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第10話 夕飯を社員食堂で

 社員食堂は賑わいを見せていた。

 お疲れさまー、また明日、いただきます、ごちそうさま。ぬくもりの声に溢れている。

「あら、ツキイデくん、いらっしゃい」

 阿笠さんが笑顔で迎えてくれる。テーブルでは、社員が何人か、思い思いに食事を摂っている。かき揚げそば、餃子定食、親子丼セット……味噌汁としょうゆの柔らかくも独特さを孕む香り。それに鼻腔を擽られると、自然と空腹感を覚える。

 奥の厨房から、じゅう、という音が聞こえた。何かを焼いているのだろうか、はたまた炒めているのだろうか。興味の航路は定まりきらず、心の内で揺らめく羅針盤の針に振り回されそうだ。

 が、今日は心を決めている。僕は阿笠さんに尋ねた。

「天津飯のセット、ありますか?」

「ありますよ」

「では、天津飯セットを一つ、お願いいたします」

「はい、ありがとうございます。好きなとこに座って待っててね」

 と言われたのだが、座るのはいいとして、食券とか買わなくていいんだろうか。お金ってどのタイミングで払うんだろう?

 困っていると、「ツキイデくん」と声をかけられる。

「常葉補佐。帰ったのでは?」

「ん、ちょっと様子を見に。ここは出来上がりわ受け取るときにお支払いよ。ちなみに、おにぎりとかは持ち帰りもできるわ」

「あらぁ、ツキちゃん、お久しぶり~!」

 華やいだ声が聞こえる。振り向くと、湯呑みの乗ったお盆を抱えた阿笠さんが、補佐の姿に目を輝かせていた。

「さっちゃん! 久しぶりぃ。元気してた?」

「んふふ、こっちはおかげさまで元気もりもりよ! 噂は聞いてるわ。ツキちゃんバリバリ働いて、今は課長補佐なんだって? 忙しいんじゃないの?」

 おお、なんか食堂のおばちゃんって感じの情報通具合だな。聞き耳を立てるのもそうだけど、ヒグレみたいなお喋りから、そういう情報聞くんだろうな。

 しかし、おばちゃんと呼んでも差し支えないであろうご婦人を「さっちゃん」呼びする常葉補佐はさすがというか。やはり社長令嬢というのもあって、付き合いが深いんだろうな。

 常葉補佐はおにぎりを三つ注文し、水筒を出す。頼めばお茶をもらえるらしい。五〇〇ミリリットル一五〇円とのこと。自販機だと、最近はこれより高いこともあるし、なかなかお買い得ではないだろうか。温かいお茶も選べるのは、寒さが深まり始めるこの時期にはありがたい。

「でも、この時間にもらうんですか?」

「ええ。夜に温かいお茶があるのはいいわよ」

 確かに。寒くもなってきたし、夜にお茶を飲んで温まるのも、冬の過ごし方の一つだ。

「補佐は自分でお茶を淹れないんですか?」

「茶器が用意できてないのよ」

 自然と二人で席に移動しつつ、僕は常葉補佐の言葉に首を傾げた。

「何を言っているんですか? お茶を一人で飲む分には、ティーバッグを買えばいいじゃないですか」

 僕がごく当たり前のことを口にすると、常葉課長補佐はまん丸く目を見開いて、呆然と口元を押さえていた。

「その手があったわ……!」

「気づいてなかったんですか」

 常葉補佐も、抜けているところがあるんだなあ、と思う。お冷や代わりにもらった温かい麦茶を飲む。この麦茶だって、きっと市販のティーバッグを使って作っている。たぶん。少なくとも僕は、今時、麦から麦茶を作るという人間を見たことがない。

 社員食堂だから、業務用パックなのかもしれないが、業務用もまた市販品なので、あまり関係ないだろう。

 そう、麦茶のティーバッグ。夏には大変お世話になった。熱中症対策に麦茶を大量に作っていたのはまだ記憶に新しい。残念ながら、残暑様は十月まで居座ってらした。十月とは先月である。にわかには信じがたいが。

