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Agarte

 アガーテ・カルラ・ノルデはSMI随一の狙撃手で、ドイツの戯曲〝魔弾の射手デア・フライシュッツ〟の暗号名コードネームを授与されている。〝アガーテ〟もそこにちなんだものだ。

 組織で与えられる暗号名は暗殺者の異能そのものの名称にもなり、出自と関係の深い言葉から相応しいものをつけられる。組織内では、基本的にファーストネームかミドルネームのどちらかを変えることになっていた。


 そして〝アガーテ〟・デア・フライシュッツは現在、一人の新人暗殺者の育成を任されている。

 これから生徒の最初の任務が始まる。SMI最強と目されるデイビッド・コヨーテが一緒なのは、敵が大物であることと新人が期待されていることを物語っていた。


 〝アリス〟・ヴァージニア・ハウスデン、暗号名、〝不思議の国のアリスアリス・イン・ワンダーランド〟。


 アガーテは、目前の席で机にノートを広げているその少女を眺めた。

 影の世界に入るには子供の頃から教育したほうが異能の法則から望ましい。故に大方の異能者は、幼少期に調査員が見出す孤児や影に属する家庭の子が多い。特異能力をいかすか普通人として生きるかは選択の自由が与えられるし、後者の場合は記憶を操作する異能を受け影のことを忘れ能力も失う。異能をいかしつつ隠す人生を送るにしても、真っ当な職に就くのが通常だ。影でも、暗殺者などは裏の生き方に変わりない。

 ただ異能者でなくとも、日向社会の暗部に通じれば影に近いため多少は事情を知っている。アリスはそうした父親のいる家庭に生まれた。

 彼は娘を利用するつもりで、早くから影の裏社会に接触させていたらしい。


 アリスは黒髪おかっぱで十歳のイギリス人。丸顔に輝く鳶色の瞳。現在は訓練用の黒いワンピースとジャケットのアンサンブルに身を包んだ可愛らしい子供だが、いつもほとんど無表情だった。

 大きな悲劇を小さな胸に抱えているのだろう。でなければ、こんなところに属してはいないが、アリスの境遇はここでも珍しかった。

 マフィアの親を亡くした娘なのである。両親共に異能者でなく、日向マフィアの抗争で殺されたという。ために、父親の組織と繋がりのあったここに真っ直ぐ運ばれることになった。

 SMIにとっては貴重な人材だ。あとは本人の希望が問題だが、親の教育か家族が殺されたためか、彼女自身も暗殺者になることを拒まなかった。


 授業をしながらそこまで思考して、アガーテは言った。

「じゃあ、あとは最終確認ね」


 まるで小さな教室のような部屋。

 トレンチコートを着たすらりとした体型の彼女は、黒板の前で茶色のポニーテールにした髪を振って問い掛けるように首を傾げる。

 ここはSMIの教育施設だ。もっとも、暗殺より影法師としての生き方を教えるほうが重視されている。理由はこれまで何度も説いてきたが、最後に念を推さねばならない。


「なぜわたしたちは異能が扱えるのか――」

 アガーテは復習を始めた。


 〝なぜ異能があるか〟、それは形而上の問いで、〝なぜこの世はあるか〟と訊くに等しい。当たり前にあるのだ。どんな異能が宿り発揮できるかは、それを〝信じること〟に左右され、その傾向はある程度先天的才能や環境に依存する。

 このことは、三年前に行われた実験に顕著にあらわれており、影社会では異能の実在に科学的な証明がなされたと認知されていた。


 山羊羊シュマイドラー効果と呼ばれるものだ。


 1942年、ニューヨーク市立大学のシュマイドラー教授は、超能力についての調査を行った。

 被験者を超能力を信じる〝羊〟というグループと、信じない〝山羊〟というグループに分け、ESPゼナーカードを用いた透視実験をしたのだ。すると、羊のほうは正答率が高く山羊のほうは低かったという。

