こうして左右の腕を掴まれた夏樹は、暫く抵抗できず固まった状態であった。なぜなら、両腕には柔らかな感触と生温かな刺激が伝わっていたからだ。そんな中――、あからさまに嫌そうな態度を取るスミレは、頬を膨らませながら弥生に不満を漏らす……。
「ちょっと、なに夏樹っちに色目つかってんのよ。先に誘ったのは私よ」
「別に色目なんかつかっていませんよ。私はただ、青葉さんと親睦を深めたいだけです」
「はい、嘘! それ絶対に下心あるやつじゃん」
「そんなこと、下心丸出しの先輩に言われたくありませんよ!」
(はぁ……せっかく仲直りしたというのに、また始まったよ…………)
弥生は頬を紅く染めながら反論すると、スミレも負けじと語気を強くして言い返す。一方、この光景を眺める夏樹は、頭を悩ませながら溜息交じりに呟いていた。
「そう言うけど、ムッツリよりも丸出しの方が、まだマシってもんでしょ」
「先輩、それってどういう意味ですか? もしかして、私のことを言ってるんじゃないですよね!」
「あらやだ? まだ自分の性癖に気づいていなかったのかしら? それは何とも滑稽というか、哀れで見てて可哀想になるわね」
「――よくもまあ、自分のことを棚に上げておいて、言いたい放題いってくれますよねえ。――この妄想好きのドヘンタイが!」
夏樹の腕を握りしめたまま、言い争いを始めた二人。口調は段々と激しくなり、言動は更にエスカレートしていった……。
「――だ、誰が妄想好きのドヘンタイよ! 言っていいことと、悪いことの区別もつかないの!」
「悪いこと? 私は本当のことを言っただけですよ。あれ? ご存知なかったんですか、ビッチ先輩」
「ビッチ? この私がビッチ? ――ちっぱいのくせに生意気ね!」
「はいはい、またそれですか? もういい加減、その言葉にも慣れました」
最初は弥生のことをからかい、優位に立ち振舞っていたスミレ。しかし、今の様子から窺えたのは、完全に形勢逆転した劣勢な状態。ゆえに、さすがにこの状況はマズイと、夏樹は仕方なく彼女たちに声をかける。
「あの……ちょっといいですか? 今日はクライアントと約束があるので、とりあえずこの場は失礼させてもらいますね。なので、僕のことは気にせず、どうぞ二人でごゆっくりして下さい」
「ちょっと待ってよ、クライアントと約束って何? 夏樹っちに、顧客なんていないはずでしょ?」
「あのですね、スミレ先輩。さすがに契約は無理でも、クライアントぐらい僕にだっていますよ」
「ほんとなの、弥生っち?」
「――ちょっと待ってください…………はい、確かに午後から1件入っていますね」
弥生はキーボードを素早く打ち込み、パソコン画面からメンバーの予定を確認してみせた。すると、夏樹が言うように、午後から1件だけ顧客情報が登録されていた。
「ほら、見て下さいよ。噓ではないでしょ」
「ほんとだわ。確かに…………って、このクライアント、四季庵じゃない」
「どうしたんですか、スミレ先輩?」
「どうしたもこうしたも、四季庵って言ったら都内に何店舗もある有名な和菓子屋さんよ。私でも成約が難しいというのに、よく夏樹っちにアポがとれたわよね」
「まあ、いろいろありましたからね」
その場所は、明治に創業したといわれる老舗の和菓子屋。行列が出来るほどの賑わいで、看板商品は店舗名に相応しい、四季を彩る四種類の甘味品。
春には、咲き乱れる花々のような桃色の桜もち。
夏には、初々しい若葉の薫りたつ薄緑の
秋には、華やかな色合いを魅せる紅色のもみじ饅頭
冬には、一面が雪化粧したような乳白色のくず餅。
どれをとっても絶品で、季節ごとに楽しめる和菓子として人気が高い。こうした詳細をスミレが話すと、夏樹は相槌を打つように何度も頷いた。そして、弥生はというと……どうやら彼女は知らないらしく、 興味深そうに喉を鳴らせながら聞き入っていた。
「いろいろって、どういうことよ?」
「それはですね。2年間その店に通っていたから、アポを取ることが出来たんです」
「成約を取るために、2年も頑張ったってこと? いや、それだとおかしいわね。1年目の夏樹っちは、契約をジャンジャン取っていたものね。1件も成果が出なくなったのは、弥生っちが入社して暫く経った頃よね?」
スミレは独り言のように自問自答を繰り返す。それは、弥生が入社する前の出来事だ。夏樹が入社した1年目というのは、下位を寄せ付けないほどの実力の持ち主であった。だが、不思議なことにその勢いは徐々に陰りを見せ始め、2年目に突入後は一気に下降線を辿っていったという。つまり、ここで問題なのは、なぜ急に成果が落ちたのかである……。
「スミレ先輩、そんなにも深く考えないで下さい。単に僕が四季庵の常連で、偶々アポが取れたってだけですよ」
「偶々にしては、時期がねえ……」
「青葉さん、先輩がいう時期って何ですか?」
「時期も何も、弥生ちゃんには関係ない話だから、気にしなくてもいいと思うよ」
夏樹は弥生の疑問に対して、軽く受け流すように答えた。その反応を見た彼女は、腑に落ちない様子で首を傾げる。だが、ここで話を続ければ、いずれは真実を知ることになるだろう。それは彼にとって都合が悪いため、敢えて話を逸らすしかなかった…………。