、もし相手が誰もいなかったら、夏樹っちが私をもらってくれるかしら?」
「いやいや、冗談はよして下さいよ」
「冗談じゃないわ、私は本気。だから、いつでも待ってるわよ」
「いや、だから……」
スミレの艶かしい雰囲気に、夏樹は言葉を詰まらせ呆然とした。なぜなら、彼女の眼差しが冗談ではなく、本気だと訴えていたからだ。すると、二人のやり取りを眺めていた弥生が、嫉妬心を抱くような声色で口をはさむ。
「はいはい! もう、この話は終わりにしましょうね。これ以上、先輩の戯言を聞いても面白くありませんから」
「あら? 弥生っちったら、もしかしてヤキモチ妬いてるの?」
「そんなわけないじゃないですか。私はただ、先輩の暴走を止めただけです」
「暴走って、酷い言いようね。けどまあ、これで全てが解決したんじゃないかしら?」
スミレは弥生の一言で、自分達が抱えていた問題が解決したと口にする。しかし、それはあまりにも早合点な発言だ。何故なら、まだ肝心の部分を聞けていないのだから……。
「解決? ――って先輩、もう忘れたんですか?」
「忘れた? って、何を?」
「何をじゃなくて、青葉さんの好きな人ですよ」
「あっ、そうだったわね」
(はあ……行き着くところは、やっぱりそこですか……)
弥生の指摘に、スミレはハッと思い出したように手を叩く。一方で、深い溜息をつく夏樹は、呆れた様子で彼女たちを見つめていた。
「ったく、物忘れ激しくないですか?」
「ごめんごめん。夏樹っちの言葉が嬉しくて、ついね、忘れてたわ」
「言葉が……嬉しい?」
「そう。弥生っちも、さっきの話を聞いていたでしょ」
弥生の問いかけにスミレは小さく頷き、どこか気恥ずかしそうな素振りをみせる。
「ええ。先輩が変なことを言わないように、ずっと傍で監視していましたからね」
「そんな、ずっとだなんて照れるわね。じゃあ、肝心なところも、しっかりと聞いていたのね。むふっ」
「照れる?」
「そうよ、夏樹っちが私にくれた愛の言葉。『スミレ先輩は、僕に愛を教えてくれたヴィーナスのような存在』ってね。――キャー‼ もうね、こんなこと言われたら、さすがにドキッとするわよ」
頬を赤らめ両手で顔を隠すスミレは、指と指の隙間から夏樹にそっと視線を送る。そんな彼女から発せられた言葉は、二人の想像とは大きくかけ離れていた。何故ならそれは、彼女が勝手に妄想を膨らませただけの、偽りの表現であったからだ…………。