春、高校二年生になったばかりの
「
ボテボテと走る度に上靴の踵に引っかかる制服のズボンは裾も直していない柚月の兄のお下がりだ。
顔を隠すように伸ばした前髪と、
両腕いっぱいに抱えた売店のパンや飲み物を持ったまま昼休みで生徒の多い廊下を走っていれば、果たして長らく運動不足の柚月がどうなるかは想像に難くない。
「——うきゃっ⁉︎」
「ってぇ、な……」
当然コケる。運悪く最悪な障壁にぶつかる。
「ご、ごご、ごめん……なさい——ひぃっ」
慌ててぶちまけた数人分のパンとジュースのペットボトルを抱え直した柚月は、恐る恐る野暮ったい前髪の奥にある瞳で相手の顔を伺い、直後にビクッと肩を震わせて硬直した。
(うわぁー、今日死んだかも)
「……あ? なんだょ……オレの顔がそんなにおかしいか? あぁ?」
「い、いいいい、いや、全然! 全く!
柚月はトリップしかけた意識を寸前のところで食い止めた。
ガクガクと笑う膝を押さえながら、涙ぐむ瞳を必死に目の前の人物、
——
「……意味わかんね。ほら」
「ぇ?」
スッと差し出された予想外の——いや、想像の埒外な行動に柚月は目を丸くして硬直しながら、今の状況を必死に整理する。
次にかけられる言葉は「表出ろや」だろうか。
などと僅かに余命へのカウントダウンを始めながら目の前に佇む存在の情報を脳内に巡らせていた。
曰く、暴君。
曰く、狂犬。
曰く、破壊の悪魔。
高校入学から半年で停学処分を受けた阿久津蓮斗は、その半年間で聞くも恐ろしい偉業の数々を成したという。
やれ、他校の生徒を一〇〇人斬りしただの、やれ八九三というコードネームの方々を返り討ちにしただの、やれ、〝プニキュア〟のイベント会場にカチコミしただの。
噂される武勇伝は、枚挙にいとまがない。
柚月からすれば、そんな伝説の生き物もかくやと思しき人物が、あろうことか目の前で自分に手を差し伸べているのだ。
その手をつかんだ瞬間、腕ごと〝持っていかれる〟のではないかと恐怖しても仕方がないと言える。
ギンと釣り上がった双眸、間違いなく牙を隠していそうな口元。
雑に乱れているはずなのに何故かいい感じに見える無造作な髪型。
勇気を出して見てみれば、端正な顔立ち。
だが、油断禁物、触るな危険。
ただでさえ身長の低い柚月からすれば差し出されている腕より先が高すぎて見えない——のは前髪が邪魔なだけだが、推定一八○センチはあるその体躯は邪魔な前髪も相まって、首を大分鋭角に曲げなければ顔を直視できない。
「なんだよ? 喧嘩売ってんのか?」
「うひぃっ!? めめめ、滅相もございません! 去ります! 今すぐに視界より消え去ります!! ——ぁ、こ、こし」
差し出されていた手の代わりにズイッと寄せられた顔面の圧力に柚月の豆腐メンタルはべしゃっと崩壊。
無意識に目尻からは涙が溢れる。
急いでその場を離れようとするも、恐怖に竦み上がった足腰は生まれたての小鹿よりも貧弱で柚月の逃亡を助けてはくれなかった。
「バカが——オラ、前見て歩けよ」
「——ふぇ!?」
驚くほど簡単に首根っこを掴んで持ち上げられた柚月は無防備な猫のように体を丸め、ストンとその場に立たされる。
(も、持ち上げられ……ぇ? ボク、そんなに軽かったけ? イヤイヤイヤ! そんなはずない!? 昨日だってやけ食いでケーキ二個も食べちゃって、体重計も怖すぎて乗れてない……のに? バレた、体重バレたかな!?)
