――まさか、見えた?
苦しげに身を起こしながらアガーテは混乱した。
もし子ウサギが影のNKVDなどでデイビッドの異能を把握していたとしても、コヨーテ・トリックスターがどんな変化を起こすかは特定できないはずだ。仮に真下に抜けることまで予測したとして、タイミングはつかめないだろう。
なのに、さっきの銃撃は早すぎる。デイビッドが降りようとした瞬間から狙いを定めていたかのような速度だ。アガーテに照準を移し、急所は逸れたものの闇で弾を当てたのもありえないような手際の良さである。
ありえないような……。
「……しまった」
アガーテは思わず声に出した。
「ザイシャ・トレープレフはレベルAの霊視能力者!」
特異能力はいくらか研究が進んでおり、アメリカなどのヤードポンド法を用いる国では、〝文字測定法〟というもので強弱をアルファベットで表している。基本的に、Wが異能のない人間でVが最も弱く、XYZとSを省いてAへと文字が若くなるにつれ強くなる。
レベルAは、〝最強規模であり、付加される要素がある〟と定義される。この付加される要素という文が加えられると、通常の分類を超えた力が備わる。例えば付加要素のない精神感応は一般的な定義通りに他者と心の声をやり取りするだけだが、付加要素があるLJなどは心気の発信源たる他者の居所を探ったりといった本来テレパシーの定義にないことまでできる。
制限付きの念動力異能者アガーテはP。〝弱い規模であり、欠如する要素がある〟と定義され、師のケーニッヒ少佐もランクは同じだが透視能力者だった。その視界はレントゲンに似て金属を透過できず、鉄板の下に隠れたところで不意を突かれて負けたのだ。
アリベルト・ザイシャ・トレープレフの異能がAランクなのは判明しているが、特殊性まではわかっていない。
とはいえ、霊視は超常的存在を視認する。異能者は超常的能力を操るので、そうしたエネルギーも彼らは視認できるという。ましてや分類上の最強規模であるAならできないわけがない。付加要素もあるのだから、師匠と逆にできることが増える。常人の視覚を省いて霊視だけに集中すれば建物などの物体を除去し、異能者だけを狙うなんて芸当も可能かもしれない。ならば、現在の戦況が整うまでアガーテたちを監視追跡できた理由も得心がいく。
魔弾の射手は限られた時間と、新人のそれも子供の世話、因縁の相手との決闘といった不慣れな状況の重複に気を取られ、基本的なことを見落としていたのだった。
アリベルトとの関係は別だが、おそらくコヨーテもいくつかの点で共通していただろう。
「わたしとしたことが……」
悔しそうに唇を噛みながら、アガーテは腕の中のアリスに目線を落とした。気丈な少女も瞳に涙を溜めていたが、庇うように抱いていたのでさほど怪我はなさそうだ。
――ッ!
身体を動かそうとして口内で呻いた。アリスを護ったぶん自身が衝撃を受けたのだ。肩は弾丸が貫通している。
「アリス、怪我はない?」
傷口を押さえながらも案じると、童女は震える声で返答した。
「平気だよ。それよりアガーテと、コヨーテが……」
言ってる間に、アリスの頬を雫が伝った。平気でないのは明白だ。
「何かあるなら我慢しないで言うのよ、心配してくれるなら尚更ね。あなたのことも考慮しなきゃならないから、正直に話してくれないと余計に負担だわ」
それでもアリスは頭を振って、しゃくりあげながら言うのだった。
「本当に大丈夫。二人が撃たれて怖かったの」
初めて素直な言葉を聞いた気がした。アガーテが少女を抱き締めると、子供は胸に顔を埋めて啜り泣いた。
それでも魔弾の射手は、華奢な肩越しに戦場を確認しなければならなかった。
踊り場からは折り返しの階段下に、一階が半分ほど見通せる。階段は建物の奥にあり、二階のカウンターもそこに近かったのでテーブルの上に仰向けに倒れるコヨーテが観察できた。表情は窺えないが、少量ながら額から流れた血液の筋が仰け反った頭髪に入っている。
アガーテは苛立った。彼も注意をそらされていたとすれば、今回の任務に心を乱されていた己の責任でもあると。
「アリベルトに幻覚は見せられないのよね」
解答がわかっていても、訊かずにはいられなかった。
「うん」アリスの返答は予想通りだ。「あたしが知覚できないとダメだよ。幻覚は感じるものだから」
SMIボスの異能〝コンメディア・デッラルテ〟は蜃気楼のようなものを実際に作るSランクだが、アリス・イン・ワンダーランドは幻覚を生むGランクだ。
幻覚とは、外部にないはずの情報を脳が誤って入力されたと錯覚する現象。視覚の幻覚を認識してしまう人は存在しないものを目視している。対して蜃気楼は光の屈折などの働きで外部にそういったものが実際に視認できる現象で、誰の視点からでも捉えられる。
ようするに、アリスが幻覚を生むには彼女が相手を認識せねばならない。闇に潜伏する子ウサギには通じないのだ。
「……アリス」
そこまで思索してアガーテは妙案を閃き、語り掛けた。
「ここに隠れてなさい。万が一わたしが負けたら、人が集まるまで待つのよ。奴の狙いはわたしだし、子供一人なら日向からもあまり注目されない。あなたは保護されるだろうから、安全そうな場所に着いたら異能で逃げて」
