軽い調子でドアがノックされた。
メインの照明を落とした部屋でベッドに横になり、傍らの棚に載る電気スタンドの光の中でラジオに聞き入っていたエイブ・レルズは、面倒そうに上体を起こした。
ドアノブに手を掛けて迷ったが、安全な身の上であることを思い出してすぐに開ける。
「ずいぶん変わったサツだな」
小太りの身体をよれよれのスーツに包む彼は、廊下に立つ珍客に対面するなり言った。
そこには小柄な老人がいたのだ。
白髪は頭頂部が禿げ、長い顎ひげも白く、目つきは優しく、医者みたいな白衣を着て眼鏡を掛けていた。
老いた外見のわりに背筋が真っ直ぐで、やたらと姿勢がいい。後ろで手を組んで胸を張っている。
「警官じゃあないよ、キッド・トゥイスト」
白い老人は東海岸訛りで否定した。
「ついでに日向の人間でもないがね」
「……それは、ありえない話だ」
レルズは鼻で笑った。
日向の人間でないとは、影の住人だということだ。この世には、限られた人材しか知らないものの、超自然が支配する影の世界が今も生きている。そこに属する人物が日向の問題に直接関わることは許されないのだ。
だのに老人は、真面目な顔付きで反論した。
「日向のやつらで我々に通じる者は限られる。だいいち、常人がどうやってここに来れるんだい」
確かに、レルズはホテルの六階一室で警察に二四時間体制で警護されているのだ。
こんな妙な人間が容易く近付けるわけがない。
「はん、なるほどな」
レルズは太い眉を顰めつつ、戸を大きく開けて老人を招き入れた。
「わざわざ影の使いをよこすとは、よっぽど困ったらしいな。条件は?」
マフィア同士の抗争に手を貸す暗殺組織の一員であるレルズが捕まってから、減刑と引き換えに行った内情の暴露により組織は瓦解しかけている。
レルズは口封じを予期していたが、そいつが影の人間だったことに安心していた。
影はレルズのような日向の人間には通常手出しできない。せいぜいできて話し合いである。
ところが、老人は宣告したのだった。
「取引するつもりはない、さよならさ」
「つまらねぇ冗談だ。影が日光浴するのは御法度だぜ。交渉しかありえないだろ、本題に入れよ」
嘲笑いながらレルズはベッド脇に歩き、電気スタンドの載る棚に片手を着いて寄りかかった。
そこには聖書も置いてある。大きめのやつだ。
「そうだな、本題に移ろう」
入室して部屋の真ん中辺りにあるテーブルの近くまで行き、レルズには背を向けながら老人は話した。
「君は歌がうまいんだってな、カナリアのように」
「もしかしてそいつが条件か」
レルズは聖書を手に取って弄びながら、心なしか眼差しを鋭くして老人の背中に突き刺した。
「一曲聞くかい?」
「いや、飛んでもらおう」
「……あん?」
一瞬の沈黙。
振り返った老人と、レルズの目線がぶつかった刹那。
一閃。
宙を舞った聖書が床に落ちたとき、レルズは老人の脇を掠めて反対側にいた。
老人の頬には一筋の傷。
転がった聖書は中身がくり貫かれていた。レルズの手にはアイスピック。内通者が彼の泊まる部屋の情報を事前に入手して先に宿泊、護身用にと隠しておいたのだ。
老人は後ろに回ったレルズともう一度対面し、頬に流れた血をヤギのような舌で舐めた。
「さすがはアイスピック使いの達人。禁酒法も終わったんだ。バーテンにでも転職してりゃ、長生きできたのにねえ」
「あんたもあれを交わすとはなかなかだが、……本気とはな」
レルズは冷や汗を額に浮かべながらも、動揺を悟られないようおどけた調子で肩を竦めた。
「ボケてんのか爺さん? あんたらがお天道さんに刃向かうのは自然の摂理に反する。全ての影を敵に回すんだぞ。一方から強く差すだけの陽光は影を濃くするが、包み込むような光は影を消すし、闇に呑まれりゃ影法師がわからなくなっちまうんだぜ」
「そう鳴くなよカナリア」
老人が警告した途端。レルズは何も話せなくなり、喉を押さえた。
だがすぐに飛びかかった。
〝特異能力〟の片鱗を披露された上、相手は本気らしいのだ。こういう連中を敵にしては、常人は隙など作れない。
「つつくな、行儀が悪いぞ」
レルズのアイスピックは注意した老人の首の一寸手前で静止した。
石像のようになって震えるレルズをよそに、老人は窓に近寄って開けた。
不吉な風がカーテンを踊らせると、彼は月を見上げ、歌うように命じたのだった。
「
1942年11月12日、エイブ・〝キッド・ツイスト〟・レルズはコニーアイランドのハーフ・ムーン・ホテル六階から、謎の転落死を遂げた。
彼の亡骸は、ニューヨークのマウント・カーメル墓地に眠っている。