「らっしゃっせー!」
レジカウンターの向こうから聞こえてきたのは、この静かな本屋の雰囲気をぶち壊す、耳障りな甲高い声。この沼田という男とは大学時代からの腐れ縁で、切っても切っても、その縁を無理やり結んで繋いで近寄ってくる。
「らっしゃっせー!」
押しつけがましい挨拶を無視して視線を逸らしても、無理やり視界に割り込んでくる。午後の二時過ぎとあって、幸いと言うべきか、小さな店内に他の客の姿はない。
「らっしゃしゃっせー!」
もう、何を言っているのかも分からない。こんな時にお客さんが来てしまったら、うちの店の品位を疑われる。沼田の相手などしたくなかったが、仕方なく口を開いた。
「あのさ、いつも言ってるけど、ここ、僕の本屋だから。いらっしゃってんの、お前だから」
「俺はな、この本屋を、自分の店のように思っているんだ」
「それが、迷惑なんだよ」レジカウンターの前の荷物置きに腰を下ろした沼田は、お荷物以外の何者でもない。
「それにしても、ほんと、客来ないよな」
沼田の耳は、都合の悪い言葉が聞こえないように出来ている。そして口の方はと言えば、いらないことしか喋らない。確かに、客がいないのは時間帯のせいではないが、沼田に言われる筋合いはない。
「うるさいな」
「いやいや、そこがいいんじゃない。この雰囲気が落ち着くんだよ」
「買わないなら帰れよ」
「どうせ、道楽でやってんだろ。いいじゃん、客なんて来なくても」
「いいわけないだろ! 客が来なければ、うちみたいな小さな本屋はつぶれるしかないんだよ」
「つぶれるのは困るな」
そう言って、沼田が少し寂しそうな顔をする。まったく。こいつの子犬みたいな表情は、いやでも罪悪感を抱かせる。
「困るって言うなら、ちょっとぐらい貢献したらどうだ」
「どうやって?」
「本を買うんだよ」
「バカなこと言うなよ」沼田が大口を開けて笑う。「ここに来れば、ただでいくらでも本が読めるのに、なんで金を払うんだよ」
さっきの罪悪感を返してくれ。
「本は売り物なんだよ」
「そうは言うけどな、最近、値段が上がってるだろ」
確かに、それは僕自身もひしひしと感じていることだ。とはいえ、沼田にそれを言う権利はない。
「せめて本を読んでから言ってくれ。お前、本読んだこと、ないだろ」
沼田は、おもむろにカウンターに半身を乗り出した。
「あ、そういうこと言っちゃうわけ? 俺ほどの読書家、いないよ」そう言って、黒々と見開いた目の視力は2.0。コンタクトがなければ何も見えない僕とは大違いだ。
「お前が本を開いてるところなんて、見たことないぞ」
沼田がおもむろに咳ばらいをした。無理に低い声を出す。
「読書は……本を開く前から始まっているのだ……」
「出た。お前、すぐにそれっぽいこと言ってごまかすよな」
「……表紙を読むだけでも、読書は楽しめる、のだ」
「ああ、装丁とか装画のことか? まあ、言ってることは間違ってないけど」
「それは、デザインの話だろ。お前は、俺が文字を読めないとでも思ってんのか?」声の高さが元に戻る。だるいカラミが始まった。
「そんなこと言ってないし、そもそも、本のデザインを楽しむのは普通のことだろ」
「これだから、素人は困る」人差し指を立てて、噛んで含めるように言う。「読書っていうのはな、文字を、一つひとつ、読んでいくもんなんだよ」
まじめ腐った顔に、思わず笑いがこみ上げた。
「うわー、すごいこと言った! 本読まないお前に言われたくないセリフランキング、堂々の一位だよ、それ」
「何、そのランキング。面白そう。読みたい。どの本に載ってんの。どこの棚?」
「急に読書家の雰囲気出すな。お前のことが、本に載ってるわけないだろ」
「ふーん。本っていうのも、大したことないな」
手が届く範囲に京極夏彦がなくてよかった。危うく、本当の鈍器本になるところだ。
「そんなに読書家を気取りたいなら、何か一冊、オススメしてみてよ」
