「やりやがるな」
姿を現すまで鳴りを潜めていた建物に帰還したレスタトは、屋上の縁で観戦しながらぼやいた。
「シャルロットたちならまだしも、異能者とはいえたかが人間のぶんざいで」
ふと街を展望し、握り締めた拳を震わせる。
「あの堕天使め、逃げたか! 日向を失った弱小組織だなどと侮りおって!」
そのとき突如、恐ろしい勢いの風に背中を押され、彼は建物から落下した。
「なっ?」
焦って飛ぼうとしたが、どういうわけか頭上から岩がのし掛かり、レスタトは共に墜落するはめになる。
そのまま地面に叩きつけられると、いつの間にか岩はなくなっていた。
代わりに、身を起こしたレスタトは十数ヤード四方くらいの鉄の箱に閉じ込められている。光源などないのに、なぜかそこは明るい。
「なんだ、これは!?」
壁を叩きながらもがくレスタトに、背後から答えがきた。
「女教皇ですわ」
吸血鬼は動きを止めた。それから、声の主を見返る。
反対側の鉄壁前には、予想通りの人物がいた。
「ヨハンナとかいう異能者か」
「あなたに訊きたいことがありますの」
レスタトの言葉通りにいたヨハンナが、無表情で糾明する。
「この一連の出来事の裏に、何者がいますの?」
「答えると思っているのか」
「しゃべってもらいますのよ」
ハゲタカの娘、スペインの長靴、指締め器、焼きゴテ……。古めかしく懐かしい拷問器具の数々が、レスタトの周囲に浮遊して出現する。
「吐かせるだと?」レスタトは一笑に付した。「何人分もの人生を生き、苦痛を熟知するおれを。この程度の拷問でか」
眉をひそめるヨハンナに対し、レスタトは自信に満ちていた。
「口にするまでもないが、異能は他のあらゆる能力と同様に消耗する。戦闘を経た貴様に、どれだけのことができるのだ」
そして、宣告した。
「教えてやれることは、そうだな。あのとき貴様らがおれたちに気付かなかったなら、カインがどうするつもりだったか、身をもって学ぶがいい」
瞬く間にレスタトはヨハンナに詰め寄り、彼女の首を締めた。とっさに女教皇を使おうとすると、込められる握力が強まり、苦痛で気を逸らされる。
「やめておけ」レスタトは楽しげだった。「我々には心が読めるし、運動能力は人間の数倍だ。何かしようとした瞬間に、こちらのほうが速く対処できる。近付いた時点で人に勝機はない。こうするつもりだったんだよ、カインは」
首から手が放され、ヨハンナが咳き込みながらへたり込んだ。
「命が惜しくば壁を消去するのだな、でなければ貴様ごと消すぞ。こちらとしては、生かして奴が仕掛けるであろう破滅を経験させたいのだが」
「も、もう一つ、選択肢はありますわよ」
「うん?」
「尋問も足止めも無理で、殺されるか逃がすくらいなら、……わたくしがあなたを、処刑するまでですわ」
吸血鬼を見据えるヨハンナを、レスタトは嗤う。
「傍ら痛いな。貴様は相手の心象にあるものしか具現化できんのだろう。ただでさえ不死者とされる吸血鬼において弱点のないおれは、自分の死を信じていない」
ヨハンナは歯を食いしばって死をもたらす女教皇を発動したが、レスタトには本当に効かないようだった。
「にしても」レスタトは憐れむようにヨハンナを見下ろした。「その執着、まともでないな。なぜ無謀にも一人できた。ダンピールの落命に責任を感じてか?」
静かに、ヨハンナは微笑する。
「とんでもありませんわ。不甲斐ない自分に、腹が立っただけですわよ」
「気に入った」
嬉しそうなレスタトは、ヨハンナの襟首をつかんで身体を持ち上げ、牙を剥いた。
「褒美に、我が血の一部としてやろう」
「早計ですわね」
ヨハンナが喘ぐ。
「現実でなくてもいいんですのよ。長い人生のうち、自分を殺せるかもしれないと思ったものくらい、……あなたにもあるはず!」
微かにレスタトが眉間に皺をよせた。
ヨハンナには、彼の仕草に覚えがあった。女教皇の介入を防ごうと、努めて何も意識しまいとする人のものだ。
隙を突き、彼女は素早く懐から銃を抜く。ありったけの弾丸をレスタトの胸部に撃ち込んだ。
それは吸血鬼が感心するほどの身のこなしで、異能を防ごうとしたせいもあり、レスタトは泡を食ってヨハンナを放した。
「小癪な売女め……」レスタトは胸を押さえて忌々しげに吐いた。「異能にかまけた愚者ではないか、油断した」
受けて、尻餅をつきながらも手応えを覚え、ヨハンナは宣告する。
「殺し屋ですもの、女ながらに胸や尻やアソコ以外も鍛えていますわ。ところで、
「なんだと?」
顔を上げたレスタトの網膜は、もはやそこにある光景を映していなかった。
彼が目撃しているものは女教皇の性質上ヨハンナにも不明だが、相手が術中に陥ったのだけは確信して、彼女は見守る。
「……まさか」
レスタトは、彼にしか捉えられない誰かを拒絶する。
「人間ごときがこんなエネルギーを扱えるわけがない! よせ、やめろ!」
吸血鬼が後退り、暗殺者は初めて彼の外見に、いわゆる恐怖の片鱗を視認した。
「おれは信じんぞ! ガブリエル!!」
すぐ後ろにあった建物の壁へと下がり、彼は叫んだ。
「……ガブリエル?」
ヨハンナが呟いた刹那。
――彼は消し飛んだ。粉々に。
レスタトは塵となり、背後の壁面には本体を失った影だけが、焼き尽くように残された。