あきらかにキャパを超えた恐怖と混乱と羞恥に翻弄されワタワタとテンパっている柚月。
ハッと我に返った瞬間には、既に阿久津蓮斗の姿はなかった。
***
ガラガラ、と塞がった両手を器用に使いながらも怯えるように教室の扉を柚月は開いた。
「おい、おいおいおぉ〜い!? おせぇえよ、まぁつぅうらぁあッ!!
せっかくパシってやってんだからさぁ? 死ぬ気でパシられろや?」
教室に足を踏み入れた瞬間、怒鳴るような口調で近づく男子生徒の一人が強引に柚月と肩を組む。
最後には耳元で凄まれ、柚月の表情は一瞬にして蒼白になった。
「ご、ごめんな、さいっ! こ、コレ……買ってきました」
ビクビクと震える手で渡したパンとペットボトル。
数人の男子生徒はそれを受け取り、特に礼などを言うこともなく、どころか柚月に嘲笑を含んだ視線を投げて、教室の一角へと戻っていく。
「あ、あの……お、金」
震える唇を懸命に動かして柚月は立て替えた代金を要求する。
合わせて五人分の昼食代、高校生の懐に優しい額とは到底言えない。
現に柚月は彼らの分を立て替えた事で昼食を買う事が出来なかった。
その言葉を聞いた彼らは一瞬硬直したように柚月を見つめ、ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべながら柚月を取り囲んだ。
「……あのさぁ、まつぅらくぅん? 俺たちとぉ〜っても腹減ってんだよね? それを我慢して、鈍臭いお前の帰りを待ってあげてたわけぇ? わかる? そこはさ? 〝待たせたお礼に僕が奢るよ〟って言うとこだろ? ぁ?」
このグループの中心的存在である彼、
恐怖に震え俯いた柚月の横顔をニンマリと見つめた後——柚月は少し長い後ろ髪を思い切り掴まれた。
あまりの痛みに気が動転した柚月は反射的に身をよじって強く佐伯の手を振り払ってしまう。
「——ぁ?」
「っ!?」
中途半端な抵抗は、果たして佐伯に尻餅をつかせてしまう結果となり、つまりは火に大量の油を注いでしまった。
一瞬の静寂。
ゆっくりと立ち上がった佐伯は拳を鳴らしながら柚月へと迫る。
「やりやがったな?……その地味で暗い面、俺が派手に見やすくしてやるよ——っ」
振り抜かれた拳が真っ直ぐに柚月の眼前へと飛び、柚月はやけにゆっくりと流れるその光景をただ眺めることしか出来ない。
(顔は、いやだな……)
どこか緊張感のない考えがふわりと浮かび、どうしようもない現実を受け入れて瞼を閉じようとした瞬間。
ヌッと柚月の目の前にギラついた双眸を持った〝横顔〟が現れた。
「——っえ!? あ、あくつくん!?」
佐伯の拳を見事に顔面でキャッチした阿久津蓮斗の姿に柚月が思わず目を丸くして叫ぶ。
対して阿久津蓮斗は特に応えることもなく背を向けていた。
「っ!! てめぇ、阿久津……停学中じゃなかったのかよ」
「——ッペ、ぁ? 今日あけたんだよクソザコ。
それよりよぉ? 出会い頭に〝上等〟くれるたぁ気前がいいじゃねぇか佐伯ぃ……ちょうど退屈で死にそうだったんだ」
口元から流れる血を吐き出し、獰猛な獣も竦むのではないかと言う笑みを湛えた阿久津蓮斗。
これ以上何かを言わせるつもりはないと肉体的言語を行使。
鋭い拳をその顔に叩き込み、同時に上がる教室内にいた女子の悲鳴を皮切りに大乱闘へと発展していく。
柚月はどうしたらいいのか一瞬躊躇う。
瞬間チラリと重なった阿久津蓮斗の視線を受け、柚月は罠から逃れた脱兎の如くその場から逃げ出したのだった。