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第8話 おすすめと楽しみ

 ふと、手を止める。

 サンドイッチは三切れ入っている。この場には、僕、ヒグレ、伊東さん。伊東さんがランチをお裾分けしてくれたことから考えるに、一切れくらい分けても良いのでは?

「伊東さん、わさび苦手とかないですか?」

「いえ。好き嫌いや体に合う合わないはコーヒーくらいなもので。……ウインナーコーヒー、美味しそうですね」

「一口飲みます?」

「いえ。本当にお腹と合わないので」

 体に合わないというのは本当に厄介だ。女の人って、甘いものとかクリームとか好きそうだし、ウインナーコーヒーは見てくれもいいからな。憧れとか、あるんだろうな。

 自分にそういうのがなくてよかった。もしかして、「お母さん、丈夫な体に産んでくれてありがとう」ってこういうときのための言葉だったりするんだろうか。

 それはさておき。サンドイッチの一切れを包みに乗せた状態で差し出す。

「よかったらどうぞ。レディースランチ、美味しかったので、御礼です」

「ありがとうございます」

 慎ましやかに頭を下げ、サンドイッチの包みを受け取る伊東さん。「そんな気を遣わなくてもいいのに」という不毛なやりとりがないのはストレスフリーだ。

 気遣いに溢れているのは日本人の美徳だが、遠慮も過剰だとちょっとしたわだかまりができる。特に、感謝の気持ちを表した行いに遠慮とはいえ否定の言葉をかけられるのは、あまり快くない。

 遠慮がないのも困るけど、遠慮されすぎるのもあれなのだ。つまり、何事もほどほどにってこと。肝に銘じておこう。

 ところで。

「ヒグレ、さっきから視線が痛いんですけど。うどんの他にいなりも頼んでたからいいでしょ?」

 サンドイッチは三切れあるから自分にも分けてほしいという視線なのかと思ったが、ヒグレから返ってきたのは「そんな食い意地張ってないやい」といういじけた声だった。

 ああ、ちょっとほったらかしにしたからいじけているのか。ヒグレは昔から人と話すのが好きなコミュ力お化けだし、のけ者にされるのを嫌がるタイプの人間だった。

「ヒグレは何か、食べ物のおすすめはあるか?」

「俺? そうだなぁ。ここの飯は美味いぜ。社員割引で安く食えるしな。社員なら、食堂は八時まで入れるから、晩飯食べて帰る人もいるくらいなんだぜ」

「そうなんだ」

 ちなみにヒグレが頼んだ肉うどんが三五〇円、いなりが一個三〇円である。ヒグレはいなりを二個頼んでいたので、合計四一〇円。ワンコイン以下というのはかなりコストパフォーマンスがいいかもしれない。

 そうですね、と伊東さんも続ける。

「レディースランチも割引で五〇〇円ですし。たくさん種類を食べたいということでなければ、単品の丼か麺に何か付け足す方がここでは安くあがりますね」

 まあ、お金がないから外食しない、というわけではないが。肉うどん三五〇円はぶっちゃけ今日買ったわさびマヨネーズのBLTサンドとほぼほぼ等価なので、コスパの良さが光る。

 食堂で食べるのは、食費も抑えられて、それなりの量が食べられそうだ。けれど、決断するにはもう一押し欲しいところ。

 僕が悩んでいると、ヒグレはつらつらと続ける。

「特に俺がおすすめするのは天津飯セットだな。ここはケチャップベースなんだけど、超うんまい」

「ヒグレは中華系統が好きですもんね」

「それもあるんだけどな」

 何故か声を潜め、顔をこちらに寄せる。釣られた僕と伊東さんも、ヒグレの方に顔を近づけると、ヒグレは小声で告げる。

「サービスでついてくるホットの烏龍茶が異様に美味いんだよ。それが一番美味い」

 ふむふむ。声を潜めた理由はわかった。メインの料理よりサービスのドリンクを褒めるのは、傍目から見ると心象は良くないかもしれない。事実だとしても。

 ただ、僕は俄然興味が湧いた。

 僕や伊東さんは飲み物にこだわりがある方だが、ヒグレのスタンスは「喉が潤えばなんでもいい」という感じなので、それが「美味い」と称する烏龍茶がどれだけ美味しいかというのは気になる。今度頼んでみよう。

