「ごくろうさま」
SMI本部の自室で、ファニー・マクラウドはデスクからねぎらった。
「今回の一件はもういいわ。吸血鬼の方面からはこれ以上真相に迫れなそうだし、〝別なつて〟ができたからね」
述べて、机上の報告書に手を置いた。
「読みやすかったわよ、表現は過激だけど。教会で働いてただけのことはあるわね」
報告書の提出者はデイビッドではなかった。
「ヨハンナ」
対面する相手を呼び、ファニーは顔を上げた。机を挟んでそこにいたのは、まさしくヨハンナだった。
「今後も、彼と組むときはあなたが書いてくれてもいいくらいよ」
「いいえ、好みではありませんの」
素っ気なく拒否した尼僧は、無表情のまま後ろを向いて出口へと歩きだす。
「そう」背中へと、ファニーは声を投げた。「でも、書くだけじゃなくてあなたが持ってくるってことは、まだよくないのね。デイビッド」
出入口とファニーのちょうど中間辺りのカーペット上で、ヨハンナは足を止めた。
「退院はしましたけれど、うまく歩けないらしいですわ」
「よほど無理したのね、わたしをまた真似るなんて。一度死にかけたのに」
肩に掛かる髪を撫で上げ、処刑委員会委員長は興味深げに尋ねた。
「やっぱり、あなたのためかしら」
上司の問いに答えず、女教皇は歩みを再開した。まもなく扉の取っ手を握ってから、再度口を開く。
「ええ、誰かのためでしたけれど」
ドアを開き、廊下に去る寸前で明答したのだった。
「わたくしではありませんわ」
SMI本部内にある殺風景な医務室。窓際のベッドで、彼は目覚めた。
見知った天井にぼやく。
「……やれやれ、そうだったな」
以前にもこんなことがあった。あのときからろくに成長していないのかと、情けなくなった。
みっともなさに顔を押さえ、病衣を纏ったデイビッドは上体を起こした。
ふと、視線を感じる。
入り口の方を確認した。
――アリスだった。
おそらく、こうなった間接的なきっかけ。その訪問に、デイビッドはバカみたいに狼狽えてしまった。
「な、なんだよおまえ。音もなく入ってきて!」
アリスは無言だった。ただいつもの仕事服で、扉の前に静かに佇んでいる。
「……どうした?」
これは申し訳なさでも感じているのかと案じ、ようやく平静さを取り戻してきたデイビッドはごまかした。
「この状態なら気にする必要ないぜ、昔もあったんだ。プロなのになかなか学習できなくてな。おまえと一緒に見習いからやり直しかもな」
「……ありがとう」
笑ってごまかすデイビッドにアリスが神妙に告げたため、笑声は止まった。
「ねえ」
しゃべりつつ、彼女は窓際のベッドへとにじり寄る。
「あたしを助けてくれたのは、なんで?」
「……なんでってそりゃ……」
「仲間だから?」
アリスがエプロンドレスを腰元で支えるリボンを解いたので、デイビッドは言葉を途切れさせた。
「子供だから? 女だから? それともー―」
エプロン部分が脱げ、下のブラウスのボタンをはずしだす。
「好き、なのかな?」
上着もスカートも脱ぎ、彼女は下着だけになった。なおも着衣に手をかけ、近付いてくる。
「ちょっ」顔面が熱くなるのを自覚しながら、ようやくデイビッドは二の句を次いだ。「な、なにをしてんだ!?」
「あたしは、コヨーテが好きだよ」
上を全部脱いで不思議の国の少女は告白した。
そこにほとんど膨らみはなかったが、綺麗だった。
デイビッドは、完全に言語を失してしまっていた。
彼女はもう同じベッドの上にいる。
下半身の最後の一枚に指をかけ、布団の中で伸ばしてあるコヨーテの脚の上に仔猫のように乗り、自分より高い位置にある頭部を見上げる。
「気持ちが一緒なら、初めて、あげてもいいよ」
「……」
愛らしい瞳に魅入られそうになる。あの吸血少女みたいだ。
