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Alice

 アガーテはドイツ系だ。

 枢軸国の人間は敵性市民とされ監視の目に曝されたものの、差別感情によって強制収容所に送られたのは日系人だけで彼女は無事だった。戦前にケーニッヒ少佐の教育を受け、アメリカに渡ってきたという。



「弟子同士の対決か」

 数日後。ニューヨークを走るベントレーの車内でハンドルを握り、煙草をくわえながらデイビッドは呟いた。


 あのあと正式にファニーよりソ連当局から受けた依頼内容も聞かされたが、やはり子ウサギの目的はアガーテの命だという。現在は作戦会議を済ませ、ソ連の情報と精神感応テレパシー能力を持つSMIメンバーによる探知を参考に、アリベルトがいるらしい街に出てきたところだ。

 SMI本部は異能によって隠されているので、組織の人間でなければ場所を暴けないが、ここは以前拠点としていた土地だ。それを知っていたのか偶然か、アリベルトも本部を探しているか自分に気付いて送られるであろうアガーテを待っていると思われた。

 デイビッドとアガーテは、作戦会議のときと同じいでたちだった。SMIの制服は堅気を装うために一般社会で正装とされるものならなんでもいいが、基本はスーツだ。あるいは、それぞれの組織での暗号名コードネームにちなんだものが多い。


鉄則オメルタを破ったのは先生よ」

 デイビッドの呟きに、助手席でアガーテが開口した。

「戦争だしヴァシリがしたことも仕方ない。弟子以前に、個人戦に過ぎないわ」

「悪かったよ。で、奴の正確な居場所はどこだろうな。LJも断定してくれりゃ助かるが」


 LJ、ローラジェインはSMIの受付係で、精神感応能力者テレパスの女性だ。他者の心を読めるこの種の異能者は影と日向を見分けることもできる。

 訓練すれば異能は強化できるが、LJのテレパシーが完璧に機能するのは通常の知覚範囲だけ。それ以遠は、相手が離れるほど読める内容やそうしたものを有する人物の居所を特定し難くなる上、SMIの精神感応能力者は彼女しかいないため忙しく、ニューヨークに子ウサギがいるのを把握するので手一杯だそうだ。

 これは当然アガーテも既知のことだが、いつもならわざわざツッコんで痴話喧嘩をするところなのに彼女は何も言わなかった。因縁の相手と対峙するのを意識しているせいだろうと、デイビッドには推測できた。


 彼は気まずさと退屈さから、もう一人の同乗者を窺った。

 ルームミラーを覗くと、後部座席のリアシートには不思議の国のアリスがいる。彼女はジョン・テニエルの挿絵じみた仕事着のエプロンドレス姿で、相変わらずの無表情だ。


「アリス、調子はどうだ」

「……いいよ」

 素っ気ない返事。この日、車に乗ってから初めての台詞だ。

 作戦会議中もあまり話さなかったが、アガーテは自分が教育していたときよりはしゃべるようになったと言った。デイビッドに気があるのではとも。

「そうか」

 運転手はビルの間を走る道路の進行方向に視線を戻した。

「どっちにしろ新人はサポート役だ。雰囲気がつかめりゃいい。嫌ならまだやめることもできる、ファニーに頼めば記憶も消せるからな」


 デイビッドらの直属の上司、組織のアンダーボス処刑委員会委員長のファニー・アリッサ・マクラウドの異能は、〝可愛いスウィートファニー・アダムス〟と呼ばれる。

 イギリスで惨殺された少女に由来するスラングで、「何もない」を意味するこの能力は熱力学第二法則に似るともされる。知覚できる範囲のあらゆるものを〝ゼロ〟に向かって自由に減少させ、記憶も消去できるのだ。


「やめないよ!」

 突然、はっきりとした口調でアリスは宣言した。

「あたしはやめない、ちゃんとした暗殺者になるんだもん」

 前列の二人は顔を見合わせた。少女は怒ったような表情で、二つの席の隙間から身を乗り出してさえいる。


「……どうにせよ無理強いはしない」

 応答しながらデイビッドが前方に顔を戻すと赤信号だったので、慌ててブレーキを踏んだ。前のめりになったアリスがごく僅かに子供らしい驚きを表し、拗ねたように座席に掛け直す。

 少女をミラーで確認しながら、進みだした車内でデイビッドは続けた。

「でもこれは忠告させてもらうぜ。仕事をすりゃ身をもって学ぶだろうが、態度を見る限り教えといたほうがよさそうだ」

 アリスは鏡越しにデイビッドとちょっとだけ対面したが、すぐに視線を逸らした。


「確かに、おれたちはそれなりの理由がない限り依頼は受けない。日向の連中は対象にしないし、日陰の一般人にも手出ししない。日陰の裏社会の、会議で妥当と判断した相手だけが標的だ。

 興味がないんで詳しくは知らんが、うちらのボスは去年電気椅子をプレゼントされた日向のリーダー、〝レプケ〟と仲の悪い兄弟みたいなもんらしくてな。こっちは方針の違いから表のマーダー・インクより穏やかになったんだとよ、人殺しに違いないが」


「どうしてそれがいけないの?」

 ふてくされてアリスは質問した。

「お父さんも殺してたし、殺されたわ。国の一番偉い人たちだって戦争してるじゃない」


「そりゃ馬鹿だからだ」

 デイビッドが即答する。

「社会は生きてる人間がいなきゃ成り立たないからな、殺人を肯定するなら作る意義もなくなる。だから誰かを殺すメリットは人類社会全体にとってはないんだ。つまりおれたちは馬鹿の代表さ」

 あっけらかんとした回答に、アリスは間の抜けた顔をした。

 運転手はさらに言う。

「にしてもアリス、どうしてSMIに固執するんだ? 家族は日向の抗争でやられたって聞いてる。復讐が目当てなら、異能を攻撃にいかす方法を学んだとこで干渉できないぞ」


 ミラーを覗いたデイビッドの目を、少女は鏡越しに見返した。

「……制裁が怖い場合でしょ。あたしは覚悟してるもん」


 隣席のアガーテと共に諦めたように溜め息をつき、デイビッドは吸い終えた煙草を潰して窓から捨てた。

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