目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報
第6話 家庭教師の距離感に困惑する

 床に荷物を下ろし、机の横に用意しておいた簡易椅子を先生に差し出し、俺は自分の椅子に座った。


「若槻さんって呼んだ方が良いかな?」

「何でもいいですけど」

「じゃあ、瑠星って呼んでもいい?」


 どこか期待するような眼差しが向けられた。


「いいですけど……」

「本当!? 嬉しいな」

「はあ……そんなに喜ぶほどですか?」

「俺、次男だからさ。兄貴はいるんだけど、弟が欲しかったんだよ」


 楽しそうに答える先生を見て、俺にも兄へ憧れた時期があったことをふと思い出す。それこそ小学生の頃だけど。同級生が兄貴がどうだこうだって自慢するのを羨ましく思っていたんだ。あの頃は、兄弟喧嘩すら羨ましかったな。


 けど、その憧れの兄貴と先生は違いすぎる。

 そもそも、こんな綺麗な兄貴とか聞いたことないし。なんなら、姉貴の方が近いんじゃないだろうか。いや、それって偏見なのかな。

 困惑していると、大きな手が差し出された。


「先生と生徒っていうか、兄弟くらいの気楽な感じで勉強していけたら良いかなって思ってるから、よろしくな」

「はい。よろしくお願いいたします」


 俺よりも全然大きな手はさらさらとしていたけど、見た目に反して筋張っていた。間違いなく男の手だ。

 緊張もあって、握手の後にどうしたら良いか分からず硬直していると、先生は「まだ固いな」と呟いた。


「そうだ、俺のことは淳兄じゅんにいとか呼んでいいぞ」

「……淳之輔先生、よろしくお願いします」


 ぐいぐいと距離感を縮めようとする淳之輔先生に、若干引き気味になった俺の笑顔は歪んでいたかもしれない。

 先生は、少しだけがっかりしたようにも見えたけど「まあ、妥協点」とぽつり呟いた。


 がっかりされても、いきなり兄と思えっていうのは、さすがに無理だって。マンガじゃあるまいし。──付き合っていくの難しそうだな。


 俺が困惑していると、淳之輔先生が何事もなかったような顔で「直近の試験結果とかはある?」と机に視線を向けた。そこには、例の用紙と、真っ赤な解答用紙が置かれている。


 やっぱり、美浜大の幻影大学生に見せるのは、気恥ずかしいもので、おずおずとそれを差し出した。すると、先生は特に表情を変えることなくそれを眺め、しばらくして、なるほどなと呟きながら頷いた。

 点数を笑われるかと思っていたのに、そんなことは微塵もなかった。すごく真剣な顔をしている。


「行きたい大学は決まってる?」

「特には……」

「俺さ、数学そこまで得意って訳じゃないんだよね」

「え? でも、経済学部だって」

「まあ、文系数学くらいは教えられるけど、それは学校のテストで平均点くらいとれるようにするくらいだ」


 いや、その平均点を取るのがそもそも難しいから、母さんが家庭教師を頼んだんだけど、それに何の問題があるのだろうか。

 首を傾げていると、淳之輔先生は用紙を机に戻した。


「瑠星が行きたい大学に数学がいらないなら、捨てるのも手だよ」

「……捨てる?」

「俺らみたいに国立に行くなら、五科目きっちり勉強しないとダメだけど、私立はそうじゃないからな」

「私立大学……」


 そういえば、二年に進級したばかりの頃、担任もホームルームでそんな話をしていた気がする。

 受験は来年だし、別に難関大に行きたいとも思っていなかったから、いい加減に聞いていたけど……そうか、捨てるって選択肢もあるのか。


 高校受験の時、頭痛が痛い思いをしながら眠い目を擦って向き合った五科目の勉強を思い出す。

 もうあんなのはごめんだし、回避できるならしたい。でも、私立ってなると金もかかるんだろうな。そうすると、専門学校とか。あー、でも、専門ってやりたいことがあるヤツの行くところだよな。


 悶々と考えていると、淳之輔先生が「まあ」といって俺の頭に手をのせた。


「急いで考える必要もない。それに、苦手科目を捨てたとしても、赤点を取ったら進級が危ぶまれるだろう? だから、そこそこ勉強するのは賛成だ」

「平均点をとれる程度?」

「そういうこと。まあ、親御さんが許すなら、数学は赤点を取らない程度にして、得意科目を伸ばしてった方がタイパも良いと思うけど。例えば、英語はやっただけ結果が出るし、国語の論説文なんかはテクニックを学べばいくらでも伸ばせる」

「……あれ? 先生って理系じゃないの」

「文系よりの理系ってところだな。残念ながら、理学部とか工学部のような頭はない」


 艶やかな赤い唇の端が上がり、綺麗な目が細められた。


「……じゃあ、経済学部って文系なんですか?」

「大学によっては数学が必須じゃないとこもあるな。だけど、数学苦手な奴は入ってから地獄見るぞ。瑠星は絶対来るなよ」


 はっきり来るなといわれ、若干カチンときた俺は眉間にしわを寄せた。

 確かに、今の俺には国立なんて無理だろうけどさ、はっきりいわれると反抗心も多少芽生えるもんだ。とはいえ、反論する気概もないんだけど。


「まあ、大学決めは冬までに、もう少しビジョンを鮮明にしていこう」

「……分かりました」

「で、まずは数学の平均点を目指そう。お母さんの希望でもあるしね。一年の時、どこで躓いたか自分で分かるか?」


 それが分かれば苦労はしない。気がついたらちんぷんかんぷんだった。

 困って黙っていると、淳之輔先生はなるほどと呟いて、学校で使っていた数ⅠAの問題集を出すようにいった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?