同時刻。ラピッドシティのダウンタウンで、一人の老人が建物の狭間に押し飛ばされ、ゴミ箱を巻き添えに転倒した。
「いい加減にしやがれ、変態ジジイ!」
罵声と共に、倒れた老人の横顔が革靴で踏まれる。
先程の洗礼による残飯のパスタを頬に付着させたまま水たまりに擦り付けられる老人は、モーゼスが思い出しSMIが探していた男だった。ただ記憶よりも皺や白髪を増やし、衣服も人前に出るには相応しくない襤褸切れのようなものになっていた。
そして老人を暴行する太った中年と様子を隣で傍観するほっそりとした若者は、スーツを着たSMIの男たちだった。うち、前者は以前デイビッドと共に銀行強盗の暗殺任務を受けた〝
「あの」若者が遠慮がちに意見した。「やっぱりコヨーテさんたちに報告したほうがよくないですか?」
魔法円は、老人を蹴りながら怒鳴った。
「なにほざいてやがる。組織を潰しかねねぇことをしでかした野郎かもしれねぇんだ。おれたちの恐さを身に刻むべきだろ。ついでに真相を聞けりゃ、手柄にもなる」
暗殺にかけては実力のあるベテランの彼は、血の気の多さで頻繁にトラブルも起こしていて、いつまでも幹部になれずにいるメンバーだった。若者も優秀だがまだ下っ端の新人だ。
街にやってきたSMIは宿泊施設を拠点とし、それなりに絵も上手いモーゼスが描いた似顔絵を頼りに二人一組の交替で老人を捜していた。
中年と若者は路肩をさまよっていた似顔絵とそっくりな彼を発見し、質問をぶつけたのである。ところが、カインの失われた支族やシャルロットの名を耳にした老人は、あからさまに驚愕して「なぜその名前を?」と返したのだった。それが災いして、路地裏に連れ込まれたわけだ。
「おい、さっさとゲロ以外を吐けよジジイ!」
中年はまた老人を踏んだ。
「どうやって依頼書に細工した?」
「知りません、わたしは何も……」
老人は胎児のように丸まって繰り返している。
「手間取らせんな!」
襟首をつかんで老体を持ち上げ、魔法円は片方の拳を振り上げて脅す。
「確かに細工はおまえじゃねぇかもしれねえ。だが、心当たりがある素振りをしたカインのなんたらとシャルロットとかいうガキについてまで吐かねーとなっちゃ、怪しまれても仕方ねーよな?」
「知りません、カインもシャルロットもなんのことやら……」
キレた中年は老人の顔面を連続して殴った。若者は最初の一発で見ていられなくなり、表通りのほうに目を逸らした。
そこで、彼は呆気にとられて固まった。
まもなく、中年も若者に肩を叩かれてそちらを窺い、やはり惚けたような顔をする。
手放された老人は地面に倒れた。SMIの二人が注目した先は、路地裏の細道への入り口辺り。そこに、いつの間にか佇んでいた幼い女の子だった。
整った目鼻立ちに白い肌、銀の長髪は流星のように夜風に揺れ、瞳は血を想起させるワインレッド。小さな唇は艶やかな薔薇の蕾、可愛らしい妖精の肢体。それをフリルやギャザーに彩られた黒いドレスで包み、真紅のリボンで頭髪を飾る四フィート三インチほどの少女。
「お願いを聞いてくださらない?」
その少女が、とても魅力的な鈴の音のような声を発した。
「そこのお爺さんを解放して、帰ってほしいの」
それだけで若者はうっとりと相好を崩したが、中年は険しい顔つきになった。
「あ、ああ。今帰るところだよ」
腑抜けみたいに返事をした若者の頭を、中年は拳で小突いた。
「しっかりしろ、〝
瞬く間に若者は夢から覚めた表情となり、少女は眉をひそめた。
「やはりこのジジイはなんかに関係してたようだな」中年が少女を見据える。「残念だったな嬢ちゃん、君に吐いてもらおうか。締め上げるのはこいつより容易そうだしな」
彼は一歩踏み出し、厭らしい笑みで続けた。
「絡んでくるならSMIの規則はご存知だな? 可愛い身体が穢れないうちに教えてやろう。おれの異能は魔法円っていってな。外部の異能から、自分や他人を守れるんだよ」
「そう」
しかし少女は平然と、至極簡単な感想を述べ、消滅した。
「ごふっ!?」
次の瞬間。
恐るべき速度で肉薄した少女から、魔法円は腹部に肘打ちを喰らって呻く。
中年男性を哀れむように見上げ、少女は告げた。
「あなたこそ残念だったわね。肘打ち自体に特別な能力は込めていないわ。でも、質量×速度=力よ。速さはあなた達ではなくわたしに及ぶ影響だから、防げないでしょう?」
「……ぐっ、……コヨーテみたいな類か」
呟いて魔法円は倒れ、気絶した。
少女は安堵の息をついたが、休む間もなく横から首を絞められた。届かない距離を計算していたはずなのに。
たちまち、美しい顔立ちが苦しみに歪む。
「ごめん」
少女の首を両手で絞め、若者が謝った。
「こんなことしたくないけど、さっきの魅力にぼくは抗えそうにない。苦悶の顔と、声を出せない状態のまま失神してもらうよ」
相手の両手首をつかんだ少女は、戒めを解こうとそれぞれを横に引っ張った。
が、彼女の両腕は真横に開ききってしまった。それでいて、若者の手は彼女の首に巻き付いている。手首の部分だけが伸びたのだ。
「ぼくの異能は世界を取り巻くほど長い蛇、
若者は種を明かした。
「肉体をゴムのように変化させられるんだよ」
少女は怯まなかった。相手の手首の片方を口元に寄せ、噛んだのだ。
歯は鋭く、ゴムの弾力は役に立たなかった。異変を察知した世界蛇は少女を放したが、相手は彼の手に喰らいついたまま。
焦った世界蛇が、手首から後ろの両腕を肩の辺りまで螺旋状に捻る。それを即座に解放し、腕が凄まじい勢いで竜巻のように回転しながら戻る反動を利用。華奢な肢体を吹き飛ばした。
ものの、少女はやや後方に飛んで、地面の上の空中に浮遊した状態で静止した。
「ごちそうさま」
告げた少女が、唇の端から一筋滴った赤色の液体を、どこからか取り出したレース付きのハンカチで上品に拭ったとき。世界蛇は初めて、娘がいわゆる人間でないと悟った。
「そうか……」
それも、遅かった。意識が朦朧としてきた世界蛇は、膝をついた。
「少女の……吸血鬼」
「致死量は吸ってないわ」
少女は、魅惑の微笑みを取り戻した。
「貧血になるから休んで、お友達が目覚めてから一緒に帰りなさいね」
「君が……」
少女に魅了されて正気を失った世界蛇が発声できたのは、そこまでだった。
ただ、少女は礼儀として、もはや自らの虜となった若者へと名乗ったのである。
月下の暗がりで、はにかみながらスカートの裾を摘んで控え目に持ち上げ、腰と膝を深く曲げるごく丁寧なカーテシーを披露しながら、「申し遅れました。わたしはシャルロットといいます」と。