「では、これを」そう言いながら、レジ前の平積みから一冊、手に取った。「吉田ロハの『食卓を囲むまで』」
「新刊じゃん。読んだの?」
「タイトルが最高」
「ミステリーとか、読むんだ」
「帯の推薦文とか、三行も書いてあるし。もう、お腹いっぱい」
「読んでないだろ」
「作者の名前も、素晴らしい!」
「まあ、いいさ。僕も、積んでるだけで読めてない本、いっぱいあるし。それより、なんでうちで買ってくれないんだよ」
「買ってないよ」
「どういうこと? 図書館で借りたの? ロハの新刊じゃ、予約で一杯なんじゃない」
「ちがうよ。ここで借りた」
「……お前なあ」嫌な予感が的中した。両手でこめかみをマッサージする。沼田と話していると、必ず頭が痛くなる。
「大丈夫だって。そのうち返すから」
「万引きだからな」
「友達に向かって、そういうこと言うわけ? だったらいいよ。もう返さない」
「完全に万引きじゃないか!」
「万引きと言えばさ」
「さりげなく話を変えようとするな」
「客引きのアイディア、思いついた」
「どういう連想だよ」
「最近、独立系の本屋が増えてるって、ニュースで見たんだよね」
全国的に書店が減少傾向にある中、こだわりと特色のある書店が評判だというのは、もちろん僕も知っている。「この店でも、特色を出せばいいんだよ!」
溜め息が漏れた。もちろん、そういう書店に憧れがないわけではない。ただ、結局のところ、僕は単なる雇われ店長にすぎない。
「ああいうのは、オーナーさんの強いこだわりがあって、はじめて成立するんだよ。僕みたいな普通の人ができることじゃないの」
「無理にお前のカラーを出す必要なんて、ない! 例えば、作家の本棚、みたいな企画、あるだろ」
「ああ、作家に選書してもらうやつでしょ。大手の書店でもたまにやってるね。意外なルーツや趣味が見えて、面白いんだよね」
「それをやるんだよ」
「いやいや。作家の知り合いとか、いないから」
「作家じゃなくていいんだよ。例えば、そこの通りの角にあるタバコ屋のおばあちゃんの本棚、とか」
なるほど。沼田にしては、悪くないアイディアだ。
「確かに、それはちょっと気になるね」
「だろ? これが麻薬犯罪実録モノばっかりだったら、どうするよ。タバコ屋に行列ができるぞ!」
「それ、違う葉っぱ!」
「商店街の精肉店ナイスミートの店長の本棚も気になる! サイコサスペンスばっかりだったりして」
「何の肉、売ってんの!」
「駅前の喫茶ラベンダーのマスターの本棚もいいな。ビジネス書とトーク術の本ばっかり!」
「やめて……。そんな一面、見たくない!」
「どうよ、この企画」
思わず、一緒になって盛り上がってしまった。
「それ全部、妄想だろ。近所の人のオススメ本置いて、どうして売り上げにつながるんだよ」他人の本棚を覗いてみたいという欲求は多くの人が持っているが、残念ながらその本を欲しいとは思わないだろう。
「いいと思ったんだけどな」
「うちはな、至って普通の、町の本屋さんでいいんだよ。地域の人の憩いの場っていうかさ」
僕の原点も近所の本屋さんだった。マンガの新刊の発売日には、学校終わりに小遣いを握りしめて駆け込んだ。中学校に上がって、文庫や新書と出会ったのも、近所の本屋さんだった。この店にも、そういうお客さんがちゃんとついている。
「憩いって言った? ……カフェとか!」
「カフェ? ここのどこにそんなスペースがあるって言うんだよ」
「そこの本棚どければいいじゃん」
「本を減らすな。無茶苦茶だな」
「で、どかした本を積み重ねて、机と椅子を作って、本を皿代わりにしてケーキ出すの」
「お前は、ザ、本を読まないやつ、だな。どういうコンセプトの店なんだよ」
「本嫌いの人のための本屋」
「本嫌いはそもそも本屋に来ないんだよ!」
「安心しろって。俺、本嫌いなのに、毎日ここに通ってるだろ。俺みたいなやつ、集めてくるから」
「勘弁してくれ」
そう言いながらも、本嫌いの人に寄り添う本屋があってもいいかもしれないな、と思った。