僕はコーヒーが好きだが、こだわりがあるわけではない。
どこ産の豆とかわからないし、コーヒーを豆から挽くなんてしたことはない。フィルターを使った淹れ方もしたことがなければ、カップの上に乗せてお湯を注ぐだけのドリップコーヒーすら飲んだことがない。粉のインスタントコーヒーしか知らない、コーヒー界から見れば、ぺらっぺらのぺーぺーのど素人だ。
だから香りがよかろうとよくわからない。喫茶店でコーヒーを頼んだ経験は少ない。そもそも、喫茶店に行かないので。
だから、ウインナーコーヒーなんて見るのも初めてだ。クリームが乗っているコーヒーというのは知識として知っていたが、クリームとは熱で溶けるというのも知っていたため、決して手を出すことはなかった。熱で溶けたクリームはなかなかグロテスクな様相を呈することがあるのを知っていたからだ。
妹が真夏の生まれなのだが、冷蔵を忘れて放置されたショートケーキの惨状たるや……未だ笑い話にできないレベルの悲惨な事件である。
熱で溶けたクリームというものに忌避感を抱いていた僕が、ウインナーコーヒーを見て真っ先に思ったのは、「意外と見てくれは大丈夫」ということだった。
案外としっかりクリームが搾られていて、薔薇の花みたいな綺麗な形に整っている。少しこんもりとして飲みづらそうではあるが、これはもしかして、スプーンで掬ってクリームを食べてしまうのも許されるのでは?
ティースプーンでクリームを掬う。コーヒーという熱源の上だからか、通常のクリームよりも柔らかく、ふんわりとした感じだ。口に含むとミルキーな香りが広がる。甘味はあるが、ほんのりとしていて、ケーキやお菓子などに使われる生クリームよりは結構控えめな印象だ。
コーヒーの苦味が好きなので、甘さ控えめなのはありがたい。
クリームの厚みが減ったところで、カップに口をつける。これはたぶん、口髭がついてしまうやつだ、とは思ったが、おてふきは準備してあるので問題はない。
コーヒーの濃厚な香りと味をクリームが優しく包み込んでいる。……胃に優しそうだな。
「……美味しい」
「だろ? はは、口髭」
「む」
ヒグレめ、妙なところで目敏い——なんて思いつつ、おてふきで口元を拭う。何事もないように振る舞えば、恥ずかしいことなんて、何もないのだ。
ヒグレはというと、肉うどんを食べていた。肉が乗っているだけかと思ったのだが、どうやら牛蒡も一緒に炊いてあるらしい。
赤みの強い茶色の湖面から太めでコシのありそうなうどんが垣間見えつつ、肉と肉の脂が染みた牛蒡が浮かび、揺蕩っている。肉から出たのであろう脂がスープに広がる様は食欲をそそるものだ。
「しぐれ煮か?」
「んや? 甘めのつゆではあるけど、煮詰めたって感じではないかな? 味も濃くないし」
「意外と体にいいもの食べてるんだな」
「お前は俺を何だと思ってんだよ……」
「元気っ子」
「おお、おお、お前に比べりゃ誰だって元気っ子だろうよ、この不健康優良児が!!」
褒めたはずなのに何故か怒られた気がする。解せぬ。
が、まあ、「不健康優良児」というのはヒグレしか呼ばない僕の渾名である。
「褒めてるのか貶してるのかわからない渾名ですね」
「あ、伊東さん。こんにちは」
クールビューティーな雰囲気の漂う声音と風貌で入ってきたのは、人事部の伊東
「小枝花さんちわっす!」
「ヒグレ、鼻の下伸びてるぞ」
「伸びてないって!」
反論しつつも鼻の下をこしこしと擦るヒグレ。それは伸びているやつのする仕草なんだよ。
伊東さんは声色の通りクールな雰囲気の美人さんだ。常葉補佐が明朗快活なタイプのバリキャリだとすれば、伊東さんはクールで物静かなタイプのバリキャリだ。人事部の顔と評されるくらいだ。かなりのシゴデキにちがいない。
毎朝駅のコーヒーショップで紅茶を飲む日課が持てるほどのスケジュール管理能力は、僕も見習うべきだろう。
で、とヒグレが僕と伊東さんを見比べる。
「何、ツキイデお前、小枝花さんと知り合いなの?」
「別に、同じ会社の人間の名前は覚えていて然るべきじゃないですか? 伊東さんは人事部でも窓口受付担当ですし」
「ツキイデ……?」
伊東さんが首を傾げる。
