数日の後。
SMIファニーのオフィス、彼女のデスク前。デイビッドとアリスと、片腕と片足をギプスで固定して松葉杖をついたアガーテは、横一列に並んで仕事の成果を報告していた。
「……そう」
聞き終えたファニーは机の上で手の平を重ね、満足げに頷く。
三人には入室したときから確かな手応えがあったと雰囲気に出ていたが、その通りだった。特に、アリスの心境に変化があったらしい。
「アリス」
だからファニーは、まず少女に呼び掛けた。
「何か言いたいことがあったらいつでも来なさいね」
少女は少し考え込むような仕草をしたあと、はにかむように頷いた。
卓上の電話が鳴ったのはそのときだ。
「ご苦労様、報告書の詳細は後で読むわ。下がっていいわよ」
ファニーは手早くデイビッドたちに告げて、受話器を取った。
三人は短い返事をし、上司から解放されて安心した様子で出口に向かっていく。
「委員長!」
ファニーの耳元では聞き覚えのある女性の声ががなった。受付のローラだ。
「聞こえてるわよLJ、騒がしいわね」
LJの声色は尋常でなかったが、依頼が一段落したのでファニーは落ち着いていた。
ところが相手の興奮は収まらず、衝撃的な告知をしたのだった。
「どうして察知できなかったのか不明ですが、テレパシーがうまく働かなくて。ザイシャが来てます。後ろに!」
――アリベルト・ニコラエヴィッチ・トレープレフの目的は二つあった。
ひとつはアガーテを射止めて名をあげること。もうひとつは――。
トレンチコートを纏い、負傷によって身体に包帯を巻き、バンドエイドや眼帯で装飾されたアリベルトは、ミイラよろしくビルの屋上に潜んでいた。
バイポッドでモシン・ナガンの銃身は固定していたが、利き腕と片目を負傷して狙いは定まらなかった。彼がビルの縁に伏せて標的としているのは、三〇〇ヤードばかり先の別なビルの九階。そこの一室で、窓越しに背を向けているファニーだ。
彼女の暗殺が、アリベルトのもうひとつの使命だった。本来なら、アガーテとコヨーテだけを殺しアリスの後を付けてここを暴くつもりだった。
予定は狂ったが、彼は死んでいなかった。詰まった銃の引き金を引く瞬間。直前に覚えた圧力への違和感で、直感的に身を引いたのだ。
それにより、予感は的中したものの重傷と引き換えに生き延びたのである。
アリベルトにとっては幸いなことに、今回SMIは遺体の後片づけを重視していなかった。日向マーダー・インクのエイブ・レルズによる殺害の多くは病死と誤認されたが、特異能力者ともなれば自然法則に囚われない暗殺が可能で、なおさら常識的な捜査で真相を突き止められる心配がない。
あれでアリベルトが死んでいても、日向には謎のスナイパーの死と受け取られたろう。それでも新聞くらいには載るし、普段ならファニーたちが見落とすこともない。遠くにいても認知された異能者はLJらに感知されかねないし、近付けば尚更警戒されうる。
しかし、今回は彼も手を打っていた。
「待ってな、アガーテ。まずはファニーを――」
片腕と片目の怪我のためなかなか定まらなかった照準が、警備を信頼してカーテンを開け放っていた窓越しにファニーの後頭部を捉えたとき――。
「可愛いファニー・アダムスにしてからだ」
アリベルトは引き金を引いた。
ファニーの耳元で受話器が砕けた。
傷によるアリベルトの狙撃力の低下と、LJの知らせを受けて彼女がとっさに動いたお蔭で交わせたのだ。
窓ガラスと電話機の粉砕に驚いて振り返った三人の部下へ、上司が警告する。
「子ウサギよ! 壁に寄りなさい!」
デイビッドたちは素早く反応し、外から死角になる壁際に張り付いた。
「ありえない……」
アガーテが、割れたガラスを見据えながら言う。
「死んだはず。だって――」
「ええ」
窓枠の下の壁に隠れたファニーが、やはりアリベルトから死角となるデスク下部の引き出しを漁りつつ答えた。
「依頼主ソ連のNKVDは間違いなく、遺体だけは自分たちが処理したと告げてきた」
室内を沈黙が覆い、デイビッドは重たい唾を飲み込んでから発言した。
「嘘をついたと? てことは……」
「そうね」
目的の物を探し当てたファニーが、緊張した声色で言及する。
「ザイシャは最初からこうする予定で派遣された、影のNKVDによる正式な刺客かもしれない」
「なんでそんな」
「さあね。とりあえず、奴を片付けるのが先決よ」
デイビッドの疑問に返答したファニーが手にしたのは、双眼鏡だった。
「じゃあわたしが」
名乗り出たアガーテを、ファニーは鋭い眼光で制する。
「いいえ、お返しは自分でするわ」
にこりと微笑んだファニーに、三人の部下はぞっとした。その異能の強力さは、彼らが誰よりも熟知しているからだ。
アリベルトは歯を割れるほどに噛み合わせ、悔しがっていた。
こんな怪我さえなければ命中していたのに。場所も悪い、標的の隠れるところは多いし、彼らの仲間もたくさんいる。もうチャンスはないだろう。居座れば返り討ちにされかねない。いったん引き上げて、やり直すしか……。
そこまで思考したとき、スコープの中にファニーが現れた。
彼女は悠然と立ち、こちらを凝視している。
「もらった!」
切羽詰まっていたアリベルトは、不審がるよりも速攻を選定した。
ファニーは瞬きをしなかった。そのため、スコープレンズの閃きや、減音器で抑制されたマズルフラッシュも見逃さなかった。
彼女は前方に異能を発動したのだ。塵をも逃さぬ集中力は、接近したそれを捕らえた。
銃弾は彼女の手前、窓の外で静止し、ビルの下に落ちた。
ファニー・アリッサ・マクラウドの異能、スウィート・ファニー・アダムスは、あらゆるエネルギーをゼロに向かって自由に減少させられるSランクだ。
即座にファニーは、先程の兆候から把握した敵の潜伏箇所へ双眼鏡を構えた。
レンズを挟んで唖然とするアリベルトと目が合った。彼は慌てて次弾を放とうとしたが、望みは叶わなかった。
胸を押さえ、もがき苦しみだしたのである。そうして転げ回った末に、生命活動をやめた。
「
ファニーは、ザイシャ・トレープレフの心臓を停止させたのだ。
三人の部下が、壁際から慎重にファニーのもとへと歩み寄り、その中からコヨーテが言う。
「こりゃ、厄介なことになりそうですね」
「……引っ越さなきゃならないわね」
振り返らずにファニーは述べた。
「NKVDの影を問い質すのは、それからよ」