こうして顧客情報についての話が終わる頃、いつの間にか彼女たちの言い争いは収まっていた。しかし、一難去ってまた一難。先ほどの疑問が解消されないのか、弥生は納得がいかない様子で思い悩む。――が、暫くして何かを察した彼女は、夏樹を見上げながらゆっくりと口を開いた……。
「もしかしたら…………青葉さんって、やっぱり――」
「いや、だからね、弥生ちゃん。さっきのは、そういう事じゃなくて」
「――和菓子が大好物だったんですね」
「和菓子? ああ、そっちのことね。まあ、食べれないことはないけど、あまり甘い物は好きじゃないかな?」
弥生の的外れな発言に対して、夏樹は安堵した面持ちで胸を撫で下ろす。どうやら彼女は、先ほどの話から和菓子に結びつけたようだ。確かに、2年も四季庵に通い詰めたというなら、その結論に至るのも無理はないだろう。
「好きじゃ……ない?」
「うん、どちらかと言えばだけどね」
「そう、なんですね……」
「とにかく、そういうことなんで、僕はこれで――」
弥生に軽く挨拶をすると、夏樹は足早にオフィスから立ち去ろうとする。ところが、これに違和感を覚えたスミレは、突然にも腕を掴み質問を投げかけた。
「――夏樹っち、どうしてそんなに急いでいるの?」
「どうしてって……それは、クライアントと約束があるからだよ」
「約束? ほんとにそうかしら?」
「ど、どういう意味?」
夏樹は咄嗟に腕を振り払うと、警戒しながら聞き返す。すると、スミレは意味深な言葉を呟き、弥生に目で合図を送った……。
「さっきの言葉が気になってたんだけど、他に理由があるんじゃないの?」
「理由? そんなのあるわけないよ」
「ねえ、弥生っちも、おかしいと思わない?」
「確かに、そうですね。先輩が言うように、2年も和菓子屋へ通うのは不自然過ぎると思います。その証拠に、先ほど青葉さんは、甘い物が苦手と仰っていましたから」
弥生はスミレに同意すると、訝しげな視線で淡々と話を続けた。これまで夏樹が手掛けていた仕事というのは、顧客宅に訪問して資産運用の提案を行うというもの。であるならば、わざわざそんな場所に飛び込み、契約の話を持ち掛けるだろうか。そもそも、営業というのは持ちつ持たれつ。相手の要望に応え、こちらの提案にも理解を示してもらう。
要するに、甘味品という形を継続的に買うことで、資産という未来の安心をスムーズに伝えることが出来る。だが、話を聞く限りでは、その内容は短期ではなく長期。となれば、甘い物が苦手な夏樹の行動を疑いたくもなるだろう。
「だ、だよね」
「つまり、話を戻すとね。夏樹っちの好きな人って、身近にいると思うのよ。ていっても、職場内やSNSは、さっき聞いたから違うでしょ。だったら、他に考えられることといえば…………?」
「先輩、まだ分からないんですか? でしたら、私が代わりに答えますね。――ずばり、青葉さんは和菓子屋の
(恋? ああーなるほどね、そういうことか。いい感じに勘違いしてくれて助かるよ)
弥生の推理に、夏樹は内心安堵していた。しかし、その安心も束の間……。スミレは更に追い打ちをかけるように、彼の腕を掴みながら耳元で囁く。それはまるで、悪魔が甘い囁きをするような雰囲気である……。
「実際のところ、どうなの夏樹っち?」
「やっぱり、そうなんですか青葉さん?」
「いや、だから……それは、その……」
「「それは?」」
「はぁ……分かりました。話しますよ、話しますから離れてください」
夏樹は二人の勢いに押されるように後退りし、壁に背中が触れる。そして逃げ場を失った彼は、観念した様子で白状するのであった。
「といっても、お二人が思ってるような、やましい下心は一切ありませんからね」
「だったら、なんで話そうとしないのよ?」
「えっと……それはまた別の理由からで、――じゃなくて。じつは、僕の父さんが四季庵の和菓子が大好物だったんです」
「「だった……?」」
夏樹が口にした過去形の言葉に、弥生とスミレは不思議そうに互いの顔を見合わせる。そして、彼の話の続きに、耳を傾ける素振りをみせた。
「はい。もう随分と前の話なんですけどね、僕は父親を交通事故で亡くしました。だから、そのお供え用にと思って、わざわざ四季庵の和菓子を買っていたんです」
「なるほど、それで話しづらそうにしてたってことね」
「まあ、それもあります」
「それも?」
先ほどから意味深な発言を繰り返す夏樹の言葉。この反応にスミレは首を傾げながら聞き返し、弥生も彼が何を言いたいのか理解できていない様子だった。
「あっ、いや、ですからね。僕は別に、四季庵の娘が好きとかで通っていたわけじゃないんですよ。これで分かっていただけましたか?」
「そっかぁ、そういうことだったのね。でも、それならそうと言ってくれればいいのに」
「そうですよ、青葉さん。変に勘ぐってしまったじゃないですか」
(よしっ! これでなんとか、あの話は誤魔化せたかな? ついでに、僕が好きって言った人のことも忘れてくれたらいいんだけど……)
どうにか窮地を逃れることが出来た夏樹は、誤解を解けたことにホッとした表情を浮かべていた。そして、小さくほくそ笑むと、心の中でガッツポーズをしてみせる。だが、そんな光景も束の間の喜びでしかなかった…………。