七時二十八分。「常葉文具」営業部事務室着。
新人の加藤さんが、僕と常葉課長補佐の姿に驚いて、それから慌てたように「おはようございます!」と残し、給湯室へ去っていった。
社会人の習わしというか……朝のお茶汲みは、大抵新人がこなす仕事だ。別に気づいた人がやればいいと僕は思うけれど、事女性陣はお茶汲みに関しては相当気を配っている様子なので、無理に反論することはない。
加藤さんはとてもいい人だ。いつも行動におっかなびっくり感が伴っているけれど、声が大きく、発言がはきはきしている。コーヒー派の僕が唸るレベルの美味しいお茶を淹れてくれる。
時々、お菓子を買ってきて、午後三時のおやつとして配ってくれるのだが、そのチョイスもなかなかに乙だ。おやつによって茶葉の量とか、蒸らし時間とかを変えている、細やかな気遣いの光る人で、この人本当に新人なのだろうか、と思う。ちなみに新卒らしい。
課長補佐は所謂「お誕生日席」にあたる課長の席の一つ手前の椅子を引く。きい、と独特の軋みを聞くと、今日も出社したなぁ、としみじみした。
「で、課長補佐は今、一人暮らしなんですか?」
「ええ。武者修行って感じかしらね。こう……コネでキャリアアップしたとか思われたくないじゃない」
「真面目ですね」
僕はパソコンを起動する。リンゴに似た形の電源マークが青く点滅すると、液晶が瞬いた。手早くIDとパスワードを打ち込み、ログインする。
今日のタスクメモをチェックしていると、常葉課長補佐が溜め息を吐く。
「ツキイデくんほどじゃないわよ。ツキイデくんはぱきぱきしていて、仕事を回すのがとても上手い。気づけばちゃんとやることを見つけてやってるし、手が止まってるのを見たことがないわ」
「褒めても何も出ませんよ」
「働きすぎと言っているのよ」
あれ、褒められているわけじゃなかった?
予想と違ったことに驚いて、思わず手を止める。振り向いた僕の額を、課長補佐はぴん、と弾いた。目立たないとはいえネイルをしているからか、痛い。
「本当に少しずつだけれどね、ツキイデくんのパフォーマンスは落ちてきているの。最近定時で帰れてないでしょ?」
「定時で帰ってないのは、随分前からですが」
「それもそれで問題なのよ」
課長補佐がこっちに来なさい、と僕を手招く。招かれるままに、課長補佐のパソコンを覗いた。
そこにあるのは数字の刻まれた表だ。時刻表かと思ったが、どうも違う。課長補佐が僕の名前の横のナンバリングを押すと、僕の名前の行がマーカーで強調される。
そうして見れば、数字の羅列には見覚えがある。この表はどうやら、社員の一ヶ月分の退勤時間を記した表らしい。ウチはブラックでもなんでもないので、残業したら残業した分、ある程度の残業代は出る。そのための表だ。
僕の退勤時刻は軒並み午後九時台となっている。……まあ、これは確かに遅いのだ。
「定時って、確か七時でしたっけ」
「六時半よお馬鹿」
まあ、大抵は七時くらいまで居残るけども、と課長補佐は告げる。その言葉通り、表のほとんどは十九時以降の数字を刻んでいた。
新人の加藤さんなんかは、十八時台の時刻が多い。早く帰るなあ、とは思っていたけれど。
「普通は一日分のタスクを終わらせて、
大体五分もない変化なので、大したことないと思っていたが、一ヶ月前と比べると、退勤時間が三十分違う。
残業代は出るが、いくら大きな会社でも、給料に割けるお金は無限ではない。残業も加減しろということか。
「わかりました。これからは七時台でタイムカード切っとくんで」
「そうじゃありません。休みなさいと言っているんです」
「あて」
課長補佐はクリアファイルで僕の頭を叩いた。痛くはないが、反射的に言ってしまう。
「残業が長引くのは、仕事を処理する速度が落ちているからよ。そういうのを『パフォーマンスが落ちる』っていうの。このままじゃ、ツキイデくんのパフォーマンスは落ちる一方。いつか、これまで早め早めに回していたタスクに追いついてしまうかもね」
