街の模型の中心で、SMIのビルが倒壊した。
「いよいよだな」
それを南西に十マイルほど離れたベースキャンプから双眼鏡で確認し、軍服の男は言った。
彼の周りには他にも軍人や研究者たちがおり、同じ心情で状況を遠目から見守っている。ただし彼らの観察する視点からは街並みなどなく、ただ荒野に鉄塔が建っているだけだった。
時刻は、朝陽が辺りを照らしだした午前五時頃を迎えていた。
SMI本部が崩れ去った瓦礫の山。咳き込みながら、衣服ごと人の姿に戻ったデイビッドは、四つん這いになってビルの残骸を退けて出てくる。
「げほげほ。い、いったいなんだったんだ。ガブリエルの催眠か?」
「あなたも、体験しましたの?」
やや離れて、やはりうつ伏せから辛うじて上に積もった瓦礫をどけて上体を起こしたヨハンナが応じた。彼女も、着衣ごともう人間に戻っている。
二人とも、崩落する本部に巻き込まれながらも共通の幻視を得ていたのだ。
サン・ジェルマンに触りを聞かされた程度に過ぎないはずの、ウィリアム・ガブリエル・リンドバーグの人生。おおよそ子供時代から、つい最近に到るまでの経歴を。
「経験してもらえたのなら、此度の実験も成功だ」
東海岸訛りの残る発声は、爆心地の中心から聞こえた。
「OSSはジョルジュゥを回収、ここを捨てて逃げたようだが。君らがいれば結構。これほど簡単に催眠が掛けられるなら、世界中の人間に老生の生涯を披露するのも容易だろう」
瓦礫山の頂上でしゃべっていたのは、賢そうな老人だった。
長い顎ひげと同色な白い頭頂部が禿げた髪、白衣を纏い、眼鏡を掛けていた。皺だらけの顔からは想像しがたい姿勢のよさで、アリスを姫のように抱いている。
少女には意識がなさそうだったが。
「てめえが」
ヨハンナとそろって彼を見上げて身構えながら、デイビッドは吼えた。
「腐れ堕天使のガブリエルだな、アリスを放しやがれ!」
「ご静聴いただきたいね」
老人の注意で、デイビッドはしゃべれなくなった。ヨハンナもだ。
「いかにも、老生がガブリエルだよ」
名乗った老人は、少女を足元に横たえる。
「君らと違って受身をとる余裕がなさそうだったから救助したまでだ。ショックゥで気絶したようだが、なるべく冷静に壮図を聞いてもらいたいから手出しはせん」
彼がアリスを下ろすために屈めていた上半身を戻したとき。砂塵を散らしてデイビッドとヨハンナは消えていた。
「やれやれ」
ガブリエルは伊達だった眼鏡を捨て、後ろで手を組んで呆れる。
本部ビル残骸のあちこちで破片が弾けた。何かが、視認できない速度で動いているのだ。それは目前でも起きる。
アリスの寝姿はなくなっていた。
「ひとまず回収か。あとは?」
老人が問うと。
瓦礫の小山は、全体が噴火のように爆散した。
建物自体の欠片どころか、土砂の雨が降り注ぐ。一帯は、地面ごと根こそぎ掘り返されたのだ。
もはや瓦礫山があったところは、大きなクレーターへと変じていた。
そこには誰もいなかったが。
若干の間をおいて、変身したコヨーテとバビロンが大穴外周の一部に並んで現れた。アリスは付近のどこかに隠してきたらしい。
「いやな予感しかしねえが、やれたか?」
肉食獣が確認する。
「直撃はしましたわ。ただの催眠能力者なら確実に死んでいるでしょうけど、あなたも気づいていますわよね」
大淫婦が答える。
「だな」コヨーテは同意せざるを得ない。「あいつは、んなもんじゃない」
人外となり、人知を超えた移動力でアリスを奪還したのち、二人併せた単純な破壊エネルギーのイメージで本部ビル跡地ごと敵を吹き飛ばした。
はずだ。
「気が済んだなら、抵抗もやめることだな」
頭上から響いた声に顔を向けた刹那。コヨーテとバビロンが、今度は身動きを封じられた。
クレーターの上空にガブリエルが浮いていたのである。
「単なる睡眠じゃないのは明白だろう」
SMIが予期したことを、老人は自ら明かす。
そもそもの問題だった。ただの催眠能力が、ビルを崩すことなどできるはずがない。
「異能とは何か、老生はただの個性だと思うね。似たものはあっても、完全に一致したものはない。それが個人の精神を軸に発動するのが確認されているんだ」
彼は、やおら降下してくる。
「されど、他者の精神に作用する異能もある。幻覚、念話、老生は催眠だ。相手に事実を誤認させる、SSランクという強力なものだ。どうなるかわかるかね?」
ついに、クレーターの真中に着地して誇った。
「精神が異能を生成し、精神を誤認させる。つまり、老生は知覚範囲にいる他者に、本人が自覚できないほどの一瞬〝ガブリエルはこういうことができる〟と妄信させられるんだよ。君らは無意識に、老生が使ったかのように自分の能力を提供してしまうのさ」
ようするに、ガブリエルが催眠以外でできているように錯覚する異能は、実のところデイビッドとヨハンナが無自覚にそれが彼の才だと思い込んで自分たちで手助けしてしまっているということだろう。
およそどんな異能にでも変換できる二人だからこそ、ガブリエルが同等にどんなことでもできるようになってしまうわけだ。
「冗談じゃねえ」
どうやら対話は許されているらしいと、発声して初めてコヨーテは自認した。
「可能なのだから仕方がない」悠揚迫らぬ態度でガブリエルは断言する。「実験済みだからね」
SMIに流し込まれた彼の追憶が蘇る。ツングースカ大爆発にフィラディルフィア計画、あれらもそうして実現したということなのだろうか。
「また実験ですのね」老人によって強制的に人に戻されながらも、ヨハンナは吐き捨てる。「そんなにしてどうするというんですの。人類を滅ぼすというあなたの幻想と関係するとでも?」
「無論だね」
ガブリエルは、歌劇のように嬉々として高言する。
「やっとまともな質問をしてくれたな。その若さで上を目指す心意気、異能者として著しく成長してきた君らはSMIでのお気に入りになったのでね。ぜひそばで世界の終わりを見学していって欲しいんだよ。だから完全に操らないでもやってるんだ、感謝したまえ」
「てめえが厄介なのは理解したが」やはり人間の姿に戻されながら、デイビッドは問う。「どうやって絵空事を実現するってんだ。まさか、おまえに世界を滅ぼせる力があるって信じさせることでおれたちにさせるのか?」
「さすがにそこまではできんな」
残念そうに、ガブリエルは教授する。
「君らにはない力量だし、宇宙調整者も邪魔をするしね。精神とは、個々の異能を機能させるためのごく微弱なきっかけ。発火器具のようなものだ。日向でも運動や勉学の天才が才能を発揮するには、まず精神でそれらをしようとしなければならないのと同じことさ」
なのに、フィラデルフィア事件は大規模な影響をもたらしていた。ツングースカ大爆発に到ってはさらに強大そうだった。
さっき流入されたガブリエルの記憶から、先に推測を導いたのはヨハンナだ。
「……知覚範囲外の精神も利用する気ですの?」
「正解だ」
彼女を指差して、老人は嬉しそうに種を明かす。
「かつての同僚ニコラ・テスラは、距離によって減退せず光速度不変の法則に囚われない電波、〝テスラ波〟を発見した。老生は彼の協力でそいつを操縦できる装置を開発してね」
ガブリエルはツングースカ大爆発の件でテスラと揉めていた。レスタトともそんな会話をしていた。あれがテスラ波というものを使ったがためだとしたら。
SMIは青ざめた。
距離も速度も関係ない。本当だとすれば、宇宙中のどこへでも瞬時に送れる電波ということだ。
「……おい」デイビッドは最も嫌な予感を口にせざるを得なかった。「ひょっとして、そこにてめえの異能を乗せるとかいうんじゃないだろうな」
「まさしくその通りだよ、コヨォーテ」
戦慄する敵対者を差し置いて、ガブリエルは謳歌する。
「異能を送受信できる〝テスラ波発生装置〟を老生は発明した。これを作動させることで、瞬間的に世界中の全人類が催眠にかかり世界の滅亡を盲信する。そのイメージに合致する形で利用できる異能はテスラ波を通じてこちらで受け、日向の一般人も理想に相応しい能力者へと強制的に覚醒させ同様に活用する。かくて現実化するのだよ」
彼は、十字架上のキリストでもあるかのように両腕を真横に伸ばした。各々の指が正反対の方角を指差している。
とっさに、SMIの二人も両側を確認した。
町の模型の両端に、いつの間にか鉄塔が建っているのだ。どちらも、ちょうどSMI本部ビルと同等の高さだった。
外見的には巨大なテスラコイル。円盤を乗せた円筒状で、双方の上部から放たれた稲妻がちょうどガブリエルの頭上で衝突している。
これまでは催眠で隠されていたのだろうそれらの光景を仰ぎ、死の天使は歌劇のように謳った。
「SMIのビルは稼動スイッチだよ。あれが倒壊したことで装置を動かす電流を邪魔するものがなくなり、カウントダウゥンは始まったんだ」
言われてみれば、電撃が衝突している辺りはさっきビルに阻まれていた空間だ。
「んなことのために――」
内心震えていたが、隙を窺いたくてデイビッドはあえて気丈に振る舞った。
「こんなミニチュアまで用意したってのか? ずいぶん暇な爺さんだな」
「いいや、日向的には爆弾の効果をある程度知るためだよ」
バカにしたように、ガブリエルは訂正する。
「日向でも極秘だが、ここは新型の〝原子爆弾〟というものの世界初の実験場でもあるんだ。老生は応用させてもらっただけさ。
人類史上初の核実験、トリニティ計画。
この名称の正確な由来は不明で、実験場であるロスアラモス研究所の所長ロバート・オッペンハイマー博士は自身が愛好するジョン・ダンの詩から引用したものとしていたが、自分でさえよくわかっていないらしいことを後に証言している。