翌朝の俺は、いつにもまして憂鬱だった。
昨夜、机に積み上がった漫画を本棚へと戻し、床に積み上げた週刊誌の束を紐でまとめた。脱ぎっぱなしの服を洗面所に持っていったら、母さんには「また溜め込んで!」とため息をつかれる始末。それも元を正せば、急に家庭教師が来ることになったのが悪いんじゃないか。
思い返すとさらに気が滅入った。そもそも、そういった重要なことを前日にいうか?
相談もなしに決めておいて、じゃあよろしくってなんだよ。本当に、母さんはいつだってマイペースすぎて困る。何をやらかすか、わかったもんじゃない。
憂鬱だろうと腹立たしかろうが、一日の予定は滞りなく進むわけで。苦手中の苦手である数学の授業では、欠伸を噛み殺すのに必死だった。
眠気に抗いながら、俺は教室を見回した。
昼飯後だってこともあり、半分以上のクラスメイトは上の空だ。いくら文系クラスだからって、午後の眠くなる時間に数学とか組むなよな。誰だよ、この時間割り決めた先生は。
斜め前の谷川なんて舟をこぐどころか、完全に落ちているな。東は、うっわ、寝てるのバレバレなくらい頭動いてる。あれは目立ちすぎだ。注意されるぞ。──クラスを眺めて眠気に抗う俺は、辛うじて目を開けているが、授業内容は全く頭に入っていない。
こんな状態で数学が解けるわけもない。
わかってるんだよ。もう手遅れだって。すでにどう勉強したらいいかすら見当もつかないくらいだからな。
中学の時は特別難しく感じなかった数式が、とたんに理解できなくなるとか、本当に高校の数学は何なんだと思う。それでひーひーいって一年すごしたっていうのに、二年に入ったら、日本語話してくれってレベルでわからなくなった。授業の進む速度は速いし、先生の声はまるでお経だし。
板書を写したノートを見ても、さっぱりだ。というか、眠すぎてミミズがのたくったような文字は難解不能。よく耳にしていた微積ってヤツに遭遇する前に、もう俺は白旗だった。
なんとか寝ずに追えた数学の授業。あと一コマ授業を終えれば残るはロングホームルームのみだ。
目を覚まそうと伸びをしていると、谷川と東が集まってきた。
「瑠星、次の世界史、プリントやってきた?」
「まあ一応な」
「ラッキー、ちょっと写させてくれ!」
「俺も俺も!」
「お前らな……」
調子のいい二人に、今度なにか奢れよなといいながら、プリントを出す。
「助かるわー。お前、世界史と英語は得意だもんな」
「そんなことねぇよ。平均よりちょっといいぐらいだし。須川とか飯田とか、出来るヤツいっぱいいるだろ?」
「あー、あいつらに頼むとか無理だわ。頭いいやつってガード固いし、近寄りがたいんだよな。ほら、俺ら底辺組だし」
「そうそう。平均よりちょっと上くらいの瑠星が丁度いいんだよ」
「……それって俺のこと褒めてねぇだろ?」
「んなことないって!」
「いつも助かっています。若槻大明神様!」
「大明神ってなんだよ。ったく……時間ねぇし、さっさと写しちまえよ」
中学からの付き合いの二人は、喋りながら器用にプリントを埋めていく。丸写しじゃなくて適当に書いていくあたり、手慣れているよな。
ふと、頭のいい代表、クラス委員長の須川が視界に入った。
「なあ。頭いいヤツって、やっぱガード固いと思うか?」
「人によるかもしんないけど、うちのクラス委員長とかガチガチじゃね?」
「宿題見せてーなんていったら、自分でやるもんだろうって説教されるよな」
なーっと顔を見合って頷く二人に、そうなのかと思いながら、もう一度、須川を見る。なんか難しそうな参考書を眺めていて、確かに声をかけづらい雰囲気だ。
やっぱ秀才って、あんなんばかりなのかな。家に来る家庭教師もそうなのかもしれない。
美浜国立大は旧帝大ではないけど、国立大の中では難関大だといわれている。商業系の四年制大では名門校とさえいわれているし、うちの高校からもデキるやつばかりが入っている印象だ。このクラスにも何人かは志望してるヤツがいるだろうな。
なんとなく、美浜大を志望しそうなヤツに視線を送った俺はつい、ため息をこぼしていた。
お固いタイプと話すのって、俺も苦手っちゃ苦手なんだよ。そもそも、話が噛み合わなそうだしさ。今日来るっていう家庭教師もそうなのかな。
もやもやと、まだ会ってもいない家庭教師を勝手に想像してみた。
服装もきっちりしていそうだよな。お洒落とかブランドには興味がないだろう。まあ、俺も興味ないけどさ。スウェットやジーパンにTシャツとか、そんな感じで来てくれたらまだいいけど、始めましての挨拶にスーツで来たらどうするよ。もう、それって世界線が違いすぎるよな。会話成り立つのか?