そういえば、普段ずっと「ツキイデ」と呼ばれているから慣れきっていたが、人事部に所属する伊東さんからすると、これは不思議な光景にあたるわけだ。
「すみません、眼鏡のあなたは営業部の
「はい、それで合っていますよ。こちらは同じ部署の日暮幸志っていうので、ヒグレ同士でややこしいから、部内では僕を『ツキイデ』って呼ぶようにしているんです」
「……なるほど。下の名前で呼ぶよりはある意味健全な習慣なのでしょうか。確かに佑さんの方の『月出』はツキイデとも読めますからね」
言葉の上では納得しているようだが、伊東さんの表情にはありありと「腑に落ちない」という気持ちが表れている。
まあ、「イトウ」という苗字はヒグレよりありふれていて、二通りメジャーな書き方があるが「イフジさん」や「イヒガシさん」と呼んだりはしないだろう。
「佑と俺はこんくらいちっちゃい頃から一緒なんで、昔っから『ヒグレ』と『ツキイデ』って呼びわけられてきたってのもありますね」
「そんなに小さかったことはないぞ。クリオネか?」
人差し指と親指で何かをつまむように大きさを表現するものだから、思わずツッコむ。クリオネというのがツボだったのか、鉄面皮に思えた伊東さんが破顔し、僕とヒグレは顔を見合わせる。
ヒグレはすぐに面白がって、身を乗り出した。
「こいつ、面白いこと言うでしょ? ツッコミが冴えてるってより、天然が強いんすよ。人から絶妙にずれてる感じで。そのずれ加減が変なツボに入るっていうか、クセになるっていうか」
「……他者から自分の心境をこんな的確に表現されたのは初めてです。そうですね。真面目で勤勉な佑さんの印象からは想像もつかないユーモアに富んだ言葉選びに驚いてしまいました」
でしょー、と得意満面のヒグレ。いや、なんでお前が自慢げなんだ。
ユーモアに富んでいるなどと言われたのは初めてだ。伊東さんはともかく、ヒグレの方は口振りから想像するに、僕との付き合いの中で結構な回数、ユーモアを感じたことがあるらしい。どういうことだ。
「そんなにですか? 面白いことを言ったつもりはないですが」
「狙って言ってないから面白いんだろ? つーか、面白いことを狙って言おうとしてるやつの発言ほど白けるもんもないぜ?」
「同感です。古今東西親父ギャグの底冷えがひどいのはそこが原因かと」
「辛辣っすね……」
ばっさりと斬る発言に、ヒグレは顔をひきつらせる。親父ギャグが好きなタイプのいつまで経っても心は小学生男児なヒグレには、響くものがあったのだろう。
そんなことより、僕はずっと気になっていることがある。
「伊東さんのそれは……」
「ああ、レディースランチですよ。今日はオムレツとサラダチキンのプレートですね」
伊東さんがテーブルに置いたトレイはヒグレや他の社員たちが置いている緑のトレイではなく、焦げ茶色のトレイだ。どうして色が違うのかと思っていたが、レディースランチ、と。
「……レディースランチとは?」
「アシスタントAIに話しかけるノリで俺を見るなよ」
つまりヒグレはこんな感じでアシスタントAIに話しかけているのか、というのはさておき。レディースランチというのは何なのか。
「ああ、殿方には馴染みのない言葉でしたか。レディースランチというのは文字通り、女性向けのランチメニューのことです。今の時代、性別を区別する形容をつけると口うるさい輩が無数に湧きますが、この場合の『レディース』は『女性向けに量が少なめ』とか『女性が食べやすいようにヘルシー志向』とかそんな感じの意味です。
男性は頼めないってレディースランチも当然ありますが、ジェンダーフリーの呼び声もあってか、今は男性が頼んでもよいとするレディースランチも増えてきているようですよ」
ほんとだ、とスマホを弄っていたヒグレが声を上げる。
「男だと追加料金取られる場合もあるみたいだけど、あるな」
「へえ」
「ちなみにこの食堂は阿笠さんに言えば、男性でも頼めますよ、レディースランチ」
だが、わざわざ「レディース」とついているものを頼むような胆力は僕にはない。興味はあるが。
「私は佑さんのような方におすすめしたいですね、レディースランチ」