その両肩を優しくつかみ、デイビッドは、
「……アリス、おれは……」
「――やっぱり、そうでしたのね」
突如割り込んだ第三者の声音は、またも入り口の方向からだった。
「う、うわああぁあーーーーーーっ?!」
そこで腕を組んで直立しているヨハンナに、デイビッドは絶叫する。
「これは違う!」
半裸のアリスを布団でくるんで隠し、彼は弁解に追われた。
「脱がせてないぞ! てゆーか、別におまえと完全に復縁した訳じゃないし。そもそもアリスとなにもないんだからんなこと言う必要もねえ!!」
そして、布団から頭だけ露出しているはずのアリスに同意を求める。
「な、なあ。アリス!」
そこに少女はいなかった。
「いいんですのよ」ヨハンナが言及した。「あなたがそのくらいの女に手を出したのは初めてですけれど。女癖が悪かったのは、ようするにそういうことではありませんの? チャップリンみたいな
なんの話題かさっぱりだ。おまけに、アリスはベッド横に全部の服を着て普通にいた。
――デイビッドはやられたと思った。
おそらく不思議の国の幻覚能力だと理解したからだ。
とんでもない恥をかくところだった。
「アリス! おまえってやつは――」
からかいか本気かはさて置き、とにかく叱ろうとしてデイビッドは愕然とした。
少女は、憤怒の形相で大人の女を睨んでいる。何度も修羅場で目撃した、浮気に嫉妬する女性の顔付きだった。
デイビッドが衝撃を受けているうちに、アリスは相手に飛び掛かった。
「やめろ殺される!!」
動転したデイビッドは、ふらつく足でベッドから降りた。
比喩じゃない。ヨハンナならマジでやりかねないのだ。
――ダメだ間に合わない!
アリスは相手に殴りかかり――
……半透明になって突き抜けて消えた。
「え?」
男が立ち止まって呆然とすると、またもドアが開いた。
入室してきたのは、アリスだった。
果物の入った紙袋を抱え、少女はきょとんとする。
「あれ、ヨハンナもいたんだ。コヨーテ、もう起きれるの?」
袋からリンゴを出す。
「お見舞い持ってきたんだけど、いらなかったかな」
「……いるけど」ボケた返答をしつつ、デイビッドは少女を指差した。「なんでそこにいる?」
ヨハンナがくすくす笑声を洩らす。
そこでコヨーテは悟った。
――違う。アリスの能力じゃなかった。
脳内にある空想を現実化する、女教皇だ!
「……ヨハンナ、おまえなあ~」
デイビッドは羞恥を堪えながら怒鳴る。
「ふざけるのも大概にしろよ、アリスの女教皇にあんな真似させるなんて!」
「わたくしは、アリスの女教皇なんて用いてませんわよ」
しらばくれる相手に、デイビッドは語気を荒げる。
「おれは〝異能無効化〟のコヨーテ・トリックスターを発動したぞ! そこにいるアリスが本物だ!」
と、不思議そうな少女を指差す。なのに、ヨハンナは言ったのだ。
「嘘はついてませんわ。だって実体化させたのはアリスでなく――」
彼女は背を向けて、アリスと対面した。
「デイビッド。〝あなたが恋している人〟ですもの」
時間が止まった。
……女教皇は、使用した相手にとってのみ思考にある存在を現実化する。
それがデイビッドに与えられれば、ヨハンナにさえ具体的になにを体験しているかは認識できない。
――まんまと、自分で真情を暴露してしまったのだ。
「どうぞ、お幸せに」
さらりと告げて、ヨハンナは少女の横をすり抜けて退室していった。
見送ったアリスは、硬直するデイビッドの隣に来た。
「なんか知らないけど、お見舞い一番じゃなくて残念だな」
それからリンゴを差し出して訊いた。
「食べる? あ、皮剥けないなら剥いたげるけど」
「……いや」
デイビッドはよろよろと果実を受け取り、
「丸かじりでいい」
と、ヤケ糞気味に頬張った。