 これを影社会において理解するなら、信じた側にだけ透視能力に覚醒した者がいたと解釈できる。

 日向の社会にいれば、こんなことを真に受けるのは難しい。だから、こうした施設ではこの法則について特に教育がなされる。


 ちょうどアガーテがそうした説明を終えたとき、ノックもせずに扉を開けて誰かが入ってきた。


「へえ、この子が期待の新人か」

 デイビッド・コヨーテだった。

 開けたままの扉に寄りかかってアリスを観察している。煙草はもう吸っていなかった。

「可愛いけど、アリスって雰囲気じゃねぇな。やっぱブロンドとエプロンドレスでなきゃ」


「プレザンス・リデルは黒髪のおかっぱよ」

 アガーテは、黒板消しでチョークが刻んだ文字を消しながら言った。


「アリスのモデルが元か」

 納得したようにデイビッドはアリスの机に歩み寄り、ずいと彼女に顔を近付けた。

 アリスは苦笑いのような表情となって身を引いている。


「こら」

 アガーテは軽くチョークを投げた。デイビッドは仰け反って交わしたが、チョークは空中で弧を描き、額に直撃した。物理的に有り得ない飛び方だ。

「痛っ!」

 デイビッドは頭を押さえて悶絶する。

「こんなことに異能使うなよ!」


 デア・フライシュッツは、〝アガーテの触れた通常能力で動かせる程度の物体を離れたところから操作できる〟。狙撃手としての探究心から覚醒した才能だった。

 念動力サイコキネシスの一種だが、いったん接触したもので対象が身体能力で動かせるものでなければならない分、異能としてのランクは影独自の分類で〝P〟と低い。しかし狙撃の腕が組織一であるため、弾丸の軌道修正をすることで最強の狙撃手となれるのだ。

