使った痕跡がほぼほぼない問題集を出すと、淳之輔先生はそれをパラパラ捲りながら苦笑する。
そりゃそうだろう。自分でいうのもなんだけど、見事に使われていない。宿題で出された所くらいはやったけど、それも、ノートにやっていたから書き込みは当然ない。学校の数学担当教員は、二周三周して解きなおせっていってたけど、二週目に突入すらしなかった。必要最低限しか捲られてないんだから、折れや寄れもないわけだ。
数学が出来ない奴の問題集の使い方なんて、こんなもんだろう。そもそも、一度躓いたら二周三周なんて気力は湧かないんだよ。
とはいえ、勉強をしていなかったのはモロバレだ。
怒られるかな。呆れられるかもしれない。バカにされるのは、さすがに腹が立つが。──悶々としながらちらりと見た淳之輔先生は、特に表情を変えることなく「それじゃあ」と、早速の提案を打ち出した。
「来週来るまでに各章のまとめ、演習問題をやり直しておくように」
「え、まさか全部?」
「途中の例題や練習は飛ばして良い。章の最後にある演習Aだけだったら、そんな量じゃないだろ?」
「でも、来週って……火曜日まで三日だよ!?」
「週末、何か予定あるの?」
「いやないけど……」
「なら、出来る量だ。ああ、Bと発展問題は、今の瑠星には無理だから、そこもやらなくていいよ」
またはっきり無理といわれた。
確かに、無理だ。無理だけど、こうもはっきりいわれると悔しいもので、俺は綺麗な問題集を捲って睨みつけた。
「出来なかったところは付箋を貼っておくように。それと、一問に向き合って、五分かかってもわからなかったら、次に進むこと」
「五分? そんな短くて良いんですか?」
「五分悩んでも解法が思い浮かばなかったら、十分悩んでもわからないよ。それより解説を読んだ方がいいから、赤ペンで書き写すように」
そんなことしたら、ノートが真っ赤になること間違いなしだ。
「解説を読んでもわからなかったら、連絡して」
そういってスマホを取り出した淳之輔先生と、俺は連絡先を交換することになった。
交換した連絡先を眺め、表示された先生のアイコンを見て首を傾げる。
そこにあったのは、深い群青に金銀の星がちりばめられた爪だ。女子が喜びそうなネイルってやつだろう。
「……つけ爪?」
「綺麗だろ。今日は、瑠星のお母さんを驚かせたら悪いと思って、無難なクリアだけにしたんだけど」
そうしてつき出された指先は、艶々だった。
写真のものは、先生が友達に頼まれて作った付け爪らしい。予想以上に上手くいったから記念に写真を撮ってアイコンにしたのだと、楽しそうに教えてくれた。
化粧をして、爪まで綺麗にして。先生は、俗にいうオネエってやつなのだろうか。
でも、話し言葉とか男だよな。
美浜大って国立だし、真面目な人が集まっているんだと思っていたけど、そんなことないのかな。むしろ国立ともなると、全国から猛者が集まってくるから、俺のイメージするようなエリートとは違う人種がいてもおかしくないのか。
色々考えてみたけど、違和感が残った。
「……先生、本当に美浜大なの?」
「なんだよ、急に」
「なんかこういうのって、服飾系っていうのかな? そういう専門学校の人なら、男でもしてそうだけど」
「ああ、真面目な国立大の学生っぽくないって?」
俺のぼんやりと抱いていたイメージは伝わったらしい。
苦笑した淳之輔先生は、鞄から財布を取り出すと一枚のカードを引き抜いた。それは学生証で、美浜国立大の文字がしっかりと記されていた。証明写真は、今とちょっと雰囲気が違うけど先生だとわかる。
「……この写真は、化粧してないんだ?」
「お、わかる?」
「今と雰囲気違うし……っていうか、どうして化粧してるんですか?」
「あははっ、瑠星のお母さんにも食い気味に聞かれたな」
もしかしたら、触れちゃいけない部分かと思ったけど、案外そんなこともなかったみたいで、淳之輔先生は笑い飛ばした。
なんか、従兄妹の美羽を思い出すような、あっけらかんとした反応だ。
「俺の化粧はなんていうか……やる気スイッチみたいなもんかな?」
「やる気スイッチ?」
「うん。まあ、元々綺麗なものとかファッションが好きっていうのもあったんだけどさ。初めて化粧してもらった時、変われた気がしたんだ」
変われた気がした。その言葉がやけに響いた。
学生証の写真を見る限り、素の顔だってきっとモテるだろうって思えるくらいカッコいい。身長だって俺よりうんとデカいし、それで美浜大に通ってるなんて、モテないはずがないと思うんだけどな。
「先生、学生証の先生もカッコよかったし、変わる必要あったんですか?」
俺のふとした疑問に、淳之輔先生は一瞬、驚いた顔をする。
「カッコいいって、いわれたの初めてかも」
「嘘だ!」
「いやほんと。高校の頃はデカくて威圧的だとか邪魔だとかいわれたし、モテたことも……」
うーんと唸った先生は、高校の頃を思い出しているのだろうか。
「瑠星とのいうモテたって経験はやっぱないな。男子校だったからかな」
「え? じゃあ、高校時代に女の子と付き合ったこととか」
「ないよ」
マジか。こんなイケメンでも彼女がいない高校時代とかあるのか!?
衝撃にぽかんとしていると、淳之輔先生が「そういえば」と呟いた。
「瑠星のお母さんに、最近の子は化粧が普通なんですか~って聞かれたよ」
「母さんに?」
「なんか、凄い目をキラキラさせてたよ」
「あー、何か想像つく。先生、母さんの好きなKポップアイドルに似てるからかな」
「そういうこと? そういえば、瑠星にも化粧教えた方がいいのかしら~とかいってたな」
「げっ、マジ?」
「あははっ、そんな嫌そうな顔すんなって。化粧しなくても、瑠星君は可愛い顔してますし、モテるんじゃないですかって返しておいたよ」
「はぁ!? なにそれ。俺、モテないし。可愛いって嬉しくないんだけど」
「うちの子はアイドルに負けないと思ってるんですよ~とかいってたな。面白いお母さんだよね」
いや、面白いっていうか恥だろう、恥!
一時期、俺にアイドルのオーディションを受けないかとかいって、勝手に履歴書を書いているのを見つけたことがある。あの時は散々ケンカして、送付するのを阻止したんだよな。俺はそっちには全く興味ないし、迷惑以外の何ものでもない。
「息子自慢するくらいの方が平和だと思うよ。世の中、険悪な親子の方が多いしさ」
「自慢って……俺は迷惑ですよ」
「元気で趣味があるお母さんって良いと思うけどな」
「度が過ぎるんです。推し活してるくらいなら良いんですけど」
息子なりに苦労しているんだよ。
俺がため息をつくのと、ドアがノックされるのはほぼ同時だった。
トレーにカップとお菓子が入ったカゴをのせて、母さんがひょっこり顔を出す。
「先生、お茶飲んで下さいね」
「ありがとうございます」
にこにこする母の顔が、アイドルを見つめる乙女のように見えた。