「それは良くないですね。もっと頑張ります」
「違うから! 休めって言ってるの!」
休むのは大事よ、と常葉課長補佐は続ける。
「残業時間を短くして、睡眠や食事、お風呂なんかもいいわね。そういう私生活に時間を充てなさい。いくら大丈夫なつもりでも、自分の理解と実際の体調は解離するものよ。それに、ツキイデくんのパフォーマンス低下は、残業だけの問題ではなさそうだし」
「残業以外、というと?」
できれば仕事する時間を減らしたくないので、淡い期待を込めた目を向ける。すると、常葉課長補佐は、デスクの引き出しを引いた。事前に語っていた通り、インスタントのスープのストックが出てくる。
それを僕に突きつけた。
「もう、もらいましたけど?」
「残業以外の問題点。ズバリ、食事よ」
僕が首を捻ると、常葉課長補佐は何度目かわからない溜め息をこぼす。そこに、恐る恐るといった様子で、加藤さんがやってきた。
携えたお盆の上には湯気の立つ二つのマグカップ。シンプルな青緑のマグカップは僕のだ。コーヒー独特の芳香が漂う。少しフルーティーな香りも混じるコーヒーは、一ヶ月ほど前から新しくなった銘柄のもの。僕はコーヒーならなんでも美味しいと感じるが、このフレッシュな感じはあまり自分では選ばないので、気に入っている。
もう一つのマグカップは課長補佐のもの。白いマグカップに、幼稚園児が描いたような四足歩行の動物が描かれている。結婚とかはしておらず、子どももいないはずの課長補佐だが、この手描き感は贈り物だよなぁ、と推測する。僕はこの生き物を「珍妙なネコ」と心の中で呼んでいた。
ありがとう、加藤さん、と課長補佐が微笑みを返すと、加藤さんはとても元気のよい返事を残し、ぱたぱたと去っていく。緊張していたのか、右手と右足が一緒に出ていた気がするが……歩行に支障がないならいいか。
課長補佐のマグカップの中では、緑の湖面が揺らめいていた。課長補佐は緑茶派らしい。
「……朝はコーヒーじゃなく、緑茶に変えろ、とかですか?」
「そこは個人の趣味嗜好でしょう? そこを制限するのは違うでしょう」
「では何を」
「カロリーフレンやゼリー飲料を『食事』と呼ぶことをやめなさい。朝が駄目なら昼を、昼が駄目なら夜を、平日が駄目なら休日を。少しずつでいいから、もっと豊かな食事に変えるんです」
「えぇ?」
「健康は栄養だけじゃ成り立たないの。例えば、食べ物を噛むという行為。これは満腹中枢を刺激する効果があるし、朝なら脳を覚醒させる役割も果たす。食べるという行為は味覚だけで完成するものじゃなく、香りや見た目でも満足感を得るものよ」
香りがよくても、見た目がよくても、腹は膨れないと思うが……まあ、コーヒーのいい香りがすると嬉しくなるとか、目玉焼きの黄身はピンクよりオレンジの方が気分がいいとか、そういう話だろう。
食べ物を噛む……カロリーフレンは固形物だから噛んでいるが、とよぎったが、それはきっと屁理屈と呼ばれる類のものだ。ゼリー飲料は噛むことすらしないし、確かに、噛むという行為の頻度は低いかもしれない。人はやらなくなったことからできなくなるというし、まだ三十にもなっていないのに、咀嚼能力が低下するのはいただけない。
「私が料理することを意外そうにしてたけど、ツキイデくんは? 料理はする?」
「できなくはないです」
「なら、目玉焼きを焼きなさい。卵焼きでもいいわ。何か一品、作って食べるように、朝の習慣を変えて」
「簡単に言いますけど……」
僕の言葉に、課長補佐は怪訝な顔をする。料理をできると言った人間が、こういう口ごもり方をすれば、訝しく思うのは、無理もないのかもしれない。
けれど、僕は料理ができないわけではない。
「目玉焼きや卵焼きって、拘り始めたら、いくら時間があっても足りないタイプの料理ですよ?」
課長補佐が、狐につままれたような顔をした。