「結局教室にはもどれず、トイレで一日サボってしまった。
はぁ、どうしよう。
明日から学校に行ける気がしない。行きたくない。
ラノベの世界に浸りたい……アニメヒロインの可愛ボイスに癒されながら生涯引き篭もりたい、むしろ異世界にいきたい。
びば、チートで人生舐めプ。来れ、異世界スローライフ」
とぼとぼと歩く河川敷は茜色に染まり、柚月の口から駄々漏れる虚しい現実逃避が誰にも拾われることなく夕暮れの空に消えていく。
「……なんで、こうなったんだろ」
度の入っていないレンズ越しに見える視界が霞んでボヤる。
「はりつめてんなぁ。疲れねぇか?」
「っひぅ!?」
突然、背後から聞こえた少し低めの声にビクッと肩を震わせ、柚月は油の切れた機械のようにギチギチと硬い首を後ろに回した。
「あ、あくつく——もごっ!?」
「やるよ」
口の中に無理やりねじ込まれた物体から、その生地を突き破り舌の上に柔らかく甘い、幸せな味わいが広がっていく。
朝から何も口にしていなかった柚月は口の中の物体が自分を満たしてくれるモノだと瞬時に理解し、もっもっも、と咀嚼を始めた。
「焦って喉につめんなよ? ホレ」
「んんっ! んく、んっ!! ぁ、ありがとう、ございますっ!?」
差し出されたペットボトルの水を受け取り口の中に詰まった〝クリームパン〟を慌てて流し込んだ柚月。
ささくれた心に染みていく糖分によって僅かに余裕を取り戻した。
しかし、その余裕が更に目の前の現実を困惑へと導いていく。
(へ? なんか普通に食べたけど? え? なに!? なんでクリームパン!? とっても美味しかったけど! 一番好きな薄皮のやつ!
ちがうっ!阿久津くんから普通に餌付けされているこの状況はナニ?)
「……
軽く手を振った阿久津蓮斗は柚月に背を向けて歩き始める。
理解不能な現実に脳の処理が追いつかず、茫然と遠ざかっていく柚月には随分大きな背中を見送りながら、ふと昼間の出来事が脳裏に蘇る。
(助けて、くれたんだよね……お礼っ! 言わなきゃ!)
思い出すのは佐伯の拳から身を挺して守ってくれた阿久津蓮斗の姿。
その背中を追いかけ始めた柚月の心からは不思議と恐怖が消え去っていた。
***
柚月はある意味、感動的な光景に身を震わせていた。
河川敷の橋の下、震える小さな子犬とヤンキー。
それは柚月にとって漫画の世界にしか存在しないと思っていた光景。
昨今、動物愛護法の改正やモラル意識の改善によってか段ボールに捨てられた子犬という風景に遭遇する機会はほとんど無くなったように思える。
そこへ、古き良き時代ほど見た目がわかりやすくはないものの、世間一般的にまごう事なき『不良』である阿久津蓮斗が、ちぎったパンを手の平に載せて小さきモノに与えている光景。
これは最早日本の絶景百選に載せるべきではないだろうか。
「——ギャップ萌え……というやつでは!?」
「何言ってんだおまえ? つか、なんで普通についてきてんだよ」
「ぁ〜あはは、なんというか……その、かっ、可愛い子だね!?
名前はなんて言うのかな」
実際は昼間のお礼を伝えるべく追いかけてきた柚月。
だが阿久津蓮斗の思わぬ一面に衝撃を受け、むしろ柚月としてはヨダレ必須な光景に目的を逸してしまっていた。
「ぁ? 名前? 名前……
「字! 漢字、教えて!? 子犬らしからぬ名前な気がしてならない!」
「クゥン」
「んだよ、うるせぇ……オラ、
ズイっと柚月の前に差し出された子犬は、雑種だと思われるがしっかりとした顔立ちで、見た目的には黒い豆柴のようだった。
「かわっ! ダメダメ! こんな超絶可愛い生き物、ボクなんかが触れるには畏れ多いょ」
「ぁあ? 卑屈極めすぎて引くレベルだぞ。
普通にメガネとって、髪切りゃおまえは——」
阿久津蓮斗が何かを言いかけた瞬間。
柚月の視界にある意味で見慣れた、しかし、それは柚月の知る現実では決して起こり得ない光景が飛び込む。
「なんだ、コレ」
「ぇ? ソレって……まさかの、魔法陣!? え、えぇええ!?」
それは阿久津蓮斗の足元を中心に直径二メートル程の光る円。
内側に不可思議な紋様が描かれた端的に言うならば〝魔法陣〟と表現されるモノ。
「——ッち! オレが狙いってか?
魔法陣から押し出されそうになった柚月。
だが柚月は助けようと必死に突き出された阿久津蓮斗の腕にあえて自らしがみ付き、懇願する。
「いや、無理!! こんな千載一遇逃す訳ないしッ! 〝巻き込まれ〟でもなんでもいい! ボクも連れて行って! 阿久津くん!!」
夢かもしれない。
それでも、例え夢であっても柚月には縋らずにはいられなかった。
やり直せるかもしれない……新しい世界で。
叶わない妄想でしかないと思っていた自分の理想に近づく事ができるかも知れない。
柚月の頭は瞬間的にそんな考えでいっぱいになっていた。
二人の足元に顕現した魔法陣が一際強く輝きを放つ。
「——どうなってもしらねぇぞっ!!」
「グルルゥウッ!」
「うわっ! 体が透けて——」
真白に染まっていく視界に身を委ねながら、柚月は意識を手放した。