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Grand Finale

 ……十年後。


 ニューヨークに建ち並ぶ摩天楼、うちひとつである数十階建ての最上階一室。

 社長室前の秘書室で老人が退屈そうに新聞を読んでいた。足は机の上に投げ出し、仕事らしい仕事はしていなかった。

 廊下から続く入り口ドアの開閉音はしなかったが、ふと、闖入者の気配を感じる。

「またか」秘書たる老人は顔も上げず、相手を予測して口を利いた。「何度聞いても同じだよ、フェルマーの最終定理なら忘れた。わしはもうただの日向の隠居ジジイだ」

 そう言った彼は、以前よりも幾分老け込んで老眼鏡を掛けたモーゼスだった。


 あのトリニティ実験のあと。彼は助かっていたが爆発の衝撃か放射線の影響かはたまた老化のためかは不明ながら、徐々に〝光輝の書〟の能力を亡失していき、もはやほとんど普通人と大差ない。ガブリエルの異能者への攻撃を無視できたことから、自身はそもそも特異能力者ではなく老いて記憶力が衰えただけと認識していた。

 にもかかわらず、未だにフェルマーの最終定理を始めとする彼が持っていたはずの稀少な記憶を確かめようとする来客はいる。そんな人間はたいてい、通常の客なら事前に連絡してくる警備を素通りして来れるOSSの後続組織――CIAの影だ。危険性があればここに到達する前に警備が始末するし、なければ通されるという手筈である。

 ところが、相手は遠い昔を呼び覚ますような声で応じた。


「フェルマーの最終定理なら、現在のところこの世界線でも二一世紀初頭に日向で再発見されますから。心配はしていません」


「……これは仰天だ」

 ゆっくり新聞から面を上げて、目を丸くしながら老人は入り口扉前に立っていた人物を確認。大声でさらに奥の部屋、社長室へと呼び掛ける。

「社長、みんな。信じられんが、わしがぼけていなければサンジェルマン伯爵の登場だよ」

 彼自身は初対面だが、そっくりな肖像画は知っていた。

 まさしく、無音で入室していたのはあの彼。サンジェルマンだったのだ。

 やはり全然老いない初老姿のまま、中世ヨーロッパの貴族風の身なりでいる。


 たちまち、社長室への両開きの扉が全開となった。

「え! 本当に本物? わたし、結局ちゃんと会ったことないからわからないんだけど」

 感嘆を表しながらまず顔を出したのは、ちょうど社長に仕事の報告をしていたアガーテだった。程よく歳を重ね、まだ美しさを誇っている。

 トリニティ実験の際。OSSの襲撃からアリスの助けでどうにか待避することができていた彼女は、付近の岩陰で鳴りを静め、いつ出たらいいものかと機会を窺っていた。そこに、デイビッドのテレパシーが届いて狙撃の援護を頼まれ、対応したのだ。

 そんなわけだから、彼女もサンジェルマンをまともに目撃したのは今回が初めてである。


「間違いないわ、本物よ。老化がないのがしゃくね」

 次いで不平と一緒に姿を現したのは、やや老いが見え始めた副社長のファニーだった。

「久しぶりじゃねえか」最後に出てきたのは、齢を重ねて逆に凄みを増した社長のモリアーティである。「あれ以来調整者の勧誘もねえからくたばったのかと安心してたぜ」

 社員たる彼らは全員、小綺麗で品のあるスーツ姿になっていた。今や大企業の従業員たちなのだ。裏では相変わらず影のマフィアだが、SMIはもうない。モリアーティが生存者を引き取った形だ。

 たちまち、サンジェルマン伯爵は懐かしい面々に囲まれることになった。

「お久しぶりですねみなさん」にこやかに伯爵は応対した。「わたしなりの事業も忙しかったので、再会が遅れて申し訳ありませんでした」

「やっぱり、あのときはあなたが助けてくれたの?」

 真っ先にずっと気掛かりだったことを尋ねたのはファニーだ。

「いいえ、みなを救ったのはコヨーテです」

 サンジェルマンが即答すると、モリアーティは掴みかからんほどの勢いで質問を重ねた。

「デイビッドが? あの野郎とアリスも無事なのか!?」


 しばし、全員が静まる。それも、マフィアたちが長らく知りたかったことだからだ。

 トリニティ実験のあと、モリアーティとSMIは爆心地からずっと離れた砂漠で目覚めた。ただ、そこにはデイビッドとアリス、サンジェルマンがいなかった。

 それでも彼らは憶えていた。

 あくまでマフィアだ。利益もなく世界を救うヒーローではない。あのとき努力したのは、テレパシーでみなに作戦を伝達したコヨーテが、爆発からの脱出手段ならあるとも明言していたからだった。

 もっとも全員がガブリエルへの恨みもあったし、この世が終われば困るという当然の事情もあったが。


「調整者たちもずっと捜索しているのですが未発見なので、こちらに参った次第ですよ」

 サンジェルマンはデイビッドについてそう答えた。

 一同が肩を落とした。重苦しい空気が満ちそうになったところで、モリアーティが冗談めかす。

「なるほどな、おれは調整者に振られたわけだ」

「どいうことです?」

 アガーテはいまいちジョークの意味を解していなかったが、ファニーは察した。

「……そっか。あの状況でみなを助けたってことは、もしかして……」

 伯爵は明かす。

「ええ、わたしも含めて救出したのです。神を相手に宇宙で戦っていたわけですから、平凡な異能者ではあんな芸当は不可能でした。彼は成長を続け、土壇場でSSランク以上への壁を突破したのでしょう。当然アリスは真っ先に保護したはずです」


 話したいことは山ほどあったが、そのあとの彼らは社長室に入り、普通に再会を祝うことにした。

 仕事、日常、世界情勢……。様々な話題で盛り上がり、モリアーティはふと故郷シチリア産の秘蔵のワインを持ち出そうと奥の私室に入った。

 彼がそこから帰った一瞬。

 マフィアたちの視線が大ボスに集中し、全ての視界からサンジェルマンが外れた。

「……たく、忙しい野郎だぜ。せっかく年代もん開けたのに、酒くらい飲んでけよ」

 コルク抜きでワインの蓋を開封していたモリアーティは、来客がいたはずのソファーに向けてぼやくはめになった。

 仲間たちもそれで初めて気付いた。

 さっきまでいたサンジェルマンはいなくなっていたのだ。

 彼らの囲む大テーブルの上には〝急用ができましたので、これにて失礼します〟との置き手紙だけが残されている。


「じゃが」モーゼスはそれでも安心したようだった。「明るいニュースが聞けて良かったよ。デイビッドは無事かもしれん、もちろんアリスも」

「ええ、ヨハンナも喜ぶかもね」

 ずっと消息不明だった仲間の情報が入ったことで、アガーテも心から同意した。

「ボス、わたしたちでよければ祝杯にお付き合いしますよ」

 提言したのはファニーだった。

「へっ、しょうがねえ家族だな」

 呆れつつも嬉しそうに、モリアーティは提案に乗った。

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