 常葉補佐の方が、夏にまめに麦茶を作っていそうな感じだが、この分だとそういうわけでもなさそうだ。

「コーヒーだって、粉のインスタントやドリップコーヒーもありますし、ほら、コーヒーメーカーも、今は色々あるじゃないですか」

 まあ、コーヒーメーカーはコーヒーメーカーでなかなかなお値段するらしいが、本体さえ買ってしまえば、あとは専用のカプセルを定期購入すればいい。カプセルだけなら、そんなに値が張るわけじゃないから、会社の事務所とかで利用するパターンも多く存在するのだろうし。

 まあ、経費で落とすのと個人利用では随分違うだろうが、コーヒーや紅茶などの嗜好品くらい、贅沢なお金の使い方をしたって罰は当たらないだろう。「嗜好」品なのだから。

「茶器揃えて本格的にしたい気持ちもわかりますけどね。僕もコーヒーミルには憧れがありますし」

「お、ツキイデくんはコーヒー派?」

「愛飲してるのはヌシカフェのインスタントコーヒーです」

 まあ、深いこだわりがあるわけではないけれど、なんとなく、選ぶときはいつもヌシカフェのコーヒーにしている。

「インスタントコーヒーも便利よね。お湯に溶かすだけでコーヒーになるなんて、どんなもの食べていたら、そんなこと思いつくのかしら?」

「それを言うなら、ティーバッグもですよ。一杯ずつ紅茶を抽出するのに、またとない仕組み。スタイリッシュでコンパクト、美しさすら感じられる」

「滅茶苦茶語るじゃない」

「テトラパックも最近流行りですが、僕は従来の四角いパックの方が好きですね」

 こだわりと呼べるほどの執心はないが、興味だけならわりとどれだけ分析しても尽きない。飲み物は食べ物と同じくらい、こだわり始めたらどこまでもいける趣味の類だ。

「あれくらい、仕事もスマートにまとめたいなって思っています」

「ツキイデくんの仕事ぶりは既にその域を凌駕してると思うんだけど……」

 なんて話をしているうちに、天津飯セットができたらしい。千円札を握りしめて、受け取りに向かう。

 ヒグレの言っていた通り、ケチャップベースの鮮やかな赤いあんが目を惹く。少し小ネギが散らされているので、彩りが鮮やかだ。

 他にはわかめの入った中華スープと、噂の温かい烏龍茶、杏仁豆腐までついている。あ、あと漬物の小皿も。これで四八〇円。普通の町中華なら千円取られてもおかしくない内容。コスパ大丈夫なんだろうか。

 テーブルに持っていくと、蛍光灯の配置がいいのか、よりてらてらと輝いていた。本日の主役と言わんばかりの堂々たる佇まい。あっぱれと言いたくなるが、天津飯相手に何言って、と我に返る。

 隣に座る補佐も、目を輝かせている。輝かせ方が新しい玩具を与えられた子どもみたいで、微笑ましい。

 そういえば。

「湯気の立つ食事、久しぶりかも」

 思わずぽそっと呟くと、隣の御仁は聞き流すことなく、僕を横目で見た。せめて温かいものを食べなさいよ、という声が聞こえてきそうだ。

 ここ一ヶ月くらいは、ヒグレに連れ出されて外食ということもなかったから……あ。コーヒーは温かいものを飲んでいましたよ。——なんて言っても、色々とお叱りを受けそうな気がする。

「天津飯にしたのね。見てたら私も食べたくなってきた。頼んじゃおうかな」

「おにぎりはどうするんです?」

「んー、夜食にでもしようかしら」

「太りますよ」

 じろ。……おっと失言。お節介モードとは違った冷たい眼差しを受け、僕はそれをかわすようによそを向いた。

 さて、冷めないうちに食べよう。せっかくできたてのほかほかなのだ。僕は手を合わせた。

「いただきます」

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