「僕に?」
僕も伊東さんも、確かに互いの名前を知っていた。が、本当に名前を知っているだけの仲だ。おすすめのランチを教え合うような仲ではない。
が、伊東さんの目は真剣だ。
「最近、佑さんの残業時間が伸びてきています。以前は定時からはみ出たとして、許容範囲の残業時間でしたが」
ん? この流れ、既視感が。
「許容範囲? ええと、ツキイデ、お前が残業してるのは知ってたけど、何時まで残ってんだ?」
「九時過ぎ」
「これまでのタイムカードの記録で一番遅かったのは午後九時五十三分です。先週の金曜日の話ですね」
何故そんな細かいところまで、と驚きの目で見ると、伊東さんは背筋を伸ばし、胸を張った非常に整った姿勢で僕をちらと見る。その胸元で照明を返すのは「人事部伊東」と書かれたネームプレート。
人事部というのは、人事異動や給与管理などを担当する部署。残業をしたなら、残業手当を出さねばならない。つまり、社員の残業時間も把握しているというわけだ。
「九時五十三って、ほぼほぼ十時じゃねえかよ!! なんでそんな時間まで残ってんだ!?」
そういえばヒグレはいつも七時過ぎには消えているな。
「消えてんじゃなくて帰ってんの! 残業するほど仕事溜まってねえだろうがよぉ」
「? でもタスクはあったら片付けたくない?」
「これだから不健康優良児はよ……」
一種の諦念を浮かべ、ヒグレはうどんを啜る。ちょっと汁を吸ったうどんが汁の色に染まっているのが美味しそうだ。
音を立てて麺を啜る文化は海外にはないと聞くが、何故なのだろう。はしたないからとか聞くけれど、聞いていて心地よいし、清々しくないか?
という少し現実逃避気味な思考に入った僕の耳に、伊東さんの落ち着いた声がするりと抜ける。
「なるほど。幸志さんの言う『不健康優良児』の意味がなんとなくわかりました。佑さんには適切ですね」
「そうでしょ? 我ながら上手いこと言えたと思うんす」
「褒めてないですよね? たぶん」
「ええ」
はっきりした物言いをする伊東さん。それが彼女のシゴデキ人間としての美徳。これが世で言うサバサバ女子というやつ……という妙な関心を得つつも、心に謎のダメージが蓄積される。
そんな僕の心境はつゆも知らないのだろう。伊東さんは続ける。
「佑さんは業務もきっちりこなしていますし、外回りでも対応が丁寧と評判です。急ぐような業務が残っていないにもかかわらず、残業が続いており、残業時間が伸びている」
「……」
「その顔は常葉課長補佐からも同じ話をされた様子ですね。繰り返しになりますが、反復することに損はありませんので重ねましょう。
疲労の蓄積によるパフォーマンスの低下が残業時間の増加に繋がっていると見ています」
伊東さんからの宣告は僕の予想通りのものだった。
つまり、人事部から話が行っていたから、常葉課長補佐は僕にあんな話をしたのか。もしかしたら、前から指摘はされており、話を振る機を伺っていたのかもしれない。
「我が社は俗に言うところの『ブラック企業』ではありませんし、今後そうなるつもりもありません。給与に見合わぬ労働を社員に強いなければならないくらいなら、社を畳むのが世のため人のため、という方針は社長自らが仰っています。
だから、そもそも社員に無理や無茶をしてほしくないのです。自身の健康管理は社会人なら自分で行うもの。それは確かに真っ当な意見です。ですが、疲れきった人間はそこまで気が回らない。元々の性質として、自身に過剰労働を強いてしまうタイプの人間も存在します。正に、佑さんのように」
「そうですかね」
「そうだろ。お前がそうじゃなかったら、人類のほとんどが怠惰ってことになるぞ」
「幸志さんの例えはともかく、私や常葉課長補佐も業務処理速度は社内では速い方とされておりますが、平均残業時間は四十五分ほどです。弊社の定時はご存知ですか?」