 ここに来てからは、一度も的を外したことがない。


「手、出そうとしたでしょ」

 アガーテはデイビッドを睨みながら指摘した。

「あんたはこのくらいやらないとわからないからね。ただでさえ緊張してるのに、余計なことして戸惑わせるんじゃないの」


「子供として可愛いと思っただけだろ」

「どうだか、コヨーテの女癖の悪さは有名だから。気づくまで付き合ってたわたしもバカだったわ」

「身体はいいのに早とちりなんだよ。ターゲットじゃねぇ相手も間違えて狙撃しそうだぜ」

「あんたの股の貧相な銃以外は慎重に扱うわよ」

「銃はね。てことは早とちりは当たりってわけだ」


 ――ふふっ。


 そのとき、微かな笑い声が聞こえて二人の大人は音源の少女を見た。

「……珍しいわ」

 驚いたようにアガーテは呟く。

「アリスがこんな簡単に笑うなんて」


「そうなの?」

 不思議そうにデイビッドがアリスの顔を覗くと、少女は恥ずかしがって面を伏せ、やがて無表情に戻ってしまった。

 大人二人は何だかばつが悪くて顔を見合わせ、そこでようやくアガーテは同僚が手にしていた書類に目をやった。


「……ふざけてる場合じゃないか。見せてちょうだい」

「あ、ああ」

 アリスのことも気になったが、デイビッドはファニーの発言を思い出してぎこちない返事をした。アガーテがどう変化するのか、少しわくわくしたのだ。

 書類を渡されても、反応はすぐにはなかった。

 ゆっくりと薄い束である資料を捲り、アガーテの顔付きは日没のように徐々に険しくなっていった。アリベルトと彼女の間にある因縁とやらが、望ましくないのは明らかだった。


「なあ」

 アリスのみならず大人の女までもが無口になり、重苦しい空気が満たされた教室に照明をもたらすように、デイビッドは開口した。

「委員長からそいつの目的はおまえが知ってるって聞いたが、なんか確執があんのか?」

「……ええ」

 意外にも、あっさりとアガーテは理由を話してくれた。


 どのみちターゲットと仕事に掛かるメンバーが決まれば作戦会議に移り、相手の特性を話し合わねばならないが、任務に直接関係ないことは教える必要もない。

 だがアガーテは委曲を尽くしてくれた。

 真意までは言及しなかったが、デイビッドにはアリスのためのように思えた。自分も闇を抱えているとばらすことで心を通わそうとしていると。


 アリスは、SMIに運ばれる原因となった家族の死などについては口にしたがらないらしい。だけならいいが、暗殺者になる動機まで隠されるのは組織にとって困ることだ。

 彼らの仕事は、裏社会でのさらに影のもの。同僚の心気を読めないのは不安要素である。話さない事由に両親の死が関係しているのは、様子から明白だった。

 アガーテはなんとかそこに近付こうとしているのだろう。あるいは、本当にアリスの心痛を和らげたいだけかもしれない。

 ともあれ、アガーテとアリベルトにまつわる物語は、以下だった。



 1942年、スターリングラード攻防戦。ナチスドイツに攻め入られたこの街で、ソ連に一人の英雄が誕生した。

 ヴァシリ・ザイツェフ。ソビエト連邦屈指のスナイパー。

 ウラル山脈の鹿猟で射撃の腕を磨いた彼は、この戦でドイツ兵を二百名も射殺したという。

 暗殺依頼書にも記載されていた、アリベルト・トレープレフの師だ。


 そんな彼の前に立ちはだかったのが、エルヴィン・ケーニッヒ。

 ヴァシリを倒すべく送り込まれたドイツ軍少佐の彼は、今回の大戦で四百人以上もの敵を射殺した名うての狙撃手だという。

 二人は数日に及ぶ激戦を繰り広げたが、最終的にはヴァシリが勝利した。少佐は、波状鉄板の下に潜んでいたところを撃たれ、死んだそうだ。



「ケーニッヒ少佐は異能者だったのよ。記録からは抹消されるでしょうね」

 教卓で寂しげに述べたアガーテへと、アリスの隣にある机の上に座って聞いたデイビッドは言った。

「影法師に日向の仕事をさせるとは、よほど困ってたのか。いや、ナチなら普通か」


 〝日向の問題に日陰がかかわってならず逆も然り〟というのは、近代以降ほぼ世界的に共通する鉄則オメルタとなった。

 破った者には、制裁が世界中どこからでも科されかねず、暗黙の了解で許可されている。近代社会を成り立たせる基盤を歪めうるからだ。


 今起きている戦争にも、これを巡る対立が含まれている。

 自然の法則を歪めるのだから、元来、異能力はともすれば宇宙をも滅ぼしかねないものである。

 産業革命以前はそうした知識を学べる人も限られたし、移動手段も徒歩や馬や帆船、情報伝達速度も手紙や口伝などと遅かったので、異能を身につける者も限定されある程度の管理もされていた。

 しかし近代化に伴い、通常世界でも鉄道や汽船等により移動手段が加速し、無線や電話で情報伝達速度も早まり、国同士が世界の覇権を求めて競い合い勉学にも力が入りだしてからは、異能者が制御できないほどに増殖しかねなくなった。


 かくして、人類は選択を迫られたのだ。

 日向と日陰の袂を分かつことで日陰に社会的な負担を強いつつ自然を超えられる異能を適した場所で使うことを認めそれを補い、また山羊羊効果で一般に異能は無いものと扱うことで極力新たな異能者の覚醒を抑える選択である。


 枢軸国はこれに反発した国々だ。

 見渡せば彼らが、異能を中心に据えているのがわかる。

 数多の信仰を集めるローマ教皇が座するイタリア、トゥーレ協会という神秘主義的秘密結社を母体とするナチス、現人神天皇への信仰を利用する日本。どれも山羊羊効果を効果的に活用しており、連合国は逆を選んだのだ。

 まだ科学的には認知されたばかりなので枢軸国でも公に影は伏せられており利用も実験的なものだが、ケーニッヒ少佐のような人物が日向の戦場に送られてもさほど不自然ではない。


「で。……ケーニッヒ少佐がどうしたんだ?」

 デイビッドが遠慮がちに訊くと、やや迷うような沈黙を挟んだあと、アガーテは告白した。

「少佐は、狙撃の師匠なの。おそらく、子ウサギ――アリベルトの狙いもわたしね」

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