「……なんだってこんな」
たった今目を通した暗殺依頼書をファニーのオフィスの来客用テーブルに置いて、デイビッドは嘆いた。
「女子供には手出ししないって話なら聞きますが、吸血鬼とはいえこれは受けたくないっスね。妥当性も見当たらない」
「ええ、悪い冗談だわ」
ファニーは頭を抱えながら、テーブルから離れた自分のデスクで同意した。
「わたしにも記憶がないのよ。いつ、誰から、そんな依頼を受けたのか。こんなものを受諾したらまた問題になるのに」
それがこの会議の場が設けられた事由だった。
ファニーは今朝、自身の机上に問題の依頼書を発見したという。
かくしてテーブルを囲うソファーには、呼び出された幹部格の暗殺者たちが座るはめになっていた。ファニーから向かってデイビッドは右手側にいる。
左手側にいるのはデイビッドと並び称される実力者〝ヨハンナ〟・デ・ボーノだった。キリスト教の尼僧の格好を制服とする彼女の暗号名と異能は、
そのヨハンナが、薄い唇を開いた。
「記憶は気に掛かりますが、仕事には支障ありませんでしょう? 女性でしょうとお子様でしょうと、吸血鬼ですのよ。始末して差し上げたところで、どうということはないはずですわ」
「相変わらず恐ろしい女だな」
不機嫌そうにデイビッドが口を挟むと、ヨハンナの狐のような炯眼が睨む。
彼女はデイビッドより若い、二十代後半の容姿も可憐なイタリア人だが、性格は冷酷極まりなかった。
元は敬虔なクリスチャンだったが、マフィア同士の抗争に巻き込まれて身内を皆殺しにされ、そのマフィアを軍事力で一掃したムッソリーニを慕い愛人となっていた。そこで殺戮の味を覚えた彼女が現在SMIにいる理由は、どこの組織のマフィアでも殺せる可能性があるからだそうだ。
イタリアの敗戦で愛人も失い逃げ延びたヨハンナはかつて憎んだマフィアに異能を見出され、最初は内部から破壊しようと勧誘に乗ったがSMIを知ってやり方を変更したという。護るものをなくし、過去の経緯から裏社会を憎み、そこに属する人間の殺傷を楽しむようになった危険な女。最近はムッソリーニの処刑にも顔色ひとつ変えなかった。
こんな彼女でも一時期はデイビッドと付き合っていたが、彼でも付いていけなくなって振っていた。
「二人とも落ち着きなされ」
割って入ったしゃがれ声は、デスクとテーブルを挟んでファニーと対峙する
SMIに所属する一方で、表のマーダー・インクのボス、ルイス・〝レプキ〟・バカルターにも仕えたユダヤ系マフィア。黒服にキッパを被るユダヤ教徒の格好を制服とする、豊富な白ひげを蓄えた男だった。
〝モーゼス〟・ゴールドバーグ 。
ユダヤ教の聖典、
こういったものは、知的な障害を抱えながらも特定の分野では常人になし得ない才能を発揮するサヴァン症候群などに似ているともされる。実際、同症候群には記憶力の優れた者もいるが、現在はモーゼスのような場合は特に障害がないことを理由に異能者とされていた。
彼は才知によって、組織の全情報を把握する生きた書庫として、影でもボスの秘書を務める重要人物なのだ。
「それで」いがみ合う二人の若者を諌めたモーゼスは、ファニーへと質問する。「この依頼書が、エイブラハム・レルズの件と関連しているとお考えなのですな」
処刑委員長は慎重に頷く。
「問題のある標的に記憶の欠如、状況が似ているもの」
深刻そうな話題に、デイビッドとヨハンナも集中した。
エイブ・レルズ暗殺にまつわる依頼書の発見以降、SMIは行動に大きな制約をかさねばならなくなった。
ために、彼らは自分たちを取り巻く危機の全容が明らかになるまで、活動を停止して防御に徹することを決めていた。今回の事件は、そうした矢先の出来事だ。
「どうやったら、こんなことができるのかしら」
再びファニーは頭を悩ませた。
組織に属する様々な異能でSMI本部は外部から隠されている。とても部外者が侵入して細工できるようなところではない。
「……まさか、本当にわたしが……」
「もしくは、内部の誰かの仕業かもしれませんわね」
ヨハンナは愉快そうに、ファニーの呟きを遮った。
重たい沈黙が訪れ、デイビッドは腕を組んで推考する。
記憶を消すとはスウィート・ファニー・アダムスのような異能だろうか。まさかファニーがそれを自分に使用したのか、それとも嘘をついているのか。覚えがないが、そういう真似ができるデイビッドも疑われかねない。アリスのような幻覚能力なども怪しまれるだろう。他にも複数で組んだりすればいくらでも可能性が考えられるし、それを可能とする連中がここには何人もいる。LJなら内心をいくらか解読できるが、彼女自身にだって疑いはある。
日向の主要メンバーであるエイブ・レルズもルイス・バカルターを売った。そういうことが日陰で起きてもおかしくはないのだ。
「して」モーゼスが尋ねた。「どうなさるおつもりですかな、委員長?」
ファニーは溜め息をついてから、依頼書を指で叩いた。
「依頼主を捜したいところだけど、手掛かりはこれだけ。なら、この子を捜してみようかしら」
「実在しますかね」
懐からラッキーストライクを一本抜いてくわえたデイビッドは、マッチで火をつけながら意見した。
「カインの失われた支族も子供の吸血鬼も、聞いたことありませんよ」
「わしにはいくらか心当たりがありますな」
異論はモーゼスのものだった。
そして老人は、みなに注目されたときにはすでに惚けたような表情となって瞬きもやめていた。彼が自らの異能によって記憶を探る際の仕草だった。
モーゼスのセフェール・ハ・ゾハルは、知覚したあらゆる情報を完璧に記憶するものだ。彼は、これまで会ってきた人々から人間がどういったときにどんな反応を示すかといったことまで事細かに憶えており、脳裏で統計的に並べることさえ可能とする。
人の印象だけに留まらない。特定の存在がいるとき雰囲気はどんなものかとか、そういう領域にまで及ぶのだ。さらに立場上、モーゼスは吸血鬼やその関係者と遭遇したことさえもあった。