圧のない淡々とした語り口だが、四角四面な言葉遣いが、強さを醸している。これはたぶん、常葉課長補佐から、僕が定時を把握していなかった話も行っているかもしれない。
「六時半と聞きました」
「そうです。けれど、仕事に真摯な佑さんの姿勢は尊敬できますし、そのメンタリティを崩そうとは思いません。ですので、提案したいのは、残業を減らせというより、仕事以外の楽しみを見つける、というものです」
伊東さんは告げると、オムレツの真ん中に箸を入れた。丁寧に箸でつまみやすい大きさに切ると、その一つを持ち上げる。
具材が入っているタイプのオムレツのようで、ベーコンやたまねぎらしき具材が見える。わりとごろっとした感じなので、口に入れたら、食感が楽しいことだろう。
「それで、食事なのです。……幸いにして、佑さんは食に関しての拘りや興味関心は深い様子。この部分を探求して、心の拠り所にできたら、仕事に際しても心の余裕が生まれるのでは、と考えました」
別に、余裕がないから仕事ばかりしているわけではないつもりだが……食に関する興味関心が僕の中にあるのは確かだ。
「食は好みの追究ですし、自分探しとか、そういうぼんやりした理由でもいいです。仕事以外にも執着できることができれば、新しい視点を得られていいのではないでしょうか? そのために、社員とコミュニケーションを取り、おすすめを共有する。その手始めに、私のおすすめはいかがですか?」
切り分けたオムレツの一切れとサラダチキンの一切れを小皿に分け、伊東さんが差し出す。
特に断る理由もない。押しつけがましくも感じなかったため、素直に受け取った。隣の芝生は青いというが、確かに見ていたら食べたい気もしていたのだ。
「お箸もどうぞ。一つ余分にもらっていたので」
準備のいいことで。
僕は手を合わせ——そういえば、ごちそうさまは欠かさないのに、こちらは忘れていたことに、ふと思い至る。
誰も気にしない、省みないような些細なことかもしれない。けれど、噛まないように、丁寧に、その言葉を紡いだ。
「いただきます」
黄色く艶めく卵。その中にはベーコン、グリンピース、たまねぎが入れられているようだ。ベーコンのしっかりした存在感、グリンピースの弾ける感じ、卵の食感に溶け込みながら、卵とは異なる甘味をもたらすたまねぎ——ありきたりな表現にはなるが、見事なバランスのハーモニー。
卵の味つけはたぶんあまりされていない。ベーコンの塩気とたまねぎの甘味でバランスを取っている。卵の包容力が、二つの味を喧嘩させずに調和をもたらしているのだ。さすが主婦の味方と呼ばれる食材である。
続いて、サラダチキン。繊維質なこれは、笹身だろう。箸で切るのは難しいので、がぶりといかせていただく。
あ、ハーブと胡椒の香り。すっと鼻を抜けて、清々しさと爽やかさが胸を満たす。笹身ってパサパサしているイメージがあったけれど、ほどよくジューシーで充実感が抜群。伊東さんが添えてくれたサニーレタスと一緒に食べると、サニーレタスの苦味がいいアクセントになって、もう一口欲しくなる。
これはコーヒーが進む。
「いや、そこはご飯食えよ」
「パンもいいと思いませんか?」
何故かヒグレと伊東さんの間に火花が散り始めるが、触らぬ神に祟りなし。食事を続けよう。
パンと言えば、今朝買ったBLTサンドを持ってきていたのだった。開けよう。
このコンビニのサンドイッチでしか味わえない、どこか無機質なようでいて安心感のある小麦の香り。わかる人いるかな。なんて思いながら、一切れ目を頬張る。お、こっちのベーコンは大きめのスライスだからか、塩気より肉の味がしっかりしているかも。
そして、ドレッシングのわさびマヨネーズ。わさび独特のぴりっと感と鼻に抜ける辛味。油断すれば病みつきになりそうなレベルのクセの強さ。嫌いじゃない。
トマトの瑞々しさが、ちょっと乾いたレタスとマッチしているのも非常に良い。
美味である、とちょっと噛みしめながら、僕は黙々と食べ進めた。