淳之輔先生に摘ままれていた頬には、まだ指の感触が残っているようだった。いつもより、熱を持っているような気さえする。
俺はどんな顔をしていたのだろうか。驚いていたかもしれないし、どこか挙動不審だったかもしれない。だけど、先生はそんな様子を気にもしないで「大丈夫」といって語り始めた。
「瑠星は日焼けもそんなしてないし、化粧がのりやすい肌質だよ」
「……は?」
「ピンで歌う訳じゃないんだろ? それなら、歌声は他の奴が補完してくれるだろうし、化粧とダンスで乗り切れるって」
「淳之輔先生……俺、出来ればどうやったら回避できるかを考えてほしいんだけど」
「そりゃ無理だろう? 決まったことを覆すと、恨まれるぞ」
最もな意見に、ぐうの音も出ない。
「……滝が目立ってくれるのを祈るしかないか」
「滝? 一緒にやる子?」
「そう、ラグビー部なんだけど……」
「ラグビー部!? またなかなか濃いのを持ってきたね。それじゃ、瑠星は目立たないんじゃない?」
「目立ちたくないんです!」
スマホを取り出し、春先にとった集合写真を見せると、先生はまたげらげらと笑い出した。
「これはさすがに……別の意味で化粧のし甲斐があっていいね! いいな、高校生は楽しそうで」
「俺は全然楽しくないですよ。先生くらい美人だったら楽しめるかもしれないけど」
「どうだろうな。化粧と女装は別だし……いや、変わりたいって願望なら同じなのか?」
「変わりたい?」
そういえば、前にも淳之輔先生がいっていたことを、ぼんやり思い出した。化粧するのはやる気スイッチを入れるためだとか、変われた気がしたからだとか。
「そうだ。物は試しで今度、化粧してやろうか? 気分変わるかも知れないぞ」
名案だといわんばかりに顔を輝かせた淳之輔先生を見て、俺は思わず顔を引きつらせる。それを見た先生は、また噴き出して笑った。
あれ、もしかして冗談だったのかな。
一通り笑った先生は「さて、休憩終了だ」といって、椅子に座りなおした。
「後半は定期テストの範囲対策だな。目標は平均点ってことだから、確実に取れる部分を絞るぞ。まずは暗記する公式な。例題を解き直したら、演習Aをやっていこう」
さっきまでげらげら笑っていたというのに、きっちり切り替えた淳之輔先生は、真摯な眼差しを俺に向けた。
艶やかな爪が、開かれた参考書を指し示す。節くれだった大きな手だけど、その肌はすべすべとしていそうだった。
俺の頬を引っ張った指先の感触をふと思いだし、なんだか居心地が悪くなった。
「瑠星、聞いてるか?」
「へ?」
「おい。赤点とったら、ペナルティーだからな。そうだな……女装して、俺とデートしよう」
「はぁ!?」
「大丈夫だ。ちゃんと似合った服も買ってやるから」
「意味わかんないんだけど!」
「嫌なら、真面目に取り組め」
丸めた参考書で、ぽこんと頭を軽く叩かれた。そうして、みっちり勉強をした後に、テスト対策の宿題も出される。
「いつものように、わからなかったら連絡してこいよ」
「へーい」
帰り際、母親も玄関まで先生の見送りに出てきた。
「先生、いつもありがとうございます。今度、お夕飯を食べていって下さいね」
「何いってんだよ、母さん……」
「だって先生独り暮らしでしょ? 一食でも食費が浮くし、たまには良いじゃない」
「むしろ、迷惑だろう。常識を考えろよ」
どこかズレた母さんに頭が痛くなる。だけど、先生は困った顔もせず「それじゃあ」と笑った。
「瑠星くんの期末テストの結果がよかったら、一緒にお祝いをするのはどうですか?」
「素敵! 腕によりをかけて料理を用意しなくちゃ。瑠星、頑張るのよ」
テンションの高い母さんに頭が痛くなった俺は、ああうんと曖昧に相槌を打つにとどまった。