 ——なんて、なんだか既に乗せられている。が、まあ、悪い話じゃないはずだ。


 昼食を終え、午後からも普通に業務をこなす。

 変わったことといえば、三時に加藤さんからもなかの支給があったことくらいで、いつも通り、忙しない感じの一日だった。

 午後六時半、いつもは全然気にしていなかったのに、スピーカーから鐘の音が流れてきて、終業時間って、本当に六時半だったんだ、と理解する。

 先程あった発注をリストにまとめようとしていると、作業ボードで頭を叩かれた。顔を上げると、常葉補佐の顔があった。

「終業時間よ。仕事を締めにかかりなさい」

「はい。さっき受けた発注依頼だけ打ち込んだら、あがります」

「お、素直ね」

 補佐の反応に、僕は少し目を平坦にする。

「僕を何だと思っているんですか」

「んー、仕事大好き人間? かなり時間がかかることを覚悟していたわ、正直」

 残業が長く習慣づいているし、習慣を直すのは容易じゃないわ、とのこと。それは確かに。

「今日だって、もうちょっと難色を示してくると思っていたのよ? 七時くらいまでなら大目にみようとは考えていたけれど……ちゃんと終業のベルを聞いていたみたいね」

「ええ、初めて聞いた気がします」

 あてっ。作業ボードが今一度降ってきた。

「言っておくけど、毎日鳴ってはいたからね?」

 それはそうだろう。どうして今日は聞こえたのか、自分が一番疑問に思っている。

 言われて意識した、という説が一番有力だし、実際そうなのだろうが、先程補佐が言った通り、「終業の鐘が聞こえない」というのも、長く習慣づいたことの一つで、直すのは容易じゃない。一回言われただけで順応するというのは、なかなか物分かりのいい頭をしていることになる。

 が、原因はどうあれ、補佐は嬉しそうににやにやしている。

「なんだかんだ言って、休息を欲していたということかしら? それとも、終業後の楽しみでもできた?」

「今日の場合は後者ですね。社員食堂でごはん食べて帰ります」

 おお、と感動を表すように、常葉補佐が作業ボードを抱きしめる。

「早速食事を気にかけることにしたのね! でも、社員食堂があること、よく知っていたわね」

「存在は知っていましたけど、行ったのは今日が初めてでした。ヒグレのやつに連行されまして」

「阿笠さん、とてもいい人でしょう? 料理、とってもお上手なのよ」

「……メニュー全部、阿笠さんの手作りなんですか?」

「全部ではないけど、阿笠さんの味は多いわよ。厨房を取り仕切ってるオウシュウくんは、阿笠さんの味に憧れて、うちの社員食堂に入ったくらいなんだから」

 オウシュウくんというのは、料理人の一人らしい。ヒグレおすすめの天津飯を作っているのも、その人なんだろうか。なんとなく、中国っぽい響きの名前だ。

 それにしても、補佐はやっぱり会社の事情に詳しいな。

「常葉補佐も社員食堂を利用するんです?」

「たまにね。小さい頃は、祝い事もここの食堂でやってもらっていたわ」

 さすが社長息女。ただ、アットホームな感じだな。文房具を取り扱うっていうのもあって、一般的なイメージの社長一家や創業者一家というよりは、庶民派な生活をしているのかもしれない。

 社長をはじめ、ご家族とは仲がいいんだろうか、なんて聞こうとしたら、スマホがバイブレーションを鳴らした。この時間に通知が入るのは珍しいことじゃないのだが、「終業時刻」という意識があるため、気が緩んでいて、思ったより反応してしまった。

 さて、どこからだろう、と確認すると、そもそも通話ではなく、メール。当然着信のバイブも鳴り止んでいた。

 送信者の名前は「水」とある。

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