「ア、アガーテはどうするの?」
不安げに尋ねるアリスの視線から顔を逸らせて、アガーテは一階の空間を見据えた。
「ザイシャ・トレープレフの腕前に賭けるわ」
アガーテたちのいるレストランから、約三〇〇ヤード離れた小さなビル屋上に、アリベルト・ニコラエヴィッチ・トレープレフはいた。
赤毛で獅子っ鼻の目つきの鋭い若者だ。トレンチコートを纏い照準眼鏡を覗きながら、口元に余裕の笑みを浮かべる。
彼の目的は二つあった。
うち一つである、師のヴァシリ・ザイツェフが倒したケーニッヒ少佐の弟子を仕留め、自らの力量を証明できるのはもうすぐだ。
いや、実質それ以上の戦果を遂げたといえた。アガーテより名高い、あのコヨーテを討ったのだから。
ここからは標的のいる階段を除く二階と一階のほぼ全てと、二階への階段の下の部分が僅かに窺える。相手がいる位置も判明している上、肩を撃てたのだ。勝利は目前だった。
――照準線が何かを捉えた。
階段からはみ出た、ブーツを履いたアガーテの足。
「尻尾が出てるぜビッチ」
愉快そうにアリベルトは引き金を引いた。
減音器で抑制された銃声が鳴り、モシン・ナガンが同様の仕組みで抑えたマズルフラッシュを放つ。
目標は容易く貫かれた。
「……うん?」
頓狂な声を洩らし、アリベルトは砂袋で固定した銃身から顔を上げた。無論、視界が悪くなるだけで変化はなく、今一度照準機で探る。
足はさっきと同じ位置にあった。撃たれても微動だにしないのだ。
不審に感じて、異能を発揮した。
物陰で通常の視覚では窺えないところに、アガーテの体形がオーラとなって表れる。それはさっき射撃したものに繋がっている。紛れもなく獲物の左足だ。
「……どういうつもりだ、アガーテ・デア・フライシュッツ」
底知れぬ不吉さが、アリベルトに汗を流させた。
数秒の沈黙。
額から伝った汗水が顎に到達し、滴ったとき。彼は違和感を覚えた。
銃身が圧迫される感覚。正体について考える余裕はなかった。
突如、アガーテが階段を滑り落ちたのである。狙撃仕様のKbr98kをこちらに構えながら。
アリベルトは素早く照準線に彼女を捕捉し吼えた。
「悪魔の弾で死ね!」
爆発は、彼の目前で起きた。
アガーテはスコープの端に閃光を捉え、そちらに注目し発砲した。
モシン・ナガンの暴発による炎の中。仰け反って後ろに倒れゆくアリベルト・ザイシャ・トレープレフが、微かに窺えた。
「……
照準機から顔を上げ、アガーテは囁く。
結末は計画通りだったのだ。
デラ・フライシュッツの異能は、彼女が通常能力で動かせる範囲の、自身に接触した物体を遠距離から操作できる。
撃たれということは、銃弾がアガーテに触れたということ。傷は、発射された地点からの軌道を刻む。即ち逆行すれば、銃口に戻る。
彼女は足を犠牲に弾をあえて受け、銃創の形から重力や風向きまで考慮し、正確に弾を返したのだ。
物体を動かす力は通常能力に依存するのでとても発砲の速度は出せないが、モシン・ナガンの次弾を詰まらせるには充分だった。
自身を囮に、腔発によって子ウサギを仕留めたのである。
「アガーテ!」
行く末を踊場で固唾を飲んで見守っていたアリスは、嬉し泣きで階段を駆け降り、魔弾の射手に飛び込んだ。
アガーテは改めて、少女を愛娘のように強く抱いた。
そのとき二人の耳に、場違いなほどに惚けた声が聞こえる。
「ご苦労さん」
ありえないはずの音声に、二人の女は同時に音源へと顔を向け、少女の方は凍り付いて叫ぼうとさえした。
「……お、おば……おばけ……」
「幽霊じゃなくて悪いな」
訂正したのは紛れもなく、デイビッド・コヨーテだった。
テーブル上で上体を起こし、額の血を衣服の袖で拭う。再生能力に変換したトリックスターで綺麗にされた傷は、どうやら浅かった。
驚愕するアリスの背中をなだめるように撫でながら、アガーテは落ち着いて訊いた。
「簡単にくたばるわけないとは思ったけど、反射神経が良すぎない?」
コヨーテはおよそどんな異能も発揮できるのだから、銃弾を防げても不思議はない。出血するほどには傷付いていたことから、着弾寸前くらいに異能を発動したのだろうが、あの短時間で撃たれると予測するのはほぼ不可能だったはずだ。
「おいおい」
デイビッドの答えは簡単だった。
「生身で二階から飛び降りる自殺志望じゃないぜ。せっかくだから死んだふりして、弟子同士の対決に横槍挟まないようにしたが。楽しめたか?」
つまり飛び降りながら、着地に備えて身体を硬くしていたわけだ。
アガーテは傍らの壁にしがみつくように立った。
「気付かなかったわたしもバカだわ。わかってたら、こんな無茶しなかったのに」
負傷した足を引きずり、彼女は不満を述べながらデイビッドに歩み寄ったが、嬉しそうに微笑んでもいた。アリスもそんなアガーテの手を引いてやりながらデイビッドを見上げ、ようやくこれまでの緊張とは違った雪解けのような笑みを浮かべた。
「いい顔だ」
デイビッドはテーブルのベッドを降りると、アリスの頭を撫でた。
「なんか得たみたいだな」
遠くから、警察車両のサイレンが響いてきた。それは暗殺者たちの帰還の合図でもある。
警官隊がレストランに踏み込んだときには、もう誰もいなかった。