異能が解かれ、コヨーテの肉体がただのデイビッドに戻っていく。抵抗しようとすればできたが、気力が沸かない。
円陣で包囲したSMIが様々な銃口を向けてきた。
デイビッドの瞳は、戦場を冷たく俯瞰するアリスしか映していなかったが。
いくつもの修羅場をくぐってきた。何人もの仲間にも裏切られ、女にも捨てられてきたはずだった。なのに。
「おれは、なんて……」
「弱い男ですのね」
周りにいたゾンビたちは粉微塵の肉片と化した。
先を口にした女性の仕業だった。ビルの裏手側の通りを歩いてきた彼女は、女教皇。
ヨハンナだった。
降り注ぐ血肉の雨の中で悠然としている。
吹っ飛んだそれらに混じった骨が、猛烈な勢いで本部ビル一階の窓ガラスに叩きつけられて染め上げ、ついでに粉砕した。
散らばったガラス片で頬に傷を作りながらもヨハンナは微動だにせず、むしろ比較的大きな一片を手の平を裂かれながらもキャッチする。
「デイヴ。わたくしが、情けないあなたに代わって未練を断ち切って差し上げますわよ」
茫然とするデイビッドの前で、彼女はガラス片に写る半透明な自分に対面する。
――我々が〝禁書〟だ。
数日前。深夜のバチカン、サン・ピエトロ大聖堂内。
全員が満身創痍の中辛うじて立つヨハンナへと、どうにか意識を保っている最期の検邪聖省は白状した。
「異能を無効とする我々を制すること。即ち、ランクの壁を突破する禁呪」
重傷で片膝をつきつつも冷めた顔で見下ろす尼僧へと、検邪聖省は皮肉を込めて宣告する。
「おめでとうヨハンナ。このままうまく成長すれば、君はSSSランクの化け物たちと係わらねばならないかもしれません。第二の死へと誘われるでしょう」
腕を伸ばし、彼は血の手形を無表情の女教皇の頬に刻印しながら祝福した。
「神のご加護があらんことを。アーメン」
「〝大淫婦バビロン〟!!」
小雨となった明け方の中。現在、ヨハンナは唱えた。
異端審問官を破った手段を強化したもの。鏡面に住まう自分自身に、女教皇を掛けるという荒業。
こうなった彼女は、単純に怪物化しての身体能力の向上と共に、自身の脳裏にあるものを現実化する能力を得る。女教皇で変質させた上でそれを成す二重の負担を経るので、その範疇は通常時のコヨーテ・トリックスターと同等に限られるが。
ともあれ、把握している知覚範囲の既知なる異能を無効にするという検邪聖省のインクイジターを超えるため、彼女はイメージトレーニングだけはしていたものの実践したことのなかった最後の手法を用いた。よって勝利し、経験からさらにラ・パペッサの効能を最大限に高めるべく編み出したのが、バビロンなのだ。
たちまち、ヨハンナは黄金と宝石で飾り立てた赤紫の衣をまとい、金色の杯を握る怪女に変じた。
さらに足元からは、十本の角と七つ頭のドラゴンに似た緋色の獣が出現。そいつに跨って垂直のSMI本部ビル壁面を駆け上がりだす。
彼女自身が抱く最強のイメージを女教皇で己の現実としたもの。ヨハネの黙示録において終末に現れるともされる、大淫婦バビロンだった。
「やめろ、ヨハンナ!」
一連のショックでようやく気を取り直し、デイビッドも再度コヨーテとなり追尾する。
頂上から常軌を逸した出来事を観賞するジョルジュは、敵たちの異能に戦慄していた。
ものの、コヨーテがバビロン獣の後ろ足に噛み付くと安堵を顔と声に出す。
「な、なんだ仲間割れか。驚かしやがって」
さらに振り返った。
「おい、SMIども」
屋上に召集したメンバー、及びLJを通じて全ゾンビに命じる。
「おれは距離を置くことにする。あいつ等が双方充分に弱りきった段階で組み付け。貴様らの肉団子で包み込んだら、あとはOSSに任せる。証拠隠滅までのタイムリミットも近いからな」
とりあえず、SMIの精鋭たちを一時的にでも行動不能にさえできればOSSが合格としてくれるという約束だった。
千里眼の異能者を通じてだかなんだか知らないが、とにかく遠くから観察しているはずなのだ。とどめだけは、連中が刺してくれるという。
この土地は本来アラモゴード爆撃試験場の一部、米軍の実験場なのだから。彼らの死体を回収したなら、諸々の形跡を抹消するための強力無比な新型爆弾が日向の試験を兼ねて起爆される手筈だ。
「退散するぞアリス、幻覚で隠せ。移動に適した人員は撤退を手伝え」
命令して、彼は片手でアリスを抱き寄せた。
つもりだった。
「残念」断ったのは、彼に抱き寄せられたバビロンだった。「強引な誘いは嫌いですの」
「てめえを送るとしたらそうだな」もう一方の手を噛んでコヨーテが吼えた。「地獄が適当か」
「なっ! 貴様ら」
両脇から怪物たちに拘束され、ジョルジュは喚いた。
「どういうことだ、いつのまに!?」
さっきまで立っていたはずの、周囲のゾンビは全滅して倒れていた。ただ一人、真ん中に立つ小さいが生気のある肌のSMIが教える。
「あたしが、裏切りを裏切ったからだよ」
アリスだった。
「こ、小娘、いつからだ!?」
「恋は女を変えますのよ」
ジョルジュの叫びにヨハンナが答える。
問題の少女は恥ずかしそうながら、まもなく同意した。
「そ、そんなところだよ。……暴力だらけの環境に放り込んでおいて、勝手にみんな死んじゃったろくでもない世界は確かに壊したかった」
まさしく、アリスの望みはかつてぼんやりと口にしたもの。当初はSMIを含む裏社会への復讐だった。
彼女に早くから目をつけたガブリエルが、SMIをごまかすのに協力をすれば共にマフィア社会を滅ぼしてやろう、と勧誘していたのだ。
しかしデイビッドに出会って恋をした。さらに彼らと行動するうちに考えた。
果たして自分が憎んでいたのはマフィア組織だったのかと。ならばなぜその一員たるデイビッドに惚れたのかと。
実のところ、マフィアもマフィア以外も関係なかったのだ。憎んでいたのは憎むべき人の行いだったのだと気付いた。
恋した相手、新たに出会った友人たち、それを裏切ってさらに一人ぼっちになってどうするのか。ガブリエルはただ憎悪を焚きつけるだけで、アリスに愛情など注いではくれなかったというのに。
「おれたちも全容を耳にしたのはここに来る直前、LJのテレパシーでだがな」
補足はコヨーテだ。
テレパシーも、結局脳内での情報を通常の手段以外でやり取りする異能である。脳の感覚にワンダーランドの幻覚を混入させれば、交信内容も改変できる。紅い眼の死神は相手の心境さえ盗聴して警戒していたが、さっきのデイビッドの絶望などすらも偽造や演技だったわけだ。いくらかは、本心も漏れ出ていたかもしれないが。
「わたくしの女教皇も加味すれば、現実自体も誤認しますしね」
加えたのはバビロンだった。
始まった段階から勝負になどなっていなかった。半分偽りの戦場を上映している間に、デイビッドとヨハンナはSMIのゾンビを全滅させ、こうしてジョルジュを捕らえたのだ。
「さて、ジョルジュ」
コヨーテは唸る。
「てめえにも同僚を殺した礼はするが。このクソ計画に係わったOSSとガブリエルに関する情報をゲロすれば、利子はなくしてやるぜ。ほんの僅かにだがな」
いつしか雨は上がり、雲の傷口から朝焼けの晴れ間が覗いていた。
「くそったれ!」
ジョルジュはもがき、絶叫する。
「おれこそ白人共に取り入る振りをしつついずれ寝首を掻き、蔑ろにされてきた黒人たちを救いハイチを偉大な国にできるのに! デュヴァリエなぞいずれ祖国を不幸にする、奴は死神に憑かれてるんだ!!」
「――吼えるなよ」
これまで、そこには存在しなかった何者かが叱った。
「行儀が悪いぞ」
元からそこにいた人員のうち、正体を悟ったのはこの音声を耳にしたことのあるアリスだけだった。
「ガブリエル!!」
瞬間。SMI本部頂上が爆発。
爆炎は連続し、ビルは上から叩き潰されるように粉砕された。
……ずっと後のこと。
OSSの後任CIAはジョルジュの敗北によって、ハイチにおける反共の砦をもう一人の候補に絞った。
フランソワ・デュヴァリエという男である。
彼と影で鎬を削っていたという邪術師オーギュスト・ジョルジュは権力争いに負けたようだが、足取りは長らく不明のままだった。
やがてデュヴァリエが独裁者としての頭角を現し、ブードゥーの死神ゲーデの扮装をして国民を拷問や虐殺などで支配する悪政を始めた頃になって、ジョルジュは意外な形で目撃されることになる。
デュヴァリエの組織した秘密警察トントン・マクートの一員として、彼がいたというのだ。
もはや眼に生気はなく、まるで死体のようであったそうだ。そう、ゾンビのように。
やがてデュヴァリエの死と共にジョルジュも死んだとされたが、以降彼の行方は不明であり、全ての謎は影社会